あかつき荘の灯

第十七話 高梨灯という名前

 雨宮千景の部屋の、座卓のいちばん下の引き出しには、ノートが十二冊入っている。
 その一番奥に、もう一冊、薄い大学ノートがある。
 背表紙には何も書いていない。
 中には、日付と、場所と、短い記録しかない。

  二〇〇八年五月十一日 高崎 駅東口 五時十分に立つ
  二〇〇八年五月十一日 同 六時、始発から降りてくる女子中学生、十一人
  二〇〇八年六月七日  群馬県K町 中学校前 下校時刻 四十七人
  二〇〇八年六月七日  ――該当なし
  二〇〇八年七月二十日 同 夏休みのため生徒なし

 こういう記録が、五年分ある。
 六年目からは、間隔があく。
 二〇一四年からは、年に二回になった。三月二十一日と、三月二十二日。
 その二日だけは、雨宮は、必ず群馬へ行く。
 行って、駅の東口に立ち、始発の時間から一時間だけ、そこにいる。
 何もしない。
 誰かを探しているのだと自分でも思っていない。
 ただ、その時間に、その場所に、いる。
 二〇一九年三月二十二日にも、行った。
 その一週間後に、朝倉灯の履歴書が、東雲弓子の机の上にあった。

  朝倉 灯  一九九四年一月生まれ
  群馬県高崎市出身
  都内専門学校卒 映像制作科

 雨宮は、その履歴書を、二回読んだ。
 二回読んで、机に戻した。
 群馬。高崎。一九九四年生まれ。
 二〇〇八年三月に、十四歳。
 ――何人いると思ってるんだ、と自分に言った。
 群馬県だけで、その年に十四歳だった人間は、二万人近くいる。高崎市に限っても、数千人だ。
 偶然だ。ただの偶然だ。
 雨宮は、そう結論して、履歴書のことを忘れることにした。
 忘れることにして、面接の日、彼女が部屋に入ってきた瞬間に、思い出した。

 彼が知っている情報は、多くない。
 当時、テレビ局の広報を通じて聞いたのは、こういうことだった。
 保護されたのは、十四歳の女子中学生。氏名は非公表。群馬県内在住。
 名前を知ったのは、二〇〇九年の春だ。
 業界の飲み会で、当時その件を取材した記者と、たまたま同席した。
 記者は、酔っていた。
「あー、あれね。あれ、俺、取材行きましたよ。まあ、ただの家出っすよ、家庭の事情の。アニメは関係ない」
「……名前」
「え?」
「その子の、名前」
 記者は、笑った。
「言えるわけないでしょ」
 言えるわけがない、と言いながら、その記者は、テーブルの上のおしぼりの袋に、ボールペンで、三文字だけ書いた。

  高梨

 そして、その袋を、丸めて、灰皿に入れた。
 雨宮は、その灰皿から、それを拾った。
 拾って、家に帰って、皺を伸ばして、ノートに貼った。
 それが、彼の持っている、唯一の手がかりだった。

 高梨、という名字を、雨宮は五年かけて追った。
 群馬県内の高梨姓。中学校の卒業アルバム。地方紙の名簿。同窓会のホームページ。
 探偵を雇おうと思ったこともある。実際に、事務所の前まで行った。
 入れなかった。
 入って何を頼むのか、自分でもわからなかったからだ。
 「この子を探してください」と言って、そのあと、会って、何をするのか。
 謝るのか。
 謝って、その子は、何をもらえるのか。
 二〇一三年の秋、雨宮は、ひとつのことを知った。
 高崎市内に住んでいた高梨という一家が、二〇一〇年に埼玉へ転出していた。構成は、夫婦と、子ども三人。
 そのうちの一人、一九九四年生まれの長女は、二〇一二年に、その家の戸籍から抜けていた。
 結婚ではない。
 名字が、変わっていた。
 変わった先の名字は、たどれなかった。個人がたどれる範囲の話ではない。
 雨宮は、その夜、酒を飲んだ。
 飲みながら、こう考えた。
 ――名字を変えるということは、家を捨てたということだ。
 その子は、家を捨てた。
 二〇〇八年の三月に、一度、家を出た。そして、二〇一二年に、今度は書類の上で、家を出た。
 じゃあ、あの夜は、始まりだったのか。
 俺の書いた話は、あの子を、家から歩き出させた最初の一歩だったのか。
 わからない。
 わからないことが、雨宮を、いちばん深いところで止めていた。
 その夜、彼は、新しいノートの一ページ目に、こう書いた。

  ――あの子が、生きていたら書く。

 書いてから、自分の書いた字を、長いこと見た。
 これは、卑怯な一行だ、と思った。
 「生きていたら」というのは、確かめられない条件だ。
 確かめられない条件をつければ、永遠に書かなくて済む。
 俺は、書かない理由を、あの子のせいにしている。
 そう思いながら、雨宮は、その一行を消さなかった。
 消せなかった。

 二〇一九年九月。
 新作『渚を数える』の第三話の絵コンテを描きながら、雨宮は、何度か手を止めた。
 止めるたびに、頭に浮かぶのは、あの三連休の山形の、三つのスイッチだった。
 厨房、店内、看板。
 九秒。
 あれは、いい。
 あれは、すごく、いい。
 あの九秒があれば、話が一本書ける。
 書ける、と思った瞬間に、雨宮は、自分の指が震えているのに気づいた。
 十一年ぶりだった。
 「書ける」と思ったのは。
 彼は、その日の夜、書斎で、新しいノートを開いた。
 ページの上に、『あかつき』と書いた。
 そして、その下に、こう書いた。

  ――朝が来なくなった町ではなく、朝を三回に分けて点ける店の話。

 書いてから、彼は、笑った。
 声を出して、一人で笑った。
 馬鹿みたいだ、と思った。
 十一年かけて出てきたのが、これか。
 でも、いい。これでいい。
 彼は、三日で、プロットを最後まで書いた。
 書き終えたのが、九月二十八日の朝である。
 書き終えて、彼はノートを閉じ、引き出しにしまった。
 そして、しばらく、それを出さなかった。
 ――出せなかった。
 書けたことが、怖かったのだ。
 俺は、あの子の消息を知らないままだ。あの一行の条件は、まだ満たされていない。
 なのに、書いてしまった。
 これは、忘れたということじゃないのか。
 雨宮は、その問いに答えられないまま、十月と十一月を過ごした。

 十二月二十一日、土曜日。
 あかつき荘は、静かだった。
 まひるは実家に帰り、晴はバイト、冬吾と律はスタジオ、灯は年末進行で、朝から出ていた。
 雨宮は、書斎で、原稿を探していた。
 三年前の企画書がどこかにあるはずで、それを東雲に渡す必要があった。
 彼は、座卓の下の引き出しを開けた。
 ノートが並んでいる。〇八、〇九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八。
 そして。
 ――〇一九が、ない。
 雨宮は、引き出しの中を、手で探った。
 奥まで探った。
 二段目も開けた。三段目も開けた。
 本の塔を、三つ崩した。
 ない。
 彼は、部屋の真ん中に立って、しばらく、動かなかった。
 窓の外で、枇杷の葉が鳴っていた。
 彼は、引き出しを、静かに閉めた。
 閉めて、部屋を出て、階段を降りた。
 一階の廊下の、いちばん手前の部屋。鹿沼律の部屋の前を、通った。
 通り過ぎた。
 立ち止まらなかった。
 台所へ行って、湯を沸かして、茶を淹れた。
 そして、湯呑みを両手で包んで、椅子に座った。
 ――知らなかったことにしよう。
 彼は、そう思った。
 思って、茶を飲んだ。
 茶は、熱すぎて、舌が焼けた。
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