あかつき荘の灯
第二十三話 大人の嘘
東雲弓子が、その二通のメールの存在を知ったのは、三月二十日の夕方だった。
事務局から電話がかかってきたのだ。
「東雲さま。恐れ入りますが、確認したいことが」
「はい」
「本日、御社の関係者と思われる方から、二通、ご連絡をいただいておりまして」
弓子は、目を閉じた。
「一通は、雨宮千景さまから。『受賞作の原案は私が鹿沼氏に譲渡したものである』という内容です」
「はい」
「もう一通は、鹿沼律さまご本人から。『無断で持ち出したものである。受賞を辞退する』という内容です」
電話の向こうで、担当者は、困惑していた。
当然だ。
「あの、これは、どちらが」
「――両方、本当です」
弓子は、そう言った。
言ってから、自分の言葉に驚いた。
「え?」
「雨宮は、譲渡したつもりでいます。鹿沼は、盗んだつもりでいます。二人とも、嘘をついていません」
「……はあ」
「明日、二人で伺います。時間をください」
その夜、弓子は、あかつき荘の居間に、三人を集めた。
雨宮千景。鹿沼律。そして、朝倉灯。
灯を呼んだ理由を、弓子は自分でもうまく言えなかった。
ただ、この件は、誰か一人、「現場を回せる人間」が要る、と思ったのだ。
座卓の上に、弓子は紙を三枚置いた。
「これから、三つのやり方を説明する」
弓子は、ボールペンを持った。
「一つ目。事実をそのまま公表する。鹿沼くんは辞退。受賞は取り消し。経緯も出る。――このとき、何が起きるか」
弓子は、一枚目の紙に線を引いた。
「鹿沼律は、業界から消える。二度と、どこの賞にも出せない。これは確実」
律が、唇を噛んだ。
「そして、雨宮千景は、『アシスタントに盗まれた気の毒な人』になる」
「それは嫌です」雨宮が言った。
「知ってる。黙って」
弓子は、二枚目の紙に線を引いた。
「二つ目。雨宮くんの言い分で押し通す。『原案は雨宮が譲渡した。鹿沼が脚本化した』。これは、業界的には、まあ、ありえない話じゃない。原案と脚本が別人なのは普通だから」
「それで、いいじゃないですか」雨宮が言った。
「よくないの」
弓子は、ペンで机を叩いた。
「よくない理由が、二つある」
弓子は、雨宮を見た。
「一つ目。それは嘘だから」
「……」
「二つ目。――それをやると、賞の話じゃなくなるから」
灯が、顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「賞のニュースの見出しが、変わるのよ」
弓子は言った。
「『新人が大賞』から、『雨宮千景、十一年ぶりの新作原案』に変わる」
部屋の空気が、変わった。
弓子は、続けた。
「そうなったら、必ず、詮索が入る。あの人が十二年何をしてたか。なんで書かなくなったか」
弓子は、灯のほうを、見なかった。
だが、灯の指先が、膝の上で白くなったのを、弓子は視界の端で捉えていた。
「――二〇〇八年の話が、出る」
誰も、何も言わなかった。
雨宮千景が、湯呑みを持ち上げて、置いた。
「東雲さん」
「なに」
「三つ目は」
弓子は、三枚目の紙を、見た。
三枚目には、何も書いていなかった。
「三つ目は、私が嘘をつく」
「え」
「雨宮千景は、この件から、名前を外す」
弓子は言った。
「『原案は、スタジオ・アカツキの企画開発室が共同で立てたもの。鹿沼律はその一員として脚本を執筆した』。会社名義にする。私が代表として、事務局に説明する。共同企画の権利処理が不十分だった、という話にする」
律が、声を上げた。
「そんなの、通りますか」
「通るわよ」
弓子は、あっさり言った。
「この業界、会社名義の企画なんか、いくらでもある。誰が何を思いついたかなんて、五年経ったら誰も覚えてない。私はそれを、二十年見てきた」
「でも」灯が言った。「それだと」
「そう」弓子は頷いた。「鹿沼くんは、受賞者のまま残る。ただし、単独の受賞者ではなくなる。賞金も減る。ドラマ化の企画は会社に移る。――要するに、あなたの手柄は、半分になる」
律は、両手を膝に置いた。
そして、深く頭を下げた。
「それで、お願いします」
「まだ言ってない」
弓子は、律を見た。
「あなたには、条件がある」
「はい」
「あなたは、この先五年、自分の名前で賞に出しちゃ駄目」
「……はい」
「五年、会社の企画を書きなさい。人の企画を、人のために書きなさい。それが五年できたら、私が、あなたを外に出す」
律は、頭を下げたまま、動かなかった。
肩が、震えていた。
「返事」
「……はい」
「もう一つ」
弓子は、雨宮のほうを向いた。
「雨宮くん」
「はい」
「あなたは、この件について、一切、外で喋らない」
「はい」
「取材も受けない。SNSもやらない。名前を出さない」
「はい」
「――そして」
弓子は、そこで、一度、息を吸った。
「あなたは、自分の話を、書きなさい」
雨宮が、顔を上げた。
「……え」
「『あかつき』は、鹿沼くんに渡した。もういいの。あれはもう、あの子のものよ」
弓子は言った。
「だから、次のを書いて」
「東雲さん、俺は」
「書けるでしょう」
弓子の声が、初めて、荒れた。
「十一年ぶりに書いたじゃない! 一本! 三日で! それを盗まれて、『ほっとした』なんて言うような男が、まだ書けないとか言わないで!」
雨宮は、黙った。
灯は、その横顔を見ていた。
弓子は、ボールペンを置いた。
「私はね、雨宮くん」
「はい」
「十二年前、あなたのコンテを承認したの、私なのよ」
雨宮が、顔を上げた。
「朝日を出さないっていうあなたの案を、いいと思って、通したの。だから、あの子が家を出たのなら、私にも半分責任がある」
「東雲さん、それは」
「あなたが一人で背負う話じゃない、って言ってるの」
弓子は、そう言って、紙を三枚、揃えた。
「以上。解散」
灯が、立ち上がった。
立ち上がって、少し、よろけた。
「朝倉さん」弓子が言った。「大丈夫?」
「……はい」
「顔、真っ白よ」
「大丈夫です」
灯は、居間を出た。
弓子は、その背中を見送った。
見送りながら、二十年前から自分の中にある、嫌な勘が、また鳴っているのを感じていた。
――この子は、なにか、かくしている。
弓子は、それを、その夜は、口に出さなかった。
事務局から電話がかかってきたのだ。
「東雲さま。恐れ入りますが、確認したいことが」
「はい」
「本日、御社の関係者と思われる方から、二通、ご連絡をいただいておりまして」
弓子は、目を閉じた。
「一通は、雨宮千景さまから。『受賞作の原案は私が鹿沼氏に譲渡したものである』という内容です」
「はい」
「もう一通は、鹿沼律さまご本人から。『無断で持ち出したものである。受賞を辞退する』という内容です」
電話の向こうで、担当者は、困惑していた。
当然だ。
「あの、これは、どちらが」
「――両方、本当です」
弓子は、そう言った。
言ってから、自分の言葉に驚いた。
「え?」
「雨宮は、譲渡したつもりでいます。鹿沼は、盗んだつもりでいます。二人とも、嘘をついていません」
「……はあ」
「明日、二人で伺います。時間をください」
その夜、弓子は、あかつき荘の居間に、三人を集めた。
雨宮千景。鹿沼律。そして、朝倉灯。
灯を呼んだ理由を、弓子は自分でもうまく言えなかった。
ただ、この件は、誰か一人、「現場を回せる人間」が要る、と思ったのだ。
座卓の上に、弓子は紙を三枚置いた。
「これから、三つのやり方を説明する」
弓子は、ボールペンを持った。
「一つ目。事実をそのまま公表する。鹿沼くんは辞退。受賞は取り消し。経緯も出る。――このとき、何が起きるか」
弓子は、一枚目の紙に線を引いた。
「鹿沼律は、業界から消える。二度と、どこの賞にも出せない。これは確実」
律が、唇を噛んだ。
「そして、雨宮千景は、『アシスタントに盗まれた気の毒な人』になる」
「それは嫌です」雨宮が言った。
「知ってる。黙って」
弓子は、二枚目の紙に線を引いた。
「二つ目。雨宮くんの言い分で押し通す。『原案は雨宮が譲渡した。鹿沼が脚本化した』。これは、業界的には、まあ、ありえない話じゃない。原案と脚本が別人なのは普通だから」
「それで、いいじゃないですか」雨宮が言った。
「よくないの」
弓子は、ペンで机を叩いた。
「よくない理由が、二つある」
弓子は、雨宮を見た。
「一つ目。それは嘘だから」
「……」
「二つ目。――それをやると、賞の話じゃなくなるから」
灯が、顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「賞のニュースの見出しが、変わるのよ」
弓子は言った。
「『新人が大賞』から、『雨宮千景、十一年ぶりの新作原案』に変わる」
部屋の空気が、変わった。
弓子は、続けた。
「そうなったら、必ず、詮索が入る。あの人が十二年何をしてたか。なんで書かなくなったか」
弓子は、灯のほうを、見なかった。
だが、灯の指先が、膝の上で白くなったのを、弓子は視界の端で捉えていた。
「――二〇〇八年の話が、出る」
誰も、何も言わなかった。
雨宮千景が、湯呑みを持ち上げて、置いた。
「東雲さん」
「なに」
「三つ目は」
弓子は、三枚目の紙を、見た。
三枚目には、何も書いていなかった。
「三つ目は、私が嘘をつく」
「え」
「雨宮千景は、この件から、名前を外す」
弓子は言った。
「『原案は、スタジオ・アカツキの企画開発室が共同で立てたもの。鹿沼律はその一員として脚本を執筆した』。会社名義にする。私が代表として、事務局に説明する。共同企画の権利処理が不十分だった、という話にする」
律が、声を上げた。
「そんなの、通りますか」
「通るわよ」
弓子は、あっさり言った。
「この業界、会社名義の企画なんか、いくらでもある。誰が何を思いついたかなんて、五年経ったら誰も覚えてない。私はそれを、二十年見てきた」
「でも」灯が言った。「それだと」
「そう」弓子は頷いた。「鹿沼くんは、受賞者のまま残る。ただし、単独の受賞者ではなくなる。賞金も減る。ドラマ化の企画は会社に移る。――要するに、あなたの手柄は、半分になる」
律は、両手を膝に置いた。
そして、深く頭を下げた。
「それで、お願いします」
「まだ言ってない」
弓子は、律を見た。
「あなたには、条件がある」
「はい」
「あなたは、この先五年、自分の名前で賞に出しちゃ駄目」
「……はい」
「五年、会社の企画を書きなさい。人の企画を、人のために書きなさい。それが五年できたら、私が、あなたを外に出す」
律は、頭を下げたまま、動かなかった。
肩が、震えていた。
「返事」
「……はい」
「もう一つ」
弓子は、雨宮のほうを向いた。
「雨宮くん」
「はい」
「あなたは、この件について、一切、外で喋らない」
「はい」
「取材も受けない。SNSもやらない。名前を出さない」
「はい」
「――そして」
弓子は、そこで、一度、息を吸った。
「あなたは、自分の話を、書きなさい」
雨宮が、顔を上げた。
「……え」
「『あかつき』は、鹿沼くんに渡した。もういいの。あれはもう、あの子のものよ」
弓子は言った。
「だから、次のを書いて」
「東雲さん、俺は」
「書けるでしょう」
弓子の声が、初めて、荒れた。
「十一年ぶりに書いたじゃない! 一本! 三日で! それを盗まれて、『ほっとした』なんて言うような男が、まだ書けないとか言わないで!」
雨宮は、黙った。
灯は、その横顔を見ていた。
弓子は、ボールペンを置いた。
「私はね、雨宮くん」
「はい」
「十二年前、あなたのコンテを承認したの、私なのよ」
雨宮が、顔を上げた。
「朝日を出さないっていうあなたの案を、いいと思って、通したの。だから、あの子が家を出たのなら、私にも半分責任がある」
「東雲さん、それは」
「あなたが一人で背負う話じゃない、って言ってるの」
弓子は、そう言って、紙を三枚、揃えた。
「以上。解散」
灯が、立ち上がった。
立ち上がって、少し、よろけた。
「朝倉さん」弓子が言った。「大丈夫?」
「……はい」
「顔、真っ白よ」
「大丈夫です」
灯は、居間を出た。
弓子は、その背中を見送った。
見送りながら、二十年前から自分の中にある、嫌な勘が、また鳴っているのを感じていた。
――この子は、なにか、かくしている。
弓子は、それを、その夜は、口に出さなかった。