あかつき荘の灯

第二十二話 母の家

 鹿沼律の実家は、埼玉県の、私鉄の駅から歩いて二十分のところにある。
 二階建てのアパートの、一階の角部屋。三十年前に建てられた建物で、外階段の鉄が、ところどころ錆で膨らんでいる。
 律がそこに帰ったのは、三月二十日、春分の日だった。
 二年ぶりだった。
 インターホンを押すと、母が出た。
「あら」
 それだけだった。
 二年ぶりの息子に対して、母の第一声は、いつも「あら」だ。
「ちょっと、上がるわ」
「上がりな。何もないけど」
 部屋は、記憶より狭かった。
 六畳と四畳半と、台所。ここに、母と、律と、妹三人が住んでいた。
 妹たちは、もういない。上の妹は結婚して、下の二人は働きに出ている。
「お茶しかないよ」
「いい」
 母は、六十一歳になっていた。
 三十年、パートを掛け持ちしてきた人の手をしていた。指の関節が太く、爪が短い。
 律は、その手を見ながら、切り出した。
「母さん」
「なに」
「俺、賞、取った」
 母は、湯呑みを置いた。
「へえ」
「……へえ、って」
「なんの賞」
「脚本の賞。ドラマの」
「そう。すごいの?」
「すごい。たぶん、いちばんすごいやつ」
「そう」
 母は、湯呑みを持ち上げて、茶を飲んだ。
 律は、その反応に、腹が立った。
 腹が立って、それから、自分が腹を立てていることに、愕然とした。
 ――俺は、褒めてほしくて、ここに来たのか。
「賞金、三百万」
「三百万!」
 母の声が、初めて大きくなった。
「え、ほんとに? 三百万?」
「ほんと」
「あんた、そんな仕事、金になるんだ」
「ならない」律は言った。「今回だけ」
「そうなの」
「うん」
 母は、しばらく黙って、それから、こう言った。
「よかったねえ」
 その言い方に、律は、息を呑んだ。
 よかったねえ。
 それは、褒め言葉ではなかった。
 安堵の声だった。
 ――ああ、この人は、と律は思った。
 この人は、十年間、俺のことを、心配していたのだ。
 大学を出て、就職せずに、脚本の勉強をすると言って、家を出た息子のことを。
 褒めてほしかったんじゃない。
 安心させたかったんだ。
「母さん」
「なに」
「あの賞、俺のじゃない」
 母が、顔を上げた。
「……どういうこと」
 律は、全部話した。
 ノートのこと。三か月かけて写したこと。台詞は自分が書いたこと。応募したこと。
 雨宮千景が、それを「君の作品だ」と言ったこと。
 母は、途中で口を挟まなかった。
 最後まで聞いて、それから、こう言った。
「その、雨宮さんて人は、いい人なんだね」
「……いい人だよ」
「じゃあ、なんで盗んだの」
 律は、答えられなかった。
 母は、湯呑みを置いた。
「律。母さん、難しいことはわかんないよ」
「うん」
「でも、ひとつだけ言う」
 母は、律を見た。
「あんた、小学校のとき、給食のパン、持って帰ってきたことあったよね」
 律は、顔を上げた。
「……覚えてない」
「覚えてないの? 三年生のとき。あんた、毎日、パン持って帰ってきたの。妹たちにあげるために」
「……」
「母さん、あんたに、一回も『ありがとう』って言わなかったでしょ」
 律の視界が、滲んだ。
「言えなかったの。言ったら、あんたが、もっとやるから」
 母は、指で、テーブルの木目をなぞった。
「あのとき、あんた、母さんに、なんて言われたかった?」
 律は、答えられなかった。
 答えられずに、テーブルに額をつけた。
 母は、律の頭に、手を置かなかった。
 置かないまま、こう言った。
「――返しといで」
「返せない」
「返せないなら」
 母は言った。
「しっかりとそのことをうけとめないとね」

 東京に戻る電車の中で、律は、携帯を開いた。
 新世紀ドラマ大賞の事務局の、担当者のメールアドレスを出した。
 新規メール。件名を打った。

  受賞辞退および経緯のご報告について

 本文を、二時間かけて書いた。
 電車を乗り換えて、三鷹に着いて、坂を上りながらも、まだ書いていた。
 あかつき荘の門の前で、律は、送信ボタンの前で、指を止めた。
 ――これを送れば、俺は終わる。
 それでいい、と思った。
 終わっていい。俺はもう、あの人の隣にいる資格がない。
 律は、送信ボタンを押した。
 押した瞬間、門の内側から、声がした。
「鹿沼くん」
 東雲弓子が、立っていた。
 コートも着ずに、腕を組んで、門柱に寄りかかっていた。
「東雲さん」
「今、何した」
「……メール、出しました」
「誰に」
「事務局に。辞退と、経緯の報告を」
 弓子は、目を閉じた。
 そして、深く息を吐いた。
「――遅かったか」
「え」
「私が今から言うことは、あなたを助ける話じゃないの」
 弓子は、目を開けた。
 その目は、律が今まで見たことのない目だった。
「事務局には、今日の午後三時に、もう別の連絡が行ってる」
「別の?」
「雨宮くんから」
 律の背筋が、凍った。
「なんて、書いてあるんですか」
 弓子は、門を開けて、律を中に入れた。
 そして、静かに言った。
「――『あのプロットは、私が鹿沼律に譲渡したものです』って」
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