あかつき荘の灯

第二十一話 九秒は誰のものか

 久瀬冬吾が、その話を穂村まひるにしたのは、三月十八日の夜だった。
 したくてしたわけではない。
 二日のあいだ、あかつき荘の空気は、明らかにおかしかった。灯は目を合わせない。律は部屋から出てこない。東雲は帰ってこない。雨宮は、いつもと同じ顔で、いつもと同じ時間に、いつもと同じ量の飯を食っていて、それがいちばん不気味だった。
 まひるは、それに気づかないほど鈍い人間ではなかった。
「久瀬さん」
 台所で、まひるは、冬吾の前に立った。
「なんか、あった?」
「……」
「あったよね」
「まひる」
「教えて」
 冬吾は、湯呑みを置いた。
 言わないという選択肢は、二秒だけ検討して、捨てた。
 この子は、いずれ、必ず知る。
 だったら、知らない人間から聞くより、知っている人間から聞いたほうがいい。
「――鹿沼が取った賞の話だ」
「うん」
「あれ、中身は、監督のプロットだ」
 まひるの顔から、表情が消えた。
「監督の引き出しにあったノートを、鹿沼が持ち出して、脚本にして、出した」
「……え」
「監督は、それを、認めた。『あれは鹿沼の作品だ』と言ってる」
 まひるは、しばらく、動かなかった。
 それから、小さな声で言った。
「じゃあ、あの、あらすじの」
 冬吾は、まひるの顔を見た。
 この子は、賢い。
 こういうときに、賢いことは、残酷だった。
「三つのスイッチって」
 冬吾は、答えなかった。
「――うちの店の?」
「……そうだ」
 まひるは、台所の流しに手をついた。
 手をついて、そのまま、しゃがみこんだ。
「まひる」
「待って」
 まひるは、片手を出して、冬吾を制した。
「待って。ちょっと待って」
 冬吾は、待った。
 三十秒ほど、まひるは、床を見ていた。
 それから、顔を上げた。
 泣いてはいなかった。
 目が、恐ろしく乾いていた。
「久瀬さん」
「なんだ」
「あれ、九秒なんです」
「ああ」
「一つ目と二つ目のあいだが三秒。二つ目と三つ目のあいだが六秒。私、あそこで、いつも外を見るから、六秒かかるんです」
「……」
「三十二年です」
 まひるの声は、静かだった。
「父さんと母さんが、三十二年やって、閉めたんです。私は、十八年、あそこのカウンターの端で、それを見てたんです」
「わかってる」
「わかってないです」
 まひるは、立ち上がった。
「あれは、私のものじゃないんです。父さんと母さんのものです。私のものでもないのに、それが、いま、知らない人の三百万円になってるんです」
 冬吾は、何も言えなかった。
 まひるは、台所を出た。
 出て、廊下を、一階の奥へ歩いた。
 冬吾は、慌てて追った。
 まひるは、鹿沼律の部屋のドアを、拳で叩いた。
「鹿沼さん」
 返事はなかった。
「鹿沼さん! 開けて!」
 ドアが、開いた。
 律が立っていた。三日、髭を剃っていない顔だった。
 まひるは、律を見上げた。
 そして、言った。
「――うちの、店の、話ですよね」
 律の顔が、歪んだ。
「……ごめん」
「謝らないで」
 まひるの声が、初めて震えた。
「謝らないで。私、謝られたくない」
「穂村さん」
「読ませてください」
「え」
「脚本。全部。読ませてください」
 律は、動かなかった。
「読ませてください!」
 まひるが、叫んだ。
 その声で、二階のドアが開く音がした。晴が降りてきた。
 律は、部屋に戻って、紙の束を持ってきた。プリントアウトされた、四百二十ページ。
 まひるは、それを両手で受け取った。
 受け取って、その場に座り込んで、読み始めた。
 廊下で。
 電気もつけずに。
「まひる、部屋で読め」冬吾が言った。
「ここで読みます」
 まひるは、顔を上げなかった。
 冬吾は、廊下の電気をつけた。
 晴が、黙って、まひるの隣に座った。
 三時間かかった。
 まひるは、一ページも飛ばさずに読んだ。
 読み終わったのは、深夜二時過ぎだった。
 まひるは、最後のページを閉じて、しばらく、そのまま座っていた。
 律は、ドアの前に立ったままだった。三時間、立っていた。
 まひるが、口を開いた。
「――第九話の、母親の台詞」
「うん」
「『看板だけは、あんたに点けさせてやりたかったな』って」
「うん」
「これ、監督のノートに、ありました?」
 律は、首を横に振った。
「……ない」
「じゃあ」
「俺が、書いた」
 まひるは、原稿を膝に置いた。
 それから、両手で顔を覆って、泣いた。
 声を上げて泣いた。
 冬吾は、その泣き方を聞きながら、拳を握った。
 握って、律のほうへ、一歩踏み出した。
「久瀬さん」
 晴が、立ち上がった。
 小柄な身体で、冬吾の前に立った。
「どけ」
「どきません」
「佐分利」
「殴ったら、久瀬さんが終わります」
 晴の声は、震えていた。
 震えていたが、通った。
 声を使う仕事を目指している人間の声だった。
「終わるのは、鹿沼さんだけで、じゅうぶんです」
 冬吾は、拳を下ろした。
 下ろして、壁を、一度だけ、殴った。
 古い壁だった。石膏ボードが、ぼこりと凹んだ。
 その音が、あかつき荘の廊下に、長く残った。

 まひるが泣き止んだのは、三時近くだった。
 まひるは、立ち上がって、原稿を律に返した。
「これ」
「うん」
「よかったです」
 律の目が、大きくなった。
「……え」
「よかったです。すごく」
 まひるの目は、真っ赤だった。
「私、読みながら、五回泣きました。第九話で三回、最終話で二回」
「穂村さん」
「でも」
 まひるは、律を、まっすぐに見た。
「私、あなたを、たぶん、一生許しません」
 廊下が、静まりかえった。
「作品はいいです。作品は、いいんです。だから、余計に、許しません」
 まひるは、そう言って、階段を上っていった。
 律は、その背中を見送った。
 冬吾も、晴も、動かなかった。
 やがて、律が、ドアの枠にもたれて、ずるずると座り込んだ。
「――久瀬さん」
「なんだ」
「殴ってくれませんか」
「断る」
 冬吾は言った。
「殴られて楽になるのは、お前だけだ」
 冬吾は、壁の凹みを一度見て、それから、台所へ歩いていった。
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