あかつき荘の灯

第十八話 名前を書く

 鹿沼律が応募の手続きをしたのは、十二月二十九日、午後十一時四十分だった。
 あかつき荘の、一階の自分の部屋。
 六畳。机と、ベッドと、本棚。本棚の三段目には、『ヨルノハテ』のDVDボックスが立っている。一万八千円の、バイト三か月の。
 パソコンの画面には、応募フォームが開いていた。

  第三十四回 新世紀ドラマ大賞 オリジナル脚本部門
  締切:十二月三十一日二十三時五十九分
  賞金:三百万円 / 受賞作は連続ドラマ化を前提に企画開発

 律は、十月から十二月まで、そのフォームを、たぶん百回は開いた。
 開いて、閉じた。
 最初の一か月は、本当に、ただの写経のつもりだった。
 二か月目に、律は、その物語に、手を入れ始めた。
 雨宮のプロットは、あくまでプロットだ。台詞はほとんど書かれていない。人物の内面も書かれていない。
 律は、それを、脚本にした。
 全十一話。四百二十ページ。
 台詞は、律が書いた。全部、律が書いた。
 三か月かかった。
 その三か月は、律の人生で、いちばん幸福な三か月だった。
 書けたのだ。
 書けた。
 朝起きて、パソコンの前に座ると、指が動く。詰まらない。書きたいことがある。書きたい人物がいる。
 こんなことは、初めてだった。
 律は、その三か月のあいだ、何度も、こう思った。
 ――俺には、才能がある。
 骨組みは他人のものだ。でも、この台詞は俺のものだ。この人物の呼吸は、俺が作った。
 だから、これは、俺の作品だ。
 半分は。
 少なくとも、半分は。
 十一月に、律は一度、雨宮に相談しようとした。
 台所で、二人になったときだ。
「監督」
「うん」
「あの、もし」
「うん」
「もし、誰かの考えたアイデアを、別の人が形にしたら、それは、誰のものになるんですかね」
 雨宮は、麦茶を飲みながら、あっさり答えた。
「形にしたほうのもの」
 律の心臓が、大きく鳴った。
「……そう、なんですか」
「アイデアなんか、そのへんに転がってる」雨宮は言った。「一日に十個は思いつくよ。でも、それを最後まで書くやつは、千人に一人もいない。だから、書いたやつが偉い」
「じゃあ、その」
 律は、そこで、口ごもった。
「じゃあ、思いついた人は、何も言えないんですか」
 雨宮は、少しだけ、律のほうを見た。
「言わないと思うよ」
「なんでですか」
「だって、その人は、次のを思いつけばいいだけだから」
 律は、その言葉を、二か月間、抱えていた。
 抱えて、いろんな角度から眺めて、そのたびに、自分に都合よく解釈した。
 あの人は、いいと言った。
 あの人は、アイデアなんか価値がないと言った。
 あの人は、書いたやつが偉いと言った。
 ――違う。
 律には、本当は、わかっていた。
 雨宮千景は、一般論を答えただけだ。
 あの人は、まさか自分のアシスタントが、自分の引き出しからノートを持ち出して、それを脚本にして、大手の賞に出そうとしているとは、想像もしていない。
 それだけの話だ。
 律は、パソコンの画面を見た。
 応募フォームの、いちばん上の欄。

  ペンネーム(必須)

 カーソルが、点滅していた。
 律は、キーボードに指を置いた。
 置いて、動かなかった。
 三分。五分。
 時計が、十一時五十分になった。
 律は、立ち上がった。
 部屋を出て、廊下を歩いた。台所に行って、コップに水を汲んで、飲んだ。
 二階から、物音がした。
 誰かが起きている。
 律は、階段の下から、二階を見上げた。
 いちばん奥の部屋に、明かりがついていた。
 雨宮の書斎だ。
 律は、階段の一段目に足をかけた。
 ――行こう。
 行って、言おう。
 「ノートを持ち出しました。すみません。返します。俺は、それで書きました。捨てます」
 言えば、たぶん、あの人は怒らない。
 あの人は、怒らないのだ。
 「そうか」と言って、ノートを受け取って、それで終わりだ。
 そして。
 そして、それで、終わりなのだ。
 律は、二段目に足をかけて、そこで止まった。
 あの人は、俺に、一度も「才能がある」と言ったことがない。
 四年、隣にいて、一度も。
 律は、階段を降りた。
 降りて、部屋に戻って、ドアを閉めた。
 パソコンの前に座った。
 時計は、十一時五十四分。
 律は、ペンネームの欄に、指を置いた。
 そして、打ち込んだ。

  鹿沼 律

 本名だった。
 ペンネームを使わなかった理由は、律自身にも、うまく説明できない。
 たぶん、どこかで、まだ、逃げ道を作らなかった自分を、褒めたかったのだと思う。
 作品タイトルの欄に、こう打った。

  『あかつき』

 律は、送信ボタンに、カーソルを合わせた。
 目を閉じた。
 開いた。
 クリックした。
 画面が切り替わった。

  ――ご応募ありがとうございました。受付番号:34-1187

 律は、しばらく、その画面を見ていた。
 それから、椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
 天井の板の木目が、人の顔に見えた。
 律は、笑った。
 笑いながら、涙が出た。
 その涙が、嬉しさなのか、罪悪感なのか、あるいは、四年間の何かが終わった安堵なのか、律には、最後まで、わからなかった。
 時計が、十二時を回った。
 二〇一九年十二月三十日になった。
 二階の書斎の明かりは、朝まで、消えなかった。
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