あかつき荘の灯

第十三話 三つのスイッチ

 穂村まひるの実家が店を閉めると決まったのは、八月の終わりだった。
 電話は、母からだった。
「まひる。うち、九月いっぱいで閉めるから」
「え」
「父さん、腰がね。もう厨房に立てないの」
「……そう」
「あんたに言うか迷ったんだけどさ。言わないで閉めたら、あんた、怒るでしょ」
 まひるは、廊下の隅で、しばらく携帯を耳に当てたまま、何も言えなかった。
「まひる?」
「うん」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてるでしょ」
 母は、少し笑った。
「泣かなくていいよ。三十二年やったの。よくやったほうよ」
 電話を切って、まひるは台所に戻った。
 そこに、灯がいた。夜中の一時である。
 灯は、鍋にお湯を沸かしているところだった。
「穂村さん、インスタント、食べます?」
 まひるは、その顔を見た瞬間に、決壊した。
 灯は、何も聞かずに、火を止めた。
 止めて、まひるが泣き終わるまで、隣に立っていた。

 九月の三連休、あかつき荘の住人は、山形へ行った。
 言い出したのは、灯である。
「最後の三日間、店、忙しいですよね」
「そりゃ、まあ。常連さんが来るだろうし」
「じゃあ、手伝いに行きます」
「え、いや、そんな」
「人手、足りますか」
「……足りない」
「じゃあ、行きます」
 灯は、そのまま東雲弓子のところへ行って、四人分の休みを申請した。
 結果として、行ったのは五人だった。
 久瀬冬吾。佐分利晴。鹿沼律。朝倉灯。そして、まひる。
 さらに、新幹線のホームで、六人目がいた。
「え」まひるは、声を上げた。「監督?」
 雨宮千景は、リュックを背負って、麦わら帽子をかぶっていた。九月なのに。
「東雲さんに聞いた」
「聞いたって」
「人手が足りないんだろ」
「足りてます!」
「じゃあ、俺が食べる」雨宮は言った。「客としてなら、いいだろ」
 まひるは、その場で、また泣きそうになった。
 泣かなかったのは、律が「監督が泣かせてどうすんですか」と茶々を入れたからだ。

 「食堂ほむら」は、国道沿いにあった。
 まひるが話していたとおりの店だった。駐車場だけが無駄に広く、建物は平屋で、ベージュの外壁は日に灼けて白っぽくなっている。
 入口の脇に、木の看板が立っていた。
 「ほむら食堂」の文字の下に、電球が四つ。
「これ、ほんとに点くの?」晴が聞いた。
「点くよ。夜になったらね」
 厨房には、まひるの父がいた。六十代半ばの、無口な人だった。まひるが「東京の友達」と紹介すると、彼は、うん、と一度だけ頷いた。
 母は正反対で、よく喋った。
「まあまあまあ! こんな遠くまで! ほんとに手伝ってくれるの? 娘が変なこと言ってません?」
「言ってます」冬吾が真顔で言った。
「でしょう!」
 三日間、六人は働いた。
 冬吾は皿洗いをやった。無言で、正確に、驚異的な速度で洗った。
 晴はホールに立った。声が通るので、注文を通すのがうまかった。「唐揚げ定食、いっちょー!」と言うたびに、常連の年寄りたちが笑った。
 律はレジと会計をやった。計算が速かった。
 灯は、その全部を回した。
 誰がどこに立つか、いつ休憩を入れるか、皿が足りなくなるのはいつか。それを、たった半日で把握した。
「あんた、なんの仕事してんの」まひるの母親が聞いた。
「制作進行です」
「なにそれ」
「――こういう仕事です」灯は言った。
 雨宮は、店の隅のテーブルに座って、ずっと本を読んでいた。
 時々、顔を上げて、店の中を眺めていた。
 注文したのは、初日が唐揚げ定食、二日目が中華そば、三日目が、また唐揚げ定食だった。

 最終日の夕方。
 九月二十三日、午後五時五十八分。
 店の中には、常連が十二人いた。近所の農家。トラックの運転手。近くの工場の従業員。中学生の男の子が三人。
 まひるの母が、まひるを呼んだ。
「まひる。あんた、やりな」
「え」
「電気。あんた、好きだったでしょ」
 まひるは、動けなかった。
 背中を押したのは、灯だった。
「穂村さん」
「……うん」
 まひるは、厨房の脇の壁へ行った。
 そこに、古いスイッチが三つ並んでいる。上から、厨房、店内、看板。
 まひるは、右手を上げた。
 一つ目。
 厨房の蛍光灯がついた。白い光が、ステンレスの上を滑った。父の白髪頭が、その下で光った。
 店の中が、少しだけ他人行儀になった。まひるはいつも、この瞬間が少し苦手だった。
 二つ目。
 店内のオレンジの灯が、いっせいについた。
 カウンターの木目が、急に色を持った。醤油差しが光った。年寄りの一人が、湯呑みを持ち上げて、「おっ」と言った。
 うちの店になった、とまひるは思った。
 三つ目。
 まひるは、指を止めた。
 窓の外を見た。
 外は、まだ、うっすらと明るかった。九月の六時は、そういう時間だ。
 まひるは、スイッチを下げた。
 看板の電球が四つ、点いた。
 その瞬間、窓の外が、暗くなった。
 物理的に暗くなったわけではない。看板が点いたことで、外の明るさの基準が変わったのだ。だから、外は急に、夜になる。
 そして、店の中だけが、この世界でいちばん明るくなる。
 まひるは、振り返った。
 店の中の全部が、そこにあった。
 父。母。カウンターの常連。中学生。皿を拭く冬吾。伝票を持った晴。レジの前の律。そして、店の真ん中に立って、こちらを見ている灯。
 いちばん奥のテーブルに、雨宮が座っていた。
 彼は、本を閉じていた。
 閉じて、店の中を見ていた。
 その顔は、まひるが今まで見たことのない顔だった。
 ――泣きそうな顔だ、と、まひるは思った。
 いや、違う。
 あれは、何かを、見つけた人の顔だ。
 まひるは、その顔を、たぶん一生忘れないと思った。

 その夜、閉店後、店の中で小さな宴会があった。
 常連の年寄りたちが持ち寄った酒と、余った食材で作った料理と、母が焼いた大量の卵焼き。
 午後十時過ぎ、雨宮がまひるのところへ来た。
「穂村さん」
「はい」
「今の、何秒だった?」
「え?」
「三つのスイッチ。一つ目から三つ目まで、何秒あった?」
 まひるは、少し考えた。
「……たぶん、九秒くらいです」
「九秒」
「一つ目と二つ目のあいだが、三秒。二つ目と三つ目のあいだが、六秒です。三つ目の前だけ、私、いつも、ちょっと待つので」
「なんで待つの」
「外を、見るからです」
 雨宮は、頷いた。
 そして、ポケットから小さなメモ帳を出して、何かを書いた。
 まひるは、その手元を見て、息を呑んだ。
 雨宮千景が、メモを取るところを、この家に来て四年、初めて見た。
「監督」
「うん」
「それ、なんですか」
 雨宮は、メモ帳を閉じた。
「なんでもない」
 彼は言った。
 そして、少し笑った。
「――ありがとう、穂村さん。今日、来てよかった」
 まひるは、返事ができなかった。
 その代わりに、深く、頭を下げた。
< 14 / 38 >

この作品をシェア

pagetop