あかつき荘の灯

第十六話 四十八件目

 佐分利晴の四十八件目のオーディションの結果は、十月十八日の午後三時、メールで届いた。
 件名は「オーディション結果のご連絡」。
 晴は、コンビニのバイトの休憩中に、それを開いた。

  このたびは弊社オーディションにご参加いただき、誠にありがとうございました。
  厳正なる審査の結果、佐分利晴様には、女生徒Bの役をお願いしたく――

 晴は、三回読んだ。
 三回読んで、それでも意味がわからなくて、四回目でようやく理解した。
 受かった。
 声が出なかった。
 バックヤードの床に、しゃがみこんだ。
 店長が「どうした」と覗きに来て、晴は「なんでもないです」と言って、そのまま二分間、動かなかった。

 役は、一言だった。
 第六話。教室のシーン。主人公が席を立ったあとで、女生徒Bが、隣の女生徒Aに向かって、こう言う。

  「――行っちゃった」

 それだけである。
 台本にして、一行。
 時間にして、一・二秒。
 晴は、その一行を、二週間、練習した。
 あかつき荘の自分の部屋で、風呂場で、坂道で、練習した。まひるが「もう聞き飽きた」と笑い、冬吾が「四十七通り試したのか」と言った。
「五百通り試しました」
「多いな」
 アフレコは十一月の頭だった。
 スタジオに入ると、そこには十七人の声優がいた。晴は、いちばん端のマイクだった。
 主役をやっている人は、晴が中学のときからずっと聞いていた声の人だった。
 その人は、晴に、こう言った。
「はじめまして」
「は、はじめまして、佐分利晴です。よ、よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
 それだけだった。
 それだけのことで、晴は、家に帰ってから泣いた。
 本番は、一回で通った。
 音響監督が「はい、OKです」と言った。
 晴は、頭を下げて、マイクの前を離れた。
 スタジオを出て、廊下に出て、非常階段のところで、こぶしを一回だけ、握った。
 声は出さなかった。
 出したら、たぶん、みっともないくらいの声が出たと思う。

 放送は、十二月十日の深夜だった。
 あかつき荘の居間に、住人が全員集まった。
 東雲弓子が缶ビールを買ってきて、まひるが唐揚げを揚げて、冬吾がテレビの位置を調整して、律が「うるさいから静かに」と言った。
 雨宮千景も、部屋の隅に座っていた。
「第六話ですよね」まひるが確認した。
「はい。教室のシーンです」
「どのへん?」
「たぶん、九分くらいのところです」
 番組が始まった。
 全員が、黙って見た。
 九分が来た。
 教室のシーンになった。
 主人公が、席を立った。
 カメラが、教室の後ろに引いた。
 女生徒が二人、映った。
 ――そして、そのままシーンが変わった。
 部屋が、静まりかえった。
「……あれ」まひるが言った。
 晴は、テレビを見ていた。
 まばたきを、していなかった。
「ちょっと待って、今」
「カットされてる」冬吾が、静かに言った。
 誰も、何も言えなかった。
 律が「編集で尺が」と言いかけて、やめた。
 晴は、しばらくテレビを見ていた。
 それから、立ち上がった。
「すみません、私、ちょっと」
「晴ちゃん」まひるが立った。
「大丈夫です」
 晴は、笑った。
 笑って、居間を出た。
 廊下を歩いて、玄関で靴を履いた。
 外に出た。
 十二月の夜は、冷えていた。息が白い。
 晴は、坂の途中まで降りて、そこで、しゃがみこんだ。
 声を出して泣いた。
 誰もいないから、思いきり泣いた。
 どれくらいそうしていたか、わからない。
 背中に、声がした。
「佐分利さん」
 晴は、振り向かなかった。
 振り向かないまま、言った。
「――監督。見ないでください」
「見てない」
 雨宮の声は、少し離れたところから聞こえた。
 彼は、坂の上に立ったまま、降りてこなかった。
「ひとつ、聞いていい?」
「……はい」
「あの一言、何通り考えた?」
 晴は、鼻をすすった。
「五百です」
「五百」
「はい」
「五百のうち、いちばんいいのは、どれだった?」
「……三百二十七番目のです」
「覚えてるんだ」
「覚えてます」
 風が吹いた。
 晴は、膝を抱えたまま、坂の下を見た。街の灯が、滲んでいた。
「監督」
「うん」
「あれ、誰も聞いてないんです」
「うん」
「私、五百通り考えて、二週間練習して、本番一回でOK出して、それで、誰も聞いてないんです」
「うん」
 雨宮は、否定しなかった。
 慰めなかった。
 ただ、こう言った。
「――音響の人は、聞いた」
 晴は、顔を上げた。
「音響監督と、ミキサーと、演出と、その部屋にいた七人は、あんたの三百二十七番目を、聞いた」
「……」
「そして、そのうちの誰かが、次の仕事のときに、思い出す」
 雨宮は、坂の上から言った。
「思い出さないかもしれない。半分は思い出さない。でも、七人のうち一人が思い出したら、あんたは、次に呼ばれる」
 晴は、袖で目をこすった。
「監督は、思い出しますか」
「俺は今日、テレビで観ただけだから」
「……あ、そうか」
「でもさ」
 雨宮は、少しだけ声を落とした。
「あんたが、この坂で泣いてるのは、覚えとく」
 晴は、そこでまた、泣いた。
 今度は、さっきとは違う泣き方だった。
 雨宮は、坂の上に立ったまま、動かなかった。
 降りてきて肩を抱くようなことは、しなかった。
 ただ、晴が泣き終わって、立ち上がって、坂を上り始めるまで、そこにいた。
 あかつき荘の玄関の灯が、二人の前で、点いていた。
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