あかつき荘の灯
第二十四話 色のない部屋
穂村まひるは、四日間、会社を休んだ。
部屋から出なかった、というわけではない。ちゃんと起きて、ちゃんと風呂に入って、ちゃんと飯も食った。
ただ、色が、見えなくなった。
正確には、見えている。赤は赤だし、青は青だ。
けれど、「決められなく」なった。
パソコンの前に座って、キャラクターの髪の影色を選ぼうとすると、手が止まる。
どれでもいい気がする。
どれでもいい、という感覚は、まひるにとって、初めてだった。
三日目の夜、まひるは、押し入れから箱を出した。
中に、色見本の紙が、何百枚も入っている。専門学校のころから作りためたものだ。
その中の一枚を、探した。
九月の合評会で、雨宮に見せた、あの一枚。
「六時ちょうどから六時十五分まで、一分ごと」の、四十色。
見つけて、それを、机の上に広げた。
まひるは、その紙を、一時間見ていた。
――綺麗だ、と、まだ思えた。
思えるのが、悔しかった。
その紙が「盗まれた」わけではない。紙はここにある。
盗まれたのは、たぶん、もっと別のものだった。
それが何なのか、まひるには、まだ言葉にできなかった。
四日目の朝、ドアがノックされた。
「穂村さん。朝倉です」
「……開いてる」
灯が入ってきた。
手に、紙袋を持っていた。
「なんですか、それ」
「唐揚げです」
「唐揚げ」
「作ってきました。冷めてますけど」
まひるは、笑った。
四日ぶりに笑った。笑ったら、頬が痛かった。
灯は、床に座って、紙袋を開けた。中には、タッパーがあった。
「食べます?」
「……いただきます」
まひるは、一つ食べた。
冷めていた。でも、味は、店のと似ていた。
「これ」
「はい」
「うちのと、味付け、同じですね」
「聞きました。お母さんに」
「え、いつ」
「九月に。帰る前に、レシピを」
まひるは、二つ目を口に入れた。
入れて、噛んで、それから、泣いた。
灯は、何も言わずに、タッパーを、まひるのほうへ押した。
「……朝倉さん」
「はい」
「私、何が悔しいのか、四日考えて、やっとわかりました」
「はい」
まひるは、涙を拭って、鼻をすすった。
「私、あの九秒を、誰かに話したかったんです」
「はい」
「ずっと、話したかったんです。誰も見てない、誰も知らない、私だけが知ってる、あの九秒を、いつか、誰かに」
「はい」
「で、九月に、話したんです。監督に」
まひるは、膝を抱えた。
「監督は、メモを取ってくれました。私、あのとき、めちゃくちゃ嬉しかった」
「……はい」
「だから、監督があれを話にしてくれるなら、それは、いいんです。全然、いいんです。むしろ、そのために話したんです」
まひるは、顔を上げた。
「でも、鹿沼さんは、私の話を、聞いてないんです」
灯は、息を呑んだ。
「鹿沼さん、あの日、レジやってたんです。ずっと。私が電気点けるとき、伝票見てたんです。私、見てました」
「……」
「聞いてない人が、書いたんです。それが、悔しいんです」
まひるは、そう言って、また泣いた。
灯は、その隣で、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「――穂村さん」
「はい」
「それ、鹿沼さんに、言いましたか」
「言ってません」
「言ったほうがいいと思います」
「なんでですか」
灯は、少し考えた。
考えて、こう言った。
「言わないと、あの人は、一生、『自分は上手に書いたから許されるかもしれない』って思い続けます」
まひるが、顔を上げた。
「上手いかどうかは、関係ないんですよね」
「……はい」
「関係ないんだって、教えてあげられるのは、穂村さんだけです」
まひるは、タッパーの中の唐揚げを、じっと見た。
「朝倉さん」
「はい」
「なんで、そんなことわかるんですか」
灯は、答えなかった。
まひるは、灯の横顔を見た。
見て、はっとした。
「……朝倉さん、泣いてる」
「泣いてないです」
「泣いてます」
「泣いてないです」
灯は、目をこすった。
「私も、たぶん、同じことをしてるので」
「え?」
「言わないと、あの人は、一生、思い続けるってわかってるのに、言わないでいることが、あります」
まひるは、その言葉の意味を、聞かなかった。
この家の人間は、みんな、その線引きが上手かった。
代わりに、まひるは、こう言った。
「じゃあ、私が先に言います」
灯が、顔を上げた。
「私が先に言うから、朝倉さんも、あとで言ってください」
「……穂村さん」
「約束です」
まひるは、小指を出した。
二十六歳の女が、二十六歳の女に、小指を出した。
灯は、少し笑って、その指に、自分の小指を絡めた。
その日の夕方、まひるは、鹿沼律の部屋のドアをノックした。
律が出てきた。
まひるは、彼を見上げて、こう言った。
「鹿沼さん。あの日、私が電気を点けたとき、あなた、何してましたか」
律は、しばらく考えて、正直に答えた。
「……レジの、締めをやってた」
「見てなかったんですよね」
「見てない」
「じゃあ、書かないでください」
まひるの声は、静かだった。
「見てないものは、書かないでください。それだけです」
律は、その場に、立ち尽くした。
まひるは、頭を下げて、階段を上がっていった。
その夜、律は、自分の部屋で、脚本の第九話を開いた。
母親の台詞。『看板だけは、あんたに点けさせてやりたかったな』。
自分で書いた台詞だった。いい台詞だと思っていた。
律は、その一行を、しばらく見た。
そして、初めて、その台詞が、誰にも見られていない九秒の重さに、まるで足りていないことを、理解した。
部屋から出なかった、というわけではない。ちゃんと起きて、ちゃんと風呂に入って、ちゃんと飯も食った。
ただ、色が、見えなくなった。
正確には、見えている。赤は赤だし、青は青だ。
けれど、「決められなく」なった。
パソコンの前に座って、キャラクターの髪の影色を選ぼうとすると、手が止まる。
どれでもいい気がする。
どれでもいい、という感覚は、まひるにとって、初めてだった。
三日目の夜、まひるは、押し入れから箱を出した。
中に、色見本の紙が、何百枚も入っている。専門学校のころから作りためたものだ。
その中の一枚を、探した。
九月の合評会で、雨宮に見せた、あの一枚。
「六時ちょうどから六時十五分まで、一分ごと」の、四十色。
見つけて、それを、机の上に広げた。
まひるは、その紙を、一時間見ていた。
――綺麗だ、と、まだ思えた。
思えるのが、悔しかった。
その紙が「盗まれた」わけではない。紙はここにある。
盗まれたのは、たぶん、もっと別のものだった。
それが何なのか、まひるには、まだ言葉にできなかった。
四日目の朝、ドアがノックされた。
「穂村さん。朝倉です」
「……開いてる」
灯が入ってきた。
手に、紙袋を持っていた。
「なんですか、それ」
「唐揚げです」
「唐揚げ」
「作ってきました。冷めてますけど」
まひるは、笑った。
四日ぶりに笑った。笑ったら、頬が痛かった。
灯は、床に座って、紙袋を開けた。中には、タッパーがあった。
「食べます?」
「……いただきます」
まひるは、一つ食べた。
冷めていた。でも、味は、店のと似ていた。
「これ」
「はい」
「うちのと、味付け、同じですね」
「聞きました。お母さんに」
「え、いつ」
「九月に。帰る前に、レシピを」
まひるは、二つ目を口に入れた。
入れて、噛んで、それから、泣いた。
灯は、何も言わずに、タッパーを、まひるのほうへ押した。
「……朝倉さん」
「はい」
「私、何が悔しいのか、四日考えて、やっとわかりました」
「はい」
まひるは、涙を拭って、鼻をすすった。
「私、あの九秒を、誰かに話したかったんです」
「はい」
「ずっと、話したかったんです。誰も見てない、誰も知らない、私だけが知ってる、あの九秒を、いつか、誰かに」
「はい」
「で、九月に、話したんです。監督に」
まひるは、膝を抱えた。
「監督は、メモを取ってくれました。私、あのとき、めちゃくちゃ嬉しかった」
「……はい」
「だから、監督があれを話にしてくれるなら、それは、いいんです。全然、いいんです。むしろ、そのために話したんです」
まひるは、顔を上げた。
「でも、鹿沼さんは、私の話を、聞いてないんです」
灯は、息を呑んだ。
「鹿沼さん、あの日、レジやってたんです。ずっと。私が電気点けるとき、伝票見てたんです。私、見てました」
「……」
「聞いてない人が、書いたんです。それが、悔しいんです」
まひるは、そう言って、また泣いた。
灯は、その隣で、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「――穂村さん」
「はい」
「それ、鹿沼さんに、言いましたか」
「言ってません」
「言ったほうがいいと思います」
「なんでですか」
灯は、少し考えた。
考えて、こう言った。
「言わないと、あの人は、一生、『自分は上手に書いたから許されるかもしれない』って思い続けます」
まひるが、顔を上げた。
「上手いかどうかは、関係ないんですよね」
「……はい」
「関係ないんだって、教えてあげられるのは、穂村さんだけです」
まひるは、タッパーの中の唐揚げを、じっと見た。
「朝倉さん」
「はい」
「なんで、そんなことわかるんですか」
灯は、答えなかった。
まひるは、灯の横顔を見た。
見て、はっとした。
「……朝倉さん、泣いてる」
「泣いてないです」
「泣いてます」
「泣いてないです」
灯は、目をこすった。
「私も、たぶん、同じことをしてるので」
「え?」
「言わないと、あの人は、一生、思い続けるってわかってるのに、言わないでいることが、あります」
まひるは、その言葉の意味を、聞かなかった。
この家の人間は、みんな、その線引きが上手かった。
代わりに、まひるは、こう言った。
「じゃあ、私が先に言います」
灯が、顔を上げた。
「私が先に言うから、朝倉さんも、あとで言ってください」
「……穂村さん」
「約束です」
まひるは、小指を出した。
二十六歳の女が、二十六歳の女に、小指を出した。
灯は、少し笑って、その指に、自分の小指を絡めた。
その日の夕方、まひるは、鹿沼律の部屋のドアをノックした。
律が出てきた。
まひるは、彼を見上げて、こう言った。
「鹿沼さん。あの日、私が電気を点けたとき、あなた、何してましたか」
律は、しばらく考えて、正直に答えた。
「……レジの、締めをやってた」
「見てなかったんですよね」
「見てない」
「じゃあ、書かないでください」
まひるの声は、静かだった。
「見てないものは、書かないでください。それだけです」
律は、その場に、立ち尽くした。
まひるは、頭を下げて、階段を上がっていった。
その夜、律は、自分の部屋で、脚本の第九話を開いた。
母親の台詞。『看板だけは、あんたに点けさせてやりたかったな』。
自分で書いた台詞だった。いい台詞だと思っていた。
律は、その一行を、しばらく見た。
そして、初めて、その台詞が、誰にも見られていない九秒の重さに、まるで足りていないことを、理解した。