あかつき荘の灯
第三話 色を置く仕事
穂村まひるは、色を決める仕事をしている。
アニメーションの色彩設計。キャラクターの肌の色、髪の色、影の色、その影のさらに濃い部分の色。夕方の教室で頬に落ちる光の色。雨に濡れたスニーカーの、乾いた部分と濡れた部分の境目の色。
その全部を、彼女が決める。
誰も、そのことを知らない。
「これさ、ほんとに誰も気づかないんだよ」
入社二か月目の灯を捕まえて、まひるはモニターを指差した。四階の隅、色彩班の島。机の上には、飲みかけのカフェオレのペットボトルが三本並んでいる。
「見て。この子の髪、第三話までと第四話から、色を変えてるの」
灯は身を乗り出した。
「……変わってます?」
「変わってる。ほら、ここ。三度だけ、青に寄せてる」
「三度」
「三度」まひるは真剣な顔で頷いた。「この子、第四話で家を出るでしょ。家にいたときの髪の色と、外に出てからの髪の色は、同じであっちゃいけないの。同じ人間なんだけど、光の当たり方が変わったんだから」
灯はモニターを凝視した。
言われてみれば、たしかに違う。けれど、言われなければ、絶対に気づかない。
「気づかない人のために、変えるんですか」
「そう」
まひるはあっさり言った。
「気づかない人のために変えるの。気づかれた時点で、それはたぶん、やりすぎなんだよ」
まひるがこの仕事を選んだ理由を、灯はその日、聞かなかった。
聞いたのは、それから一週間後の、深夜の台所でだった。
その夜、鍋の前に立っていたのは灯だった。
カレーではなく、豚汁を作った。あかつき荘の伝統に反していないか少し不安だったが、まひるは「豚汁は上位互換だから許す」と言って、勝手におかわりをよそった。
「朝倉さんて、料理できるんだ」
「一人暮らしが長いので」
「実家、どこだっけ」
「群馬です」
嘘ではなかった。
ただ、正確には「群馬にあった」だ。灯が高校を出るとき、母は父の再婚相手の家族と一緒に、埼玉に移った。灯はそこには行かなかった。
「帰ってる?」
「あまり」
「そっか」
まひるはそれ以上、聞かなかった。この家の人間は、みんなその線引きが上手だった。踏み込まないのではなく、待つのだ。相手が話したくなる日まで。
代わりに、まひるが話し始めた。
「うちね、実家、食堂なんだ」
「食堂」
「山形。国道沿いの、ほんとに何もないところ。でっかいトラックが停まれるように駐車場だけ広くて、あとはぜんぶ、ぼろい」
まひるは豚汁の椀を両手で包んだ。
「私、あそこのカウンターに座って、宿題やりながら育ったの。で、六時になると、外がだんだん暗くなってくるでしょ。そうすると、母さんが店の電気をつけるんだ。全部一度につけるんじゃなくて、順番に。厨房、カウンター、いちばん最後に、外の看板」
「順番に」
「うん。そのときにさ」
まひるは、そこで言葉を切った。
「――お店の中の色が、三回変わるの」
灯は、椀を持つ手を止めた。
「厨房がついたときは、白っぽくて、まだ他人の店みたいな色。カウンターがついたときは、黄色っぽくなって、うちの店になる。看板がついたときは、外がぶわって暗くなって、店の中だけが、世界でいちばん明るくなる」
「……綺麗ですね」
「綺麗だったんだよ」まひるはうつむいた。「でも、それをさ、誰も見てないの。母さんも見てない。父さんも見てない。お客さんはもっと見てない。私だけが、カウンターの端っこで、毎日それを見てた」
まひるが顔を上げた。目が、少し赤かった。
「私、それが悔しかったんだと思う。あんなに綺麗なのに、誰も見てないの。だから、誰も見てないものを、ちゃんと作る仕事に就いたんだと思う」
灯は、なんと言えばいいのかわからなかった。
だから、正直に言った。
「私、たぶん、その色を見たことがあります」
「え?」
「テレビの中で」
まひるが、きょとんとした。
「『ヨルノハテ』の、第七話」
灯は言った。
「主人公が、夜逃げした食堂に入るシーンがあります。電気が消えてて、真っ暗で。それで、彼女が三つのスイッチを、順番に押していく」
まひるの口が、開いた。
「――なんで、知ってるの」
「見たからです」
「見たって、あれ、十一年前のアニメだよ。朝倉さん、当時いくつ」
「十四です」
灯は、豚汁をひとくち飲んだ。
熱かった。
「あのシーン、私、何回も観ました。ビデオに録ってたので」
「……そっか」
まひるは、少し笑った。それから、泣きそうな顔になった。
「私も、あれ見て、この仕事に決めたんだよ」
「そうなんですか」
「うん。私、高校二年だった。あのシーン見て、テレビの前で泣いて、その日のうちに親に『専門学校行く』って言った。反対されたけどね、めちゃくちゃ」
まひるは椀を置いて、両手で顔をこすった。
「あの色を作った人、誰だろうって、ずっと思ってた。色彩設計、宮下ミツルさん。もう亡くなってるの。会えなかった」
「そうですか」
「うん。だからさ」
まひるは、天井を見上げた。
二階の、いちばん奥の部屋のほうを。
「私が、あの人のところに来たのは、そういうことなの。あの人の作品が、私に、色っていうものがあるって教えてくれたから」
灯は、黙っていた。
「監督にはさ、言ってないよ。恥ずかしいから」
「言えばいいのに」
「言えないよ」まひるは笑った。「言ったら、あの人、困った顔するもん」
困った顔。
灯には、その顔が、なんとなく想像できてしまった。
まだ二回しか、まともに会っていないのに。
その夜、部屋に戻った灯は、押し入れの奥から、古い箱を出した。
DVD-Rが十三枚。手書きのラベルが貼ってある。中学二年の字だ。丸くて、下手だ。
「ヨルノハテ 第1話」から、「第13話(最終回)」まで。
最終回のディスクだけ、ケースの角が擦り切れている。
灯はそれをプレーヤーに入れず、しばらく手の中で回してから、また箱に戻した。
観なくても、全部覚えていた。
台詞も、間も、音楽の入り方も、エンドロールの三行目に出る名前も。
脚本・原作 雨宮千景
窓の外で、枇杷の葉が鳴っていた。
アニメーションの色彩設計。キャラクターの肌の色、髪の色、影の色、その影のさらに濃い部分の色。夕方の教室で頬に落ちる光の色。雨に濡れたスニーカーの、乾いた部分と濡れた部分の境目の色。
その全部を、彼女が決める。
誰も、そのことを知らない。
「これさ、ほんとに誰も気づかないんだよ」
入社二か月目の灯を捕まえて、まひるはモニターを指差した。四階の隅、色彩班の島。机の上には、飲みかけのカフェオレのペットボトルが三本並んでいる。
「見て。この子の髪、第三話までと第四話から、色を変えてるの」
灯は身を乗り出した。
「……変わってます?」
「変わってる。ほら、ここ。三度だけ、青に寄せてる」
「三度」
「三度」まひるは真剣な顔で頷いた。「この子、第四話で家を出るでしょ。家にいたときの髪の色と、外に出てからの髪の色は、同じであっちゃいけないの。同じ人間なんだけど、光の当たり方が変わったんだから」
灯はモニターを凝視した。
言われてみれば、たしかに違う。けれど、言われなければ、絶対に気づかない。
「気づかない人のために、変えるんですか」
「そう」
まひるはあっさり言った。
「気づかない人のために変えるの。気づかれた時点で、それはたぶん、やりすぎなんだよ」
まひるがこの仕事を選んだ理由を、灯はその日、聞かなかった。
聞いたのは、それから一週間後の、深夜の台所でだった。
その夜、鍋の前に立っていたのは灯だった。
カレーではなく、豚汁を作った。あかつき荘の伝統に反していないか少し不安だったが、まひるは「豚汁は上位互換だから許す」と言って、勝手におかわりをよそった。
「朝倉さんて、料理できるんだ」
「一人暮らしが長いので」
「実家、どこだっけ」
「群馬です」
嘘ではなかった。
ただ、正確には「群馬にあった」だ。灯が高校を出るとき、母は父の再婚相手の家族と一緒に、埼玉に移った。灯はそこには行かなかった。
「帰ってる?」
「あまり」
「そっか」
まひるはそれ以上、聞かなかった。この家の人間は、みんなその線引きが上手だった。踏み込まないのではなく、待つのだ。相手が話したくなる日まで。
代わりに、まひるが話し始めた。
「うちね、実家、食堂なんだ」
「食堂」
「山形。国道沿いの、ほんとに何もないところ。でっかいトラックが停まれるように駐車場だけ広くて、あとはぜんぶ、ぼろい」
まひるは豚汁の椀を両手で包んだ。
「私、あそこのカウンターに座って、宿題やりながら育ったの。で、六時になると、外がだんだん暗くなってくるでしょ。そうすると、母さんが店の電気をつけるんだ。全部一度につけるんじゃなくて、順番に。厨房、カウンター、いちばん最後に、外の看板」
「順番に」
「うん。そのときにさ」
まひるは、そこで言葉を切った。
「――お店の中の色が、三回変わるの」
灯は、椀を持つ手を止めた。
「厨房がついたときは、白っぽくて、まだ他人の店みたいな色。カウンターがついたときは、黄色っぽくなって、うちの店になる。看板がついたときは、外がぶわって暗くなって、店の中だけが、世界でいちばん明るくなる」
「……綺麗ですね」
「綺麗だったんだよ」まひるはうつむいた。「でも、それをさ、誰も見てないの。母さんも見てない。父さんも見てない。お客さんはもっと見てない。私だけが、カウンターの端っこで、毎日それを見てた」
まひるが顔を上げた。目が、少し赤かった。
「私、それが悔しかったんだと思う。あんなに綺麗なのに、誰も見てないの。だから、誰も見てないものを、ちゃんと作る仕事に就いたんだと思う」
灯は、なんと言えばいいのかわからなかった。
だから、正直に言った。
「私、たぶん、その色を見たことがあります」
「え?」
「テレビの中で」
まひるが、きょとんとした。
「『ヨルノハテ』の、第七話」
灯は言った。
「主人公が、夜逃げした食堂に入るシーンがあります。電気が消えてて、真っ暗で。それで、彼女が三つのスイッチを、順番に押していく」
まひるの口が、開いた。
「――なんで、知ってるの」
「見たからです」
「見たって、あれ、十一年前のアニメだよ。朝倉さん、当時いくつ」
「十四です」
灯は、豚汁をひとくち飲んだ。
熱かった。
「あのシーン、私、何回も観ました。ビデオに録ってたので」
「……そっか」
まひるは、少し笑った。それから、泣きそうな顔になった。
「私も、あれ見て、この仕事に決めたんだよ」
「そうなんですか」
「うん。私、高校二年だった。あのシーン見て、テレビの前で泣いて、その日のうちに親に『専門学校行く』って言った。反対されたけどね、めちゃくちゃ」
まひるは椀を置いて、両手で顔をこすった。
「あの色を作った人、誰だろうって、ずっと思ってた。色彩設計、宮下ミツルさん。もう亡くなってるの。会えなかった」
「そうですか」
「うん。だからさ」
まひるは、天井を見上げた。
二階の、いちばん奥の部屋のほうを。
「私が、あの人のところに来たのは、そういうことなの。あの人の作品が、私に、色っていうものがあるって教えてくれたから」
灯は、黙っていた。
「監督にはさ、言ってないよ。恥ずかしいから」
「言えばいいのに」
「言えないよ」まひるは笑った。「言ったら、あの人、困った顔するもん」
困った顔。
灯には、その顔が、なんとなく想像できてしまった。
まだ二回しか、まともに会っていないのに。
その夜、部屋に戻った灯は、押し入れの奥から、古い箱を出した。
DVD-Rが十三枚。手書きのラベルが貼ってある。中学二年の字だ。丸くて、下手だ。
「ヨルノハテ 第1話」から、「第13話(最終回)」まで。
最終回のディスクだけ、ケースの角が擦り切れている。
灯はそれをプレーヤーに入れず、しばらく手の中で回してから、また箱に戻した。
観なくても、全部覚えていた。
台詞も、間も、音楽の入り方も、エンドロールの三行目に出る名前も。
脚本・原作 雨宮千景
窓の外で、枇杷の葉が鳴っていた。