あかつき荘の灯
第二十話 三百万円のこと
朝倉灯がそれを知ったのは、同じ日の午後二時だった。
制作デスクで、放送素材のチェックをしていると、まひるが走ってきた。
「朝倉さん」
「はい」
「鹿沼さんが、賞、取ったって」
灯は、顔を上げた。
「え」
「新世紀ドラマ大賞。大賞。三百万」
まひるは、興奮していた。目が輝いていた。
「すごくない? すごいよね? 私、今日、絶対おごってもらうから」
灯も、最初の三秒は、素直に嬉しかった。
嬉しかったのだ、本当に。あの人が、四年間書けずにいたことを、灯は知っていた。
「タイトル、なんですか」
「えっとね」まひるが携帯を出した。「『あかつき』。あ、うちの会社の名前と一緒だ」
灯は、その画面を覗き込んだ。
あらすじの、五行を読んだ。
――国道沿いの、潰れかけた食堂。三十二年続いたその店の最後の一日を、店の灯を点ける三つのスイッチを軸に描く。
灯の指先が、冷たくなった。
まひるは、まだ気づいていなかった。
「三つのスイッチ、って、なんだろ。かっこいいね」
灯は、まひるの顔を見た。
見て、何も言えなかった。
九月二十三日。午後五時五十八分。
厨房、店内、看板。
九秒。
そのあいだに、雨宮千景が、店の隅の席で、メモ帳を出して、何かを書いていた。
まひるが「監督がメモを取るのを初めて見た」と、その夜、灯に言った。
灯は、それを覚えていた。
「……穂村さん」
「うん?」
「そのあらすじ、もう一回、見せてください」
「いいけど」
灯は、携帯を受け取って、五行を、ゆっくり読んだ。
まひるが、灯の顔を覗き込んだ。
「朝倉さん?」
「はい」
「なんか、顔、白いよ」
「そうですか」
「うん。すごく」
灯は、携帯を返した。
返して、椅子から立ち上がった。
「私、ちょっと、上に行ってきます」
四階に上がると、雨宮の席は空だった。
東雲弓子の席も空だった。
灯は、廊下を歩いて、非常階段のドアを開けた。
誰もいなかった。
九月の夜。雨の降る日。ここで、久瀬冬吾に「あんたのやってることは優しさじゃない」と言われたことを、灯は思い出した。
三月の風が、階段を吹き抜けた。
灯は、手すりを握った。
――監督は、知っているだろうか。
知らないなら、教えなければならない。
知っているなら――。
灯は、その先を、考えられなかった。
鹿沼律と話したのは、その日の夜だった。
あかつき荘の一階、律の部屋。
灯がドアをノックすると、中から「開いてる」と声がした。
部屋に入ると、律は、床に座っていた。
電気をつけていなかった。窓から入る街灯の光だけで、部屋は青くなっていた。
「鹿沼さん」
「おめでとう、って言いに来た?」
「いえ」
「だろうね」
律は、笑った。
その笑い方は、灯が初めて会った夜、台所で見たものと同じだった。少しだけ角のある笑い方。
「監督と、東雲さんに、呼ばれた」
「はい」
「三時間、話した」
「……はい」
「監督はさ」
律は、床の一点を見ていた。
「監督は、俺に、こう言ったんだ」
灯は、立ったまま、聞いた。
「『おめでとう』って」
灯の喉が、鳴った。
「それから、『あれは君の作品だ』って」
「……」
「俺、その場で、全部言ったんだよ。ノートを盗んだこと。三か月かけて写したこと。それを脚本にしたこと。全部。土下座もした。したよ、ちゃんと」
律の声が、震え始めた。
「そしたら、あの人、俺の肩を掴んで、起こして、こう言った。『骨は俺のだけど、肉は君のだ。あれは、君の作品だ』って」
灯は、動けなかった。
「東雲さんは、反対した。『取り下げなさい』って。二時間、言い続けた」
「監督は」
「『取り下げさせません』って」
律は、両手で顔を覆った。
「――なんで、怒ってくれないんだよ」
その声は、部屋の床に落ちた。
「殴ってくれよ。訴えてくれよ。『お前は最低だ』って言ってくれよ。そしたら俺、まだ、なんとかなったんだよ」
灯は、その言葉を聞きながら、身体の芯が冷たくなっていくのを感じた。
なんて、と思った。
なんて、私と似ているんだろう。
この人も、あの人に「謝られる」ことに耐えられないでいる。
あの人は、誰にでも、そうするのだ。
誰にでも、自分の側を差し出して、相手の逃げ道を塞いでしまう。
「鹿沼さん」
「なに」
「私、ひとつだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「――三百万円は、どうするんですか」
律が、顔を上げた。
街灯の光の中で、その目が、赤かった。
「なんで、それ聞くの」
「大事なことだからです」
灯は、言った。
「賞金を受け取るかどうかで、鹿沼さんが、これから何をする人になるかが決まると思います」
律は、笑った。
笑って、涙を拭った。
「朝倉さんて、ほんと、変なこと言うね」
「よく言われます」
「……返す」
律は言った。
「賞は取り下げられない。監督が取り下げさせない。だから、賞金は、全部、荘に入れる。それしか、思いつかない」
「わかりました」
「わかりましたって、それだけ?」
「はい」
灯は、頷いた。
「私、鹿沼さんを、責めに来たんじゃないんです」
「じゃあ、何しに来たの」
灯は、少し考えた。
考えて、正直に言った。
「――怖くて」
「怖い?」
「はい」
灯は、ドアの枠に、手を置いた。
「これ、たぶん、監督のところに、火が起こります」
律の顔から、また色が抜けた。
「……なんで」
「わかりません。でも、来ます」
灯は、自分でも驚くほど、静かな声で言った。
「あの人は、十二年前も、そうだったので」
その夜、あかつき荘は、しんとしていた。
誰も、台所でカレーを作らなかった。
深夜零時に、誰も鍋の前に立たなかった。
それは、灯がこの家に来てから、初めてのことだった。
制作デスクで、放送素材のチェックをしていると、まひるが走ってきた。
「朝倉さん」
「はい」
「鹿沼さんが、賞、取ったって」
灯は、顔を上げた。
「え」
「新世紀ドラマ大賞。大賞。三百万」
まひるは、興奮していた。目が輝いていた。
「すごくない? すごいよね? 私、今日、絶対おごってもらうから」
灯も、最初の三秒は、素直に嬉しかった。
嬉しかったのだ、本当に。あの人が、四年間書けずにいたことを、灯は知っていた。
「タイトル、なんですか」
「えっとね」まひるが携帯を出した。「『あかつき』。あ、うちの会社の名前と一緒だ」
灯は、その画面を覗き込んだ。
あらすじの、五行を読んだ。
――国道沿いの、潰れかけた食堂。三十二年続いたその店の最後の一日を、店の灯を点ける三つのスイッチを軸に描く。
灯の指先が、冷たくなった。
まひるは、まだ気づいていなかった。
「三つのスイッチ、って、なんだろ。かっこいいね」
灯は、まひるの顔を見た。
見て、何も言えなかった。
九月二十三日。午後五時五十八分。
厨房、店内、看板。
九秒。
そのあいだに、雨宮千景が、店の隅の席で、メモ帳を出して、何かを書いていた。
まひるが「監督がメモを取るのを初めて見た」と、その夜、灯に言った。
灯は、それを覚えていた。
「……穂村さん」
「うん?」
「そのあらすじ、もう一回、見せてください」
「いいけど」
灯は、携帯を受け取って、五行を、ゆっくり読んだ。
まひるが、灯の顔を覗き込んだ。
「朝倉さん?」
「はい」
「なんか、顔、白いよ」
「そうですか」
「うん。すごく」
灯は、携帯を返した。
返して、椅子から立ち上がった。
「私、ちょっと、上に行ってきます」
四階に上がると、雨宮の席は空だった。
東雲弓子の席も空だった。
灯は、廊下を歩いて、非常階段のドアを開けた。
誰もいなかった。
九月の夜。雨の降る日。ここで、久瀬冬吾に「あんたのやってることは優しさじゃない」と言われたことを、灯は思い出した。
三月の風が、階段を吹き抜けた。
灯は、手すりを握った。
――監督は、知っているだろうか。
知らないなら、教えなければならない。
知っているなら――。
灯は、その先を、考えられなかった。
鹿沼律と話したのは、その日の夜だった。
あかつき荘の一階、律の部屋。
灯がドアをノックすると、中から「開いてる」と声がした。
部屋に入ると、律は、床に座っていた。
電気をつけていなかった。窓から入る街灯の光だけで、部屋は青くなっていた。
「鹿沼さん」
「おめでとう、って言いに来た?」
「いえ」
「だろうね」
律は、笑った。
その笑い方は、灯が初めて会った夜、台所で見たものと同じだった。少しだけ角のある笑い方。
「監督と、東雲さんに、呼ばれた」
「はい」
「三時間、話した」
「……はい」
「監督はさ」
律は、床の一点を見ていた。
「監督は、俺に、こう言ったんだ」
灯は、立ったまま、聞いた。
「『おめでとう』って」
灯の喉が、鳴った。
「それから、『あれは君の作品だ』って」
「……」
「俺、その場で、全部言ったんだよ。ノートを盗んだこと。三か月かけて写したこと。それを脚本にしたこと。全部。土下座もした。したよ、ちゃんと」
律の声が、震え始めた。
「そしたら、あの人、俺の肩を掴んで、起こして、こう言った。『骨は俺のだけど、肉は君のだ。あれは、君の作品だ』って」
灯は、動けなかった。
「東雲さんは、反対した。『取り下げなさい』って。二時間、言い続けた」
「監督は」
「『取り下げさせません』って」
律は、両手で顔を覆った。
「――なんで、怒ってくれないんだよ」
その声は、部屋の床に落ちた。
「殴ってくれよ。訴えてくれよ。『お前は最低だ』って言ってくれよ。そしたら俺、まだ、なんとかなったんだよ」
灯は、その言葉を聞きながら、身体の芯が冷たくなっていくのを感じた。
なんて、と思った。
なんて、私と似ているんだろう。
この人も、あの人に「謝られる」ことに耐えられないでいる。
あの人は、誰にでも、そうするのだ。
誰にでも、自分の側を差し出して、相手の逃げ道を塞いでしまう。
「鹿沼さん」
「なに」
「私、ひとつだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「――三百万円は、どうするんですか」
律が、顔を上げた。
街灯の光の中で、その目が、赤かった。
「なんで、それ聞くの」
「大事なことだからです」
灯は、言った。
「賞金を受け取るかどうかで、鹿沼さんが、これから何をする人になるかが決まると思います」
律は、笑った。
笑って、涙を拭った。
「朝倉さんて、ほんと、変なこと言うね」
「よく言われます」
「……返す」
律は言った。
「賞は取り下げられない。監督が取り下げさせない。だから、賞金は、全部、荘に入れる。それしか、思いつかない」
「わかりました」
「わかりましたって、それだけ?」
「はい」
灯は、頷いた。
「私、鹿沼さんを、責めに来たんじゃないんです」
「じゃあ、何しに来たの」
灯は、少し考えた。
考えて、正直に言った。
「――怖くて」
「怖い?」
「はい」
灯は、ドアの枠に、手を置いた。
「これ、たぶん、監督のところに、火が起こります」
律の顔から、また色が抜けた。
「……なんで」
「わかりません。でも、来ます」
灯は、自分でも驚くほど、静かな声で言った。
「あの人は、十二年前も、そうだったので」
その夜、あかつき荘は、しんとしていた。
誰も、台所でカレーを作らなかった。
深夜零時に、誰も鍋の前に立たなかった。
それは、灯がこの家に来てから、初めてのことだった。