あかつき荘の灯

間章 氷室玲奈の場合

 週刊誌の記事が出た日、氷室玲奈は、締切を三本抱えていた。
 仕事場にしている、神楽坂のマンションの一室である。窓が北向きで、一日じゅう光の色が変わらない。
 彼女は、その部屋で十年、小説を書いていた。
 記事は、担当編集からのメールで知った。件名は「念のため」だった。
 添付されたPDFを、玲奈は、立ったまま読んだ。
 読み終えて、椅子に座って、しばらく、天井を見ていた。
 それから、机の引き出しを開けた。
 いちばん下の引き出しの奥に、古い携帯電話が一台入っている。
 二〇一二年に解約した、折りたたみ式の機種だ。
 電源は入らない。充電器は、とうの昔に捨てた。
 彼女は、それを手に取って、しばらく持って、また引き出しに戻した。
 ――馬鹿みたい。
 三十六歳の小説家が、九年前の携帯を引き出しにしまっている。
 彼女は、そのことを、誰にも言ったことがない。

 四月の二十四日、玲奈は、三鷹の坂を上った。
 あかつき荘に来るのは、これで三度目である。
 一度目は、二〇一〇年。二度目は、二〇一二年の、別れる少し前。
 九年ぶりだった。
 枇杷の木は、ずいぶん伸びていた。
 門の前で立っていると、玄関の引き戸が開いて、若い女が出てきた。
 朝倉灯だった。
「氷室先生」
「先生はやめて」
 玲奈は言った。
「原作者と制作会社の担当は、対等よ」
「……はい」
 灯は、少し笑った。
 その笑い方は、去年の十月に見たときより、痩せていた。
「雨宮くん、いる?」
「いません」
 灯は、そう答えた。
「打ち合わせ?」
「――いなくなりました」
 玲奈は、門柱に手を置いた。
 置いたまま、二秒ほど、動かなかった。
「いつ」
「今朝です」
「携帯は」
「置いていきました」
 玲奈は、目を閉じた。
 そして、深く息を吐いた。
「……あの馬鹿」
「はい」
「二回目じゃない、それ」
「東雲さんも、そう言ってました」
 玲奈は、門を開けて、庭に入った。
 勝手に入るな、と言う人間は、この家にいない。
 縁側に、猫がいた。太った、黒と白のぶち猫。
「この子、まだ生きてるの」
「はい。ノリです」
「知ってる。私が拾ったの」
 灯が、驚いた顔をした。
「……そうなんですか」
「二〇一〇年の秋にね。ここの坂の下で鳴いてたのを、私が拾って、雨宮くんに押しつけたの」
 玲奈は、猫の背中を撫でた。
 猫は、迷惑そうに、尻尾を一度振った。
「名前は、あの人がつけたのよ。海苔が好きだからって。ふざけてるでしょ」
 灯は、笑った。
 その笑い方に、玲奈は、少し胸が痛んだ。

 二人は、縁側に座って、話をした。
 正確には、玲奈が座って、灯は立っていた。
「座れば」
「私、いいです」
「なんで」
「……癖なので」
 玲奈は、その返事を聞いて、この子のことを、少しだけ理解した。
「朝倉さん」
「はい」
「私、去年、あなたに、ひどいことを言ったわ」
 灯が、玲奈のほうを見た。
「『その子には出てきてほしくないと思ってた』って」
「……はい」
「あれ、本当のことなの。取り消さない」
 玲奈は、庭を見ていた。
「でもね、あれから半年、ずっと考えてた」
「はい」
「私、なんであの子に嫉妬してたんだろうって」
 風が吹いた。
 枇杷の葉が鳴った。
「答えは、簡単だった」
 玲奈は言った。
「私、あの人に、必要とされたことが、一度もないの」
 灯は、何も言わなかった。
「愛されてはいたと思う。優しくもされた。三年、一緒にいた。でも、あの人が、私を必要としたことは、一度もなかった」
「……」
「あの人が必要としてたのは、ずっと、いない誰かなの」
 玲奈は、猫の背中から手を離した。
「それでね、朝倉さん。ここからが、私が今日、言いに来たことなんだけど」
 灯が、少し身構えた。
「私は、あの子が誰なのか、知りません」
「はい」
「知りたいとも思わない」
「はい」
「――でも、もし、その人が、どこかで、名乗るかどうかで迷ってるとしたら」
 玲奈は、灯を見上げた。
 その目は、まっすぐだった。
「私は、名乗ってほしい」
 灯の肩が、動いた。
「なんでか、わかる?」
「……いえ」
「私が、そのほうが、気が済むから」
 玲奈は、言った。
「立派な理由じゃないのよ。私は、あの人の隣に立てなかった女として、せめて、あの席が誰かで埋まるところを見たいの。空席のままなのは、耐えられない」
 灯は、うつむいた。
 うつむいた顔から、涙が一粒、縁側の板に落ちた。
 玲奈は、それを見た。
 見て、何も言わなかった。
 ――ああ、と思った。
 この子だ。
 わかってしまった。
 わかってしまって、玲奈は、自分でも意外なほど、静かな気持ちになった。
 嫉妬は、湧かなかった。
 湧いたのは、もっと別の、なんと呼べばいいのかわからない感情だった。
 安堵に、少し似ていた。
「朝倉さん」
「……はい」
「私、小説家だから、人の顔を見ると、ろくなことを考えないの。前も言ったわね」
「はい」
「だから、いま、何も見なかったことにする」
 玲奈は、立ち上がった。
 スカートの埃を払った。
「見なかったし、聞かなかった。私は、原作者として、進行状況を確認しに来ただけ」
「……氷室さん」
「『渚を数える』、最終話まで、ちゃんと作ってね」
 玲奈は、そう言って、門のほうへ歩いた。
 門のところで、振り返った。
「朝倉さん」
「はい」
「あの人ね、静岡の実家の近くに、灯台があるの」
 灯が、顔を上げた。
「小さくて、格好の悪い灯台。あの人のお父さんが、掃除してたやつ」
「……知ってます」
「あら」
 玲奈は、少しだけ、目を細めた。
 そして、笑った。
 その笑い方は、灯が去年、喫茶店で見たものより、ずっと柔らかかった。
「――じゃあ、私が言うことは、何もないわ」
 玲奈は、門を出た。
 坂を降りながら、彼女は、鞄からノートを出した。
 歩きながら、一行だけ、書いた。

   ――空席のままなのは、耐えられない。

 いい一行だ、と思った。
 いつか、どこかで使う。
 小説家というのは、そういう生き物だった。
 自分がいちばん惨めだった感情に、値段をつけて、売る。
 玲奈は、ノートを鞄に戻した。
 坂の下で、一度だけ、振り返った。
 あかつき荘は、坂の上で、四月の光を浴びていた。
 彼女は、それきり、振り返らなかった。
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