あかつき荘の灯
第十四話 畳の上の六人
その夜、六人は、店の二階に泊まった。
まひるが生まれ育った家である。八畳の和室に、布団が六組。壁には、まひるが小学生のときに描いた絵が、まだ画鋲で留めてあった。
「これ、なに」冬吾が絵の前で立ち止まった。
「見ないで」
「これ、なに」
「見ないでって言ってるでしょ!」
「夕焼け?」
「……そうです」
「うまいな」
まひるが、絶句した。
「久瀬さんが人の絵を褒めた」晴が言った。「私、証人になります」
電気を消したのは、深夜一時だった。
六人が、暗い和室で、天井を見ていた。
誰も、すぐには眠らなかった。
「……なんか」晴が言った。「修学旅行みたいですね」
「俺、修学旅行、行ってない」律が言った。
「なんでですか」
「金がなかったから」
律は、あっさりと言った。
部屋が、少し静かになった。
「うち、母親が一人でさ。妹が三人いんの」
「知らなかった」まひるが言った。
「言ってないもん」
「……そっか」
「別に、不幸自慢じゃないよ」律は言った。「ただ、金がなかったってだけ。飯は食えてた」
しばらく、誰も喋らなかった。
それから、律が続けた。
「でさ、俺、高二のときに、初めて、自分で稼いだ金で、DVD買ったんだよ」
「なに買ったんですか」晴が聞いた。
「『ヨルノハテ』のボックス」
部屋の空気が、動いた。
「一万八千円。バイト三か月。妹が『お兄ちゃん頭おかしい』って言った」
誰かが、小さく笑った。
「俺さ」
律の声は、天井のほうを向いていた。
「あれ観たとき、初めて、『俺にも書けるかも』って思ったんだよ」
その言葉に、まひるは、少しだけ、ひやりとした。
「――『俺にも』?」晴が聞いた。
「うん」
「私は、そう思わなかったです」
晴の声は、まっすぐだった。
「私は、『この人には一生かなわない』って思いました」
「……」
「だから、声のほうに行ったんです。書くほうは、無理だって、すぐわかったので」
律は、答えなかった。
答えないまま、寝返りを打つ音がした。
「久瀬さんは?」まひるが聞いた。
「俺は」冬吾の声がした。「俺は、あれ、リアルタイムでは観てない」
「え、意外」
「二十歳で、専門にいたからな。深夜アニメなんか観てる暇なかった。観たのは、二十六のときだ。体が動かなくなる、ちょっと前」
「どうでした」
「腹が立った」
「なんでですか」
「うまいから」
冬吾の声は、笑っていた。
「あんなもんを二十四で書かれたら、こっちは、たまったもんじゃない」
みんなが笑った。
笑ったあと、しばらくして、まひるが聞いた。
「朝倉さんは?」
灯は、答えなかった。
「朝倉さん?」
「……寝ちゃったんじゃないですか」晴が言った。
まひるは、暗がりの中で、灯のほうを見た。
灯は、目を開けていた。
天井を見ていた。
目が、光っていた。
まひるは、それを見て、何も言わなかった。
この家の人間は、みんな、その線引きが上手かった。
午前三時。
灯は、そっと布団を出た。
階段を降りて、店を通り抜け、裏口から外に出た。
国道は、深夜でもトラックが通った。ときどき、大きな影が音を立てて通り過ぎ、そのたびに、あたりが一瞬明るくなって、また暗くなった。
駐車場の隅に、人影があった。
雨宮千景が、コンクリートの車止めに腰かけて、煙草を吸っていた。
「あ」灯は、思わず声を出した。「監督、煙草」
「吸うよ」
「知りませんでした」
「家では吸わないから」雨宮は、煙を吐いた。「若いのが真似すると困る」
灯は、少し離れたところに立った。
「眠れないんですか」
「うん。朝倉さんは」
「私もです」
しばらく、二人とも黙っていた。
トラックが一台、通った。
「――さっき、思い出したんだ」雨宮が言った。
「はい」
「昔さ、俺が二十四のとき、書いた話があって」
灯の心臓が、はねた。
「それの最終回で、女の子が、夜の国道を歩くんだよ」
「……はい」
「今日、店を閉めて、外に出て、この国道を見たときに、思い出した」
雨宮は、煙草を足元で消して、携帯灰皿に入れた。
「あの子も、こういうところを歩いたのかなって」
灯は、動けなかった。
喉が、締まっていた。
「――監督」
「うん」
「その子は」
灯は、言葉を選んだ。一語ずつ、慎重に。
「その子は、たぶん、寒かったと思います」
雨宮が、灯のほうを見た。
「うん」
「でも、たぶん」
灯は、国道の先を見た。
その先は、暗くて、何も見えなかった。
「――ひとりでは、なかったと思います」
雨宮は、何も言わなかった。
長いあいだ、何も言わなかった。
それから、立ち上がって、ズボンの尻をはたいた。
「そうだといいな」
彼は、そう言った。
声が、少しだけ、掠れていた。
「戻ろう。冷える」
「はい」
二人は、裏口から店に戻った。
店の中は、真っ暗だった。
雨宮が、手探りでスイッチを探した。
「監督」
「うん?」
「点けないでください」
灯は言った。
「今日は、もう、点けないほうがいいと思います」
雨宮は、しばらく暗闇の中に立っていた。
「……そうだな」
彼は、手を下ろした。
二人は、真っ暗な食堂の中を、手探りで歩いた。
その途中で、灯の指先が、一度だけ、雨宮の手の甲に触れた。
どちらも、何も言わなかった。
まひるが生まれ育った家である。八畳の和室に、布団が六組。壁には、まひるが小学生のときに描いた絵が、まだ画鋲で留めてあった。
「これ、なに」冬吾が絵の前で立ち止まった。
「見ないで」
「これ、なに」
「見ないでって言ってるでしょ!」
「夕焼け?」
「……そうです」
「うまいな」
まひるが、絶句した。
「久瀬さんが人の絵を褒めた」晴が言った。「私、証人になります」
電気を消したのは、深夜一時だった。
六人が、暗い和室で、天井を見ていた。
誰も、すぐには眠らなかった。
「……なんか」晴が言った。「修学旅行みたいですね」
「俺、修学旅行、行ってない」律が言った。
「なんでですか」
「金がなかったから」
律は、あっさりと言った。
部屋が、少し静かになった。
「うち、母親が一人でさ。妹が三人いんの」
「知らなかった」まひるが言った。
「言ってないもん」
「……そっか」
「別に、不幸自慢じゃないよ」律は言った。「ただ、金がなかったってだけ。飯は食えてた」
しばらく、誰も喋らなかった。
それから、律が続けた。
「でさ、俺、高二のときに、初めて、自分で稼いだ金で、DVD買ったんだよ」
「なに買ったんですか」晴が聞いた。
「『ヨルノハテ』のボックス」
部屋の空気が、動いた。
「一万八千円。バイト三か月。妹が『お兄ちゃん頭おかしい』って言った」
誰かが、小さく笑った。
「俺さ」
律の声は、天井のほうを向いていた。
「あれ観たとき、初めて、『俺にも書けるかも』って思ったんだよ」
その言葉に、まひるは、少しだけ、ひやりとした。
「――『俺にも』?」晴が聞いた。
「うん」
「私は、そう思わなかったです」
晴の声は、まっすぐだった。
「私は、『この人には一生かなわない』って思いました」
「……」
「だから、声のほうに行ったんです。書くほうは、無理だって、すぐわかったので」
律は、答えなかった。
答えないまま、寝返りを打つ音がした。
「久瀬さんは?」まひるが聞いた。
「俺は」冬吾の声がした。「俺は、あれ、リアルタイムでは観てない」
「え、意外」
「二十歳で、専門にいたからな。深夜アニメなんか観てる暇なかった。観たのは、二十六のときだ。体が動かなくなる、ちょっと前」
「どうでした」
「腹が立った」
「なんでですか」
「うまいから」
冬吾の声は、笑っていた。
「あんなもんを二十四で書かれたら、こっちは、たまったもんじゃない」
みんなが笑った。
笑ったあと、しばらくして、まひるが聞いた。
「朝倉さんは?」
灯は、答えなかった。
「朝倉さん?」
「……寝ちゃったんじゃないですか」晴が言った。
まひるは、暗がりの中で、灯のほうを見た。
灯は、目を開けていた。
天井を見ていた。
目が、光っていた。
まひるは、それを見て、何も言わなかった。
この家の人間は、みんな、その線引きが上手かった。
午前三時。
灯は、そっと布団を出た。
階段を降りて、店を通り抜け、裏口から外に出た。
国道は、深夜でもトラックが通った。ときどき、大きな影が音を立てて通り過ぎ、そのたびに、あたりが一瞬明るくなって、また暗くなった。
駐車場の隅に、人影があった。
雨宮千景が、コンクリートの車止めに腰かけて、煙草を吸っていた。
「あ」灯は、思わず声を出した。「監督、煙草」
「吸うよ」
「知りませんでした」
「家では吸わないから」雨宮は、煙を吐いた。「若いのが真似すると困る」
灯は、少し離れたところに立った。
「眠れないんですか」
「うん。朝倉さんは」
「私もです」
しばらく、二人とも黙っていた。
トラックが一台、通った。
「――さっき、思い出したんだ」雨宮が言った。
「はい」
「昔さ、俺が二十四のとき、書いた話があって」
灯の心臓が、はねた。
「それの最終回で、女の子が、夜の国道を歩くんだよ」
「……はい」
「今日、店を閉めて、外に出て、この国道を見たときに、思い出した」
雨宮は、煙草を足元で消して、携帯灰皿に入れた。
「あの子も、こういうところを歩いたのかなって」
灯は、動けなかった。
喉が、締まっていた。
「――監督」
「うん」
「その子は」
灯は、言葉を選んだ。一語ずつ、慎重に。
「その子は、たぶん、寒かったと思います」
雨宮が、灯のほうを見た。
「うん」
「でも、たぶん」
灯は、国道の先を見た。
その先は、暗くて、何も見えなかった。
「――ひとりでは、なかったと思います」
雨宮は、何も言わなかった。
長いあいだ、何も言わなかった。
それから、立ち上がって、ズボンの尻をはたいた。
「そうだといいな」
彼は、そう言った。
声が、少しだけ、掠れていた。
「戻ろう。冷える」
「はい」
二人は、裏口から店に戻った。
店の中は、真っ暗だった。
雨宮が、手探りでスイッチを探した。
「監督」
「うん?」
「点けないでください」
灯は言った。
「今日は、もう、点けないほうがいいと思います」
雨宮は、しばらく暗闇の中に立っていた。
「……そうだな」
彼は、手を下ろした。
二人は、真っ暗な食堂の中を、手探りで歩いた。
その途中で、灯の指先が、一度だけ、雨宮の手の甲に触れた。
どちらも、何も言わなかった。