あかつき荘の灯

第十五話 いない子

 氷室玲奈が初めてスタジオ・アカツキに現れたのは、十月の第二週だった。
 新作『渚を数える』の原作者である。
 三十六歳。デビュー十二年目。三年前に出した長編が三十万部を超えて、そこから一気に名前が売れた。灯も、その本を読んだことがあった。
 実物は、写真より小柄だった。
 黒いパンツに、白いシャツ。化粧はほとんどしていない。髪を後ろで無造作にまとめて、大きな布のトートバッグを肩にかけている。
「はじめまして。氷室です」
 打ち合わせ室で名刺を出されて、灯は慌てた。
「あ、あの、朝倉です。制作進行の」
「知ってる。雨宮くんが言ってた」
 灯の指先が、名刺の縁で止まった。
「……監督が、ですか」
「『すごく仕事のできる子が入った』って。あの人が人を褒めるの、珍しいのよ」
 氷室玲奈は、笑った。
 笑うと、目尻に細い皺が寄って、急に近く感じられる顔になった。
「雨宮くん」と、この人は呼ぶのだ、と灯は思った。
 その日の打ち合わせは、三時間かかった。
 原作の第四章をどう再構成するか、という話で、雨宮と氷室は、遠慮なく言い合った。
「そこ、削ったら、この子の理由がなくなる」
「理由は要らないよ。理由を説明した瞬間に、この子は普通の子になる」
「普通の子でいいのよ」
「よくない」
「よくないのは、あなたの趣味でしょう」
 灯は、議事録を取りながら、その応酬を聞いていた。
 二人の言葉には、間がなかった。
 相手の言葉が終わる〇・五秒前に、次の言葉が始まる。
 これは、と灯は思った。
 これは、長く一緒にいた人間の、喋り方だ。

 打ち合わせのあと、灯はエレベーターまで氷室を送った。
 ビルの一階で、氷室が振り返った。
「朝倉さん」
「はい」
「このあと、少し時間ある?」
 断る理由が、思いつかなかった。
 入ったのは、駅前の、古い喫茶店だった。氷室は迷わず奥の席に座って、迷わずウインナコーヒーを頼んだ。
「ここ、十四年通ってるの」
「十四年」
「雨宮くんと知り合ったのが、ここだから」
 灯は、水のグラスを持つ手を、机の上に置いた。
「私、その頃、この近くの出版社でバイトしてたの。彼は、二十二か三で、原稿用紙持って歩いてた。手書きよ、手書き。今どき」
「……はい」
「あの人ね、あの頃から、変わってない」
 氷室は、運ばれてきたコーヒーの、生クリームを崩さないように、ゆっくりとスプーンを入れた。
「変わってないっていうのは、褒め言葉じゃないわ」
 灯は、黙っていた。
「私と彼は、三年、付き合ってた」
 言われても、灯は、驚かなかった。
 驚かなかったことに、自分で少し驚いた。
「二〇〇九年から、二〇一二年まで。ちょうど、彼が壊れてた頃」
「……」
「私が別れたの」
 氷室は、コーヒーを一口飲んだ。
「理由、聞きたい?」
 灯は、迷った。
 迷って、正直に答えた。
「聞きたいです」
 氷室は、少し笑った。
「素直ね。いいわ」
 彼女は、カップを置いた。
「――あの人が、いない子のほうを見てたから」
 窓の外を、バスが通った。
 喫茶店の中は、静かだった。
「知ってるでしょ。十一年前の、あの騒ぎ」
「はい」
「あの人、あの子を探してた。私と付き合ってた三年間、ずっと探してた」
 氷室の声は、淡々としていた。
「休みの日に、群馬に行くの。中学校の前に立ってる。何をするわけでもない。ただ、下校の時間に、校門の前に立ってる」
「……」
「私、一回だけ、ついていったことがある」
 氷室は、窓のほうを見た。
「雨の日だった。傘さして、二時間立ってた。そのあいだに、女子中学生が、五十人くらい通ったと思う。あの人、全員の顔を、見てた」
 灯は、テーブルの下で、拳を握った。
「帰りの電車で、私、言ったの。『やめなさい』って」
「監督は、なんて」
「『はい』って言った」
 氷室は、笑った。
 その笑い方は、苦笑ぎみに。
「そのあと、三か月やめて、また行った」
 灯は、目を伏せた。
「私、あの人が悪い人だと思ったことは、一度もないの」
 氷室は言った。
「むしろ、良すぎるのよ。良すぎて、自分の人生を、知らない女の子一人に、まるごと差し出してる」
「……」
「私はね、朝倉さん」
 氷室は、灯を、まっすぐに見た。
「そのあいだ、ずっと、その子に嫉妬してたの」
 灯は、顔を上げた。
「会ったこともない、名前も知らない、顔も知らない、たぶんもう二十いくつになってる、どこかの女の子に」
 氷室は、生クリームの残りを、スプーンですくった。
「馬鹿みたいでしょう」
「……いえ」
「馬鹿みたいなのよ。だから、別れたの」
 沈黙が落ちた。
 灯は、水のグラスを両手で包んだ。冷たかった。
「あの」
「なに」
「その子は」
 灯は、慎重に言葉を選んだ。
「その子が、もし、見つかったら」
「うん」
「監督は、どうなると思いますか」
 氷室は、少し考えた。
 考えて、こう言った。
「――たぶん、書けるようになる」
「本当に、そう思いますか」
「思う」
 氷室は、断定した。
「あの人はね、才能で書く人じゃないの。責任で書く人なの。今、責任が宙に浮いてるから、書けないだけ」
 灯は、そのことを、噛みしめた。
 責任が、宙に浮いている。
 その責任の片方の端を、灯は、十一年、鞄の底に入れて持ち歩いている。
「でもね」
 氷室が言った。
「私は、正直に言うと、その子には、出てきてほしくないと思ってた」
 灯は、息を止めた。
「出てきたら、あの人は、たぶん、その子のものになるから」
「……」
「私が別れたのは、二〇一二年。もう七年よ。今さらどうこう思ってるわけじゃないの。ただ」
 氷室は、伝票を取った。
「あの人の隣は、ずっと空いてる、っていう話」
 灯は、その言葉を、うまく飲み込めなかった。
 喫茶店を出て、駅の改札の前で、氷室が振り返った。
「朝倉さん」
「はい」
「あなた、なんで泣きそうな顔してるの」
 灯は、慌てて顔をこすった。
「……してました?」
「してた。打ち合わせのときから、ずっと」
 氷室は、トートバッグを肩にかけ直した。
 そして、少しだけ、目を細めた。
「私ね、小説を書く人間だから、人の顔を見るときに、ろくなことを考えないの。ごめんね」
「いえ」
「あなたの顔は、私が二〇一一年頃にしていた顔と、同じよ」
 灯は、動けなかった。
「――誰にも言えないことがある人の顔」
 氷室は、それだけ言って、改札を通った。
 振り返らなかった。
 灯は、しばらくその場に立っていた。
 夕方の駅前で、人が流れていった。
 灯の鞄の底には、十一年前の便箋が七枚、入ったままだった。
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