あかつき荘の灯
第三部 崩れる家
第十九話 三月の電話
電話が鳴ったのは、二〇二〇年三月十六日、月曜日の午前十一時過ぎだった。
東雲弓子は、そのとき、スタジオの会議室で、来期の予算表を睨んでいた。
画面に出た名前は、大学の後輩で、今は大手の制作会社にいる男だった。年に二度しか連絡が来ない。
「はい」
「東雲さん、おめでとうございます」
「なにが」
「え、聞いてないんですか」
男の声には、無邪気な明るさがあった。
「新世紀ドラマ大賞。今日、発表されたんですけど。大賞、御社の方ですよ」
弓子は、ペンを置いた。
「――誰」
「鹿沼律さん。アシスタントの方ですよね?」
窓の外を、鳩が横切った。
「うちの局でも話題になってて。審査員三人が満場一致だったって。ちょっと異常なんですよ、あの賞で満場一致は」
「……そう」
「東雲さん、育て方うまいですね。さすが雨宮さんのとこは違うなって、みんな言ってます」
「ありがとう」
弓子は、通話を切った。
切って、パソコンで、賞のサイトを開いた。
トップページに、大きく出ていた。
第三十四回 新世紀ドラマ大賞 大賞
『あかつき』 鹿沼律
あらすじが、五行あった。
――国道沿いの、潰れかけた食堂。三十二年続いたその店の最後の一日を、店の灯を点ける三つのスイッチを軸に描く。
厨房。店内。看板。その九秒のあいだに、家族の三十二年が畳まれていく。
弓子は、その五行を、三回読んだ。
三回読んだあと、椅子の背にもたれて、天井を見た。
二十分ほど、そのままだった。
それから、立ち上がって、会議室を出て、四階に上がった。
雨宮千景は、自分の席で、絵コンテを描いていた。
「雨宮くん」
「はい」
「ちょっと」
二人は、非常階段に出た。
三月の風は、まだ冷たかった。
弓子は、携帯の画面を、雨宮に見せた。
雨宮は、それを見た。
顔色が、変わらなかった。
弓子は、その「変わらなさ」で、確信した。
「――知ってたのね」
「はい」
「いつから」
「十二月です」
弓子は、携帯を下ろした。
手が、震えていた。怒りだったのか、別の何かだったのか、あとになってもわからない。
「なんで、言わなかったの」
「言って、どうなりますか」
「どうなるって、あなた」
「あいつは、四年、うちにいます」雨宮は言った。「四年いて、一本も書けなかった。それが、書いたんです」
「盗んで、でしょう」
「骨は俺のです。肉は、あいつのです」
「そんな理屈が通ると思ってるの!」
弓子の声が、非常階段に響いた。
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
雨宮は、黙っていた。
「わかってる? これ、賞金三百万よ。ドラマ化前提よ。もう発表されたの。これから何十本も取材が入るの。そのあとで発覚したら、どうなると思ってるの」
「……はい」
「あの子の人生が終わるのよ」
雨宮が、顔を上げた。
「――あなたが今、庇ってることは、あの子を守ってるんじゃない。あの子を、崖のいちばん高いところまで押し上げてるの」
雨宮は、しばらく、階段の手すりを見ていた。
それから、言った。
「東雲さん」
「なに」
「俺、十二月に、あのノートがなくなってるのに気づいたとき」
「うん」
「――ほっとしたんです」
弓子は、言葉を失った。
「あのノート、俺、書けたんですよ。十一年ぶりに、自分の話が書けた。書けて、そのあと、二週間、引き出しから出せなかった」
雨宮の声は、低かった。
「怖かったんです。俺が書いていいのか、わからなくて。それがなくなってて、誰かが持っていったってわかったとき、俺、ほっとしたんです。ああ、これで、俺は書かなくていいって」
「……雨宮くん」
「だから、俺は、被害者じゃないです」
彼は、そう言った。
「俺は、あいつに、盗ませたんです」
弓子は、その言葉を、飲み込むのに時間がかかった。
飲み込んで、それから、雨宮の胸を、平手で一度、叩いた。
強くはなかった。
「馬鹿」
「はい」
「あなた、ほんとに、馬鹿」
「はい」
「――で、どうするつもり」
雨宮は、少し考えた。
「どうも、しません」
「しないって」
「あれは、鹿沼律の作品です。俺はそう言い続けます。それで、通るなら、通す」
「通るわけないでしょう」
弓子は言った。
「あなたね、自分が誰だか忘れてるんじゃないの」
雨宮が、顔を上げた。
「雨宮千景よ。十二年前に、深夜アニメで社会現象を起こして、そのあと、女の子を一人家出させたって叩かれて、それっきり自分の話を書いてない男。業界の人間なら、みんな知ってる。みんな、あなたの次の一本を待ってるの」
「待ってないですよ」
「待ってるのよ」
弓子の目が、赤くなっていた。
「その男の家に住み込んでるアシスタントが、いきなり満場一致で大賞を取った。しかも、その内容が、去年の九月にあなたが山形で見たものとそっくりだった。――何人が気づくと思う?」
雨宮は、答えなかった。
「一人でも気づいたら、終わりよ」
弓子は、階段のドアに手をかけた。
「今日中に、あの子と話して。私も同席する」
「東雲さん」
「なに」
「――怒らないでやってください」
弓子は、振り返った。
振り返って、雨宮の顔を見て、それ以上、何も言えなくなった。
この人は、と弓子は思った。
この人は、十二年前から、何ひとつ変わっていない。
自分の作品が誰かを傷つけたと思ったら、自分の人生をまるごと差し出す。
自分のものを盗まれたら、盗んだ人間の人生の心配をする。
――だから、この人は、書けなくなったのだ。
弓子は、ドアを開けて、中に入った。
東雲弓子は、そのとき、スタジオの会議室で、来期の予算表を睨んでいた。
画面に出た名前は、大学の後輩で、今は大手の制作会社にいる男だった。年に二度しか連絡が来ない。
「はい」
「東雲さん、おめでとうございます」
「なにが」
「え、聞いてないんですか」
男の声には、無邪気な明るさがあった。
「新世紀ドラマ大賞。今日、発表されたんですけど。大賞、御社の方ですよ」
弓子は、ペンを置いた。
「――誰」
「鹿沼律さん。アシスタントの方ですよね?」
窓の外を、鳩が横切った。
「うちの局でも話題になってて。審査員三人が満場一致だったって。ちょっと異常なんですよ、あの賞で満場一致は」
「……そう」
「東雲さん、育て方うまいですね。さすが雨宮さんのとこは違うなって、みんな言ってます」
「ありがとう」
弓子は、通話を切った。
切って、パソコンで、賞のサイトを開いた。
トップページに、大きく出ていた。
第三十四回 新世紀ドラマ大賞 大賞
『あかつき』 鹿沼律
あらすじが、五行あった。
――国道沿いの、潰れかけた食堂。三十二年続いたその店の最後の一日を、店の灯を点ける三つのスイッチを軸に描く。
厨房。店内。看板。その九秒のあいだに、家族の三十二年が畳まれていく。
弓子は、その五行を、三回読んだ。
三回読んだあと、椅子の背にもたれて、天井を見た。
二十分ほど、そのままだった。
それから、立ち上がって、会議室を出て、四階に上がった。
雨宮千景は、自分の席で、絵コンテを描いていた。
「雨宮くん」
「はい」
「ちょっと」
二人は、非常階段に出た。
三月の風は、まだ冷たかった。
弓子は、携帯の画面を、雨宮に見せた。
雨宮は、それを見た。
顔色が、変わらなかった。
弓子は、その「変わらなさ」で、確信した。
「――知ってたのね」
「はい」
「いつから」
「十二月です」
弓子は、携帯を下ろした。
手が、震えていた。怒りだったのか、別の何かだったのか、あとになってもわからない。
「なんで、言わなかったの」
「言って、どうなりますか」
「どうなるって、あなた」
「あいつは、四年、うちにいます」雨宮は言った。「四年いて、一本も書けなかった。それが、書いたんです」
「盗んで、でしょう」
「骨は俺のです。肉は、あいつのです」
「そんな理屈が通ると思ってるの!」
弓子の声が、非常階段に響いた。
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
雨宮は、黙っていた。
「わかってる? これ、賞金三百万よ。ドラマ化前提よ。もう発表されたの。これから何十本も取材が入るの。そのあとで発覚したら、どうなると思ってるの」
「……はい」
「あの子の人生が終わるのよ」
雨宮が、顔を上げた。
「――あなたが今、庇ってることは、あの子を守ってるんじゃない。あの子を、崖のいちばん高いところまで押し上げてるの」
雨宮は、しばらく、階段の手すりを見ていた。
それから、言った。
「東雲さん」
「なに」
「俺、十二月に、あのノートがなくなってるのに気づいたとき」
「うん」
「――ほっとしたんです」
弓子は、言葉を失った。
「あのノート、俺、書けたんですよ。十一年ぶりに、自分の話が書けた。書けて、そのあと、二週間、引き出しから出せなかった」
雨宮の声は、低かった。
「怖かったんです。俺が書いていいのか、わからなくて。それがなくなってて、誰かが持っていったってわかったとき、俺、ほっとしたんです。ああ、これで、俺は書かなくていいって」
「……雨宮くん」
「だから、俺は、被害者じゃないです」
彼は、そう言った。
「俺は、あいつに、盗ませたんです」
弓子は、その言葉を、飲み込むのに時間がかかった。
飲み込んで、それから、雨宮の胸を、平手で一度、叩いた。
強くはなかった。
「馬鹿」
「はい」
「あなた、ほんとに、馬鹿」
「はい」
「――で、どうするつもり」
雨宮は、少し考えた。
「どうも、しません」
「しないって」
「あれは、鹿沼律の作品です。俺はそう言い続けます。それで、通るなら、通す」
「通るわけないでしょう」
弓子は言った。
「あなたね、自分が誰だか忘れてるんじゃないの」
雨宮が、顔を上げた。
「雨宮千景よ。十二年前に、深夜アニメで社会現象を起こして、そのあと、女の子を一人家出させたって叩かれて、それっきり自分の話を書いてない男。業界の人間なら、みんな知ってる。みんな、あなたの次の一本を待ってるの」
「待ってないですよ」
「待ってるのよ」
弓子の目が、赤くなっていた。
「その男の家に住み込んでるアシスタントが、いきなり満場一致で大賞を取った。しかも、その内容が、去年の九月にあなたが山形で見たものとそっくりだった。――何人が気づくと思う?」
雨宮は、答えなかった。
「一人でも気づいたら、終わりよ」
弓子は、階段のドアに手をかけた。
「今日中に、あの子と話して。私も同席する」
「東雲さん」
「なに」
「――怒らないでやってください」
弓子は、振り返った。
振り返って、雨宮の顔を見て、それ以上、何も言えなくなった。
この人は、と弓子は思った。
この人は、十二年前から、何ひとつ変わっていない。
自分の作品が誰かを傷つけたと思ったら、自分の人生をまるごと差し出す。
自分のものを盗まれたら、盗んだ人間の人生の心配をする。
――だから、この人は、書けなくなったのだ。
弓子は、ドアを開けて、中に入った。