あかつき荘の灯
第二十五話 十二年後の見出し
記事が出たのは、四月十六日、木曜日だった。
週刊誌の、見開き二ページ。
見出しは、こうだった。
――大賞脚本「原案は誰のものか」 現代の名匠・雨宮千景と、"消えた11年"の周辺
東雲弓子の打った手は、半分だけ効いた。
賞の公式発表からは、雨宮千景の名前が消えた。「スタジオ・アカツキ企画開発室」名義の原案、鹿沼律脚本、という形になり、業界向けの説明としては、それで通った。
だが、業界には、必ず、通らない人間がいる。
記事を書いたのは、藤堂という、五十がらみのフリーライターだった。
記事の内容は、慎重だった。断定はしていない。「関係者によれば」と「疑問の声もある」を丁寧に重ね、決して名誉毀損にはならない書き方をしていた。
問題は、後半だった。
記事の後半は、賞の話をやめて、雨宮千景の十二年について書いていた。
二〇〇八年の作品。社会現象。そして、三月の、群馬県の女子中学生。
記事には、こうあった。
――当時14歳だった少女は、現在25歳前後になっているはずである。
あの深夜、彼女は何を思って歩き出したのか。それを知る者は、いまだにいない。
「本人が語らないかぎり、あの事件は終わらない」と、当時を知る関係者は言う。
朝倉灯は、その記事を、コンビニで立ち読みした。
立ち読みして、そのまま買った。
三冊買った。理由は自分でもわからない。三冊買えば、世の中から三冊減ると思ったのかもしれない。
外に出て、レジ袋を提げて、坂を上った。
途中の児童公園のベンチに座って、記事をもう一度読んだ。
四月の桜は、もうほとんど散っていた。
――本人が語らないかぎり、あの事件は終わらない。
灯は、その一行を、指でなぞった。
知ってる、と思った。
私がいちばん、知ってる。
その日の夕方、あかつき荘の門の前に、男が立っていた。
灯が坂を上っていくと、男は名刺を出した。
「藤堂と申します」
記事を書いた人間だった。
思っていたより、ずっと感じのいい顔をしていた。声も柔らかい。
「スタジオ・アカツキの方ですよね」
「……はい」
「雨宮さん、いらっしゃいますか」
「取材は、会社を通してください」
灯は、そう答えた。東雲弓子に、何度も練習させられた台詞だった。
「そうですよね。失礼しました」
藤堂は、素直に引いた。
引いてから、こう言った。
「あの、これは取材じゃなくて、ただの独り言なんですが」
「……はい」
「私、十二年前も、あの件を取材してるんです」
灯の足が、止まった。
「群馬まで行きました。学校にも、警察にも。何も取れませんでしたけどね」
藤堂は、坂の下を見ていた。
「私、あのとき、まだ三十九で、若かったんです。若くて、正義感があった。あのとき私が書いた記事が、あの人を潰したっていう自覚は、あります」
灯は、その横顔を見た。
「じゃあ、なぜ、また書くんですか」
「終わってないからです」
藤堂は言った。
「私は、あの件で、二人の人生を止めたと思ってます。雨宮千景と、名前も知らない女の子。……止めたものは、動かさないと」
「動かすって、どうやってですか」
「本人が出てくれば、動きます」
藤堂は、灯のほうを向いた。
「もし、あの女の子が出てきて、『私は傷ついていない』と言ったら、それだけで、全部ひっくり返ります。十二年分が」
「……」
「私はそれを、書きたいんです。それだけのために、この十二年、この件を追ってます」
灯は、レジ袋の中の、三冊の週刊誌の重さを感じていた。
「藤堂さん」
「はい」
「その人が、出てこないのは」
灯は、言葉を選んだ。
「その人が、出てきたくないからだ、とは、思いませんか」
藤堂は、少しのあいだ、灯の顔を見た。
見て、それから、静かに言った。
「思います」
「……」
「思いますよ。当たり前です。私だったら、絶対に出ません」
彼は、鞄を持ち直した。
「でもね、お嬢さん」
灯の背筋が、伸びた。
「出てこないことで、誰かがずっと苦しんでる場合が、あるんです」
藤堂は、頭を下げた。
「失礼しました。独り言です。忘れてください」
そして、坂を下っていった。
灯は、門の前に、立ったままだった。
枇杷の木が、風に鳴った。
その夜、灯は、書斎の前に立った。
ノックしようとして、手を止めた。
止めて、また上げた。
三回目に、ようやく叩いた。
「はい」
中から、声がした。
引き戸を開けると、雨宮千景は、いつもの場所に座っていた。
だが、部屋の様子が違った。
本の塔が、崩されて、床に平らに並べられていた。まるで、片付けの途中のように。
「監督、これ」
「ああ。少し、整理してる」
「……整理」
「十年ぶりにね」
雨宮は、笑った。
その笑い方が、灯には、いやだった。
「記事、読みました」
「うん。俺も読んだ」
「あの、東雲さんが」
「東雲さんは、よくやってくれた」雨宮は言った。「あれ以上のやり方はない。あの人は、俺の百倍、大人だ」
彼は、床の本を一冊、手に取った。
「朝倉さん」
「はい」
「俺、しばらく、現場から離れようと思ってる」
灯の呼吸が、止まった。
「『渚を数える』は、久瀬と、外部の演出さんで回せる。コンテはもう十話まで上げた。あとは、東雲さんが仕切れば、問題ない」
「監督」
「うん」
「それは、逃げですか」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか、わからなかった。
言った瞬間に、自分の声が、震えているのがわかった。
雨宮は、驚いた顔をした。
それから、少し笑った。
「うん。逃げだよ」
あっさりと、認めた。
「でも、朝倉さん。俺が現場にいると、次はもっと大きい記事が出る。次は、鹿沼が名指しされる。あいつは二十八だ。あいつの三十代を、俺のせいで潰すわけにいかない」
「……」
「俺は、一回それをやってる」
雨宮は、床の本を、そっと置いた。
「十二年前、俺の書いた話のせいで、一人の子どもの人生が、変わった。名前も知らないままだ。あの子が今どうしてるか、俺は知らない。生きてるかどうかも、実は、知らない」
灯の視界が、揺れた。
「生きて――」
「うん?」
「生きて、ますよ」
声が、勝手に出た。
雨宮が、顔を上げた。
「なんで、そう思うの」
灯は、答えられなかった。
答えられずに、何秒か立っていた。
その何秒かが、たぶん、灯の人生でいちばん長い何秒かだった。
「――そう思わないと、監督が」
灯は、そう言った。
「監督が、かわいそうだからです」
雨宮は、そのまま、しばらく灯を見ていた。
それから、視線を落とした。
「ありがとう」
彼は、そう言った。
「その言い方をしてくれたのは、東雲さん以外だと、朝倉さんが初めてだよ」
灯は、頭を下げた。
下げて、部屋を出た。
廊下に出て、引き戸を閉めて、そこで、口を押さえた。
言えばよかった。
いま、言えばよかった。
なんで、言わなかったの。
答えは、わかっていた。
怖かったのだ。
「私です」と言った瞬間に、この人が私に頭を下げる、その光景が。
――優しさじゃない。あんたの都合だ。
久瀬冬吾の声が、耳の奥で鳴った。
灯は、廊下の壁に、額をつけた。
壁は、冷たかった。
週刊誌の、見開き二ページ。
見出しは、こうだった。
――大賞脚本「原案は誰のものか」 現代の名匠・雨宮千景と、"消えた11年"の周辺
東雲弓子の打った手は、半分だけ効いた。
賞の公式発表からは、雨宮千景の名前が消えた。「スタジオ・アカツキ企画開発室」名義の原案、鹿沼律脚本、という形になり、業界向けの説明としては、それで通った。
だが、業界には、必ず、通らない人間がいる。
記事を書いたのは、藤堂という、五十がらみのフリーライターだった。
記事の内容は、慎重だった。断定はしていない。「関係者によれば」と「疑問の声もある」を丁寧に重ね、決して名誉毀損にはならない書き方をしていた。
問題は、後半だった。
記事の後半は、賞の話をやめて、雨宮千景の十二年について書いていた。
二〇〇八年の作品。社会現象。そして、三月の、群馬県の女子中学生。
記事には、こうあった。
――当時14歳だった少女は、現在25歳前後になっているはずである。
あの深夜、彼女は何を思って歩き出したのか。それを知る者は、いまだにいない。
「本人が語らないかぎり、あの事件は終わらない」と、当時を知る関係者は言う。
朝倉灯は、その記事を、コンビニで立ち読みした。
立ち読みして、そのまま買った。
三冊買った。理由は自分でもわからない。三冊買えば、世の中から三冊減ると思ったのかもしれない。
外に出て、レジ袋を提げて、坂を上った。
途中の児童公園のベンチに座って、記事をもう一度読んだ。
四月の桜は、もうほとんど散っていた。
――本人が語らないかぎり、あの事件は終わらない。
灯は、その一行を、指でなぞった。
知ってる、と思った。
私がいちばん、知ってる。
その日の夕方、あかつき荘の門の前に、男が立っていた。
灯が坂を上っていくと、男は名刺を出した。
「藤堂と申します」
記事を書いた人間だった。
思っていたより、ずっと感じのいい顔をしていた。声も柔らかい。
「スタジオ・アカツキの方ですよね」
「……はい」
「雨宮さん、いらっしゃいますか」
「取材は、会社を通してください」
灯は、そう答えた。東雲弓子に、何度も練習させられた台詞だった。
「そうですよね。失礼しました」
藤堂は、素直に引いた。
引いてから、こう言った。
「あの、これは取材じゃなくて、ただの独り言なんですが」
「……はい」
「私、十二年前も、あの件を取材してるんです」
灯の足が、止まった。
「群馬まで行きました。学校にも、警察にも。何も取れませんでしたけどね」
藤堂は、坂の下を見ていた。
「私、あのとき、まだ三十九で、若かったんです。若くて、正義感があった。あのとき私が書いた記事が、あの人を潰したっていう自覚は、あります」
灯は、その横顔を見た。
「じゃあ、なぜ、また書くんですか」
「終わってないからです」
藤堂は言った。
「私は、あの件で、二人の人生を止めたと思ってます。雨宮千景と、名前も知らない女の子。……止めたものは、動かさないと」
「動かすって、どうやってですか」
「本人が出てくれば、動きます」
藤堂は、灯のほうを向いた。
「もし、あの女の子が出てきて、『私は傷ついていない』と言ったら、それだけで、全部ひっくり返ります。十二年分が」
「……」
「私はそれを、書きたいんです。それだけのために、この十二年、この件を追ってます」
灯は、レジ袋の中の、三冊の週刊誌の重さを感じていた。
「藤堂さん」
「はい」
「その人が、出てこないのは」
灯は、言葉を選んだ。
「その人が、出てきたくないからだ、とは、思いませんか」
藤堂は、少しのあいだ、灯の顔を見た。
見て、それから、静かに言った。
「思います」
「……」
「思いますよ。当たり前です。私だったら、絶対に出ません」
彼は、鞄を持ち直した。
「でもね、お嬢さん」
灯の背筋が、伸びた。
「出てこないことで、誰かがずっと苦しんでる場合が、あるんです」
藤堂は、頭を下げた。
「失礼しました。独り言です。忘れてください」
そして、坂を下っていった。
灯は、門の前に、立ったままだった。
枇杷の木が、風に鳴った。
その夜、灯は、書斎の前に立った。
ノックしようとして、手を止めた。
止めて、また上げた。
三回目に、ようやく叩いた。
「はい」
中から、声がした。
引き戸を開けると、雨宮千景は、いつもの場所に座っていた。
だが、部屋の様子が違った。
本の塔が、崩されて、床に平らに並べられていた。まるで、片付けの途中のように。
「監督、これ」
「ああ。少し、整理してる」
「……整理」
「十年ぶりにね」
雨宮は、笑った。
その笑い方が、灯には、いやだった。
「記事、読みました」
「うん。俺も読んだ」
「あの、東雲さんが」
「東雲さんは、よくやってくれた」雨宮は言った。「あれ以上のやり方はない。あの人は、俺の百倍、大人だ」
彼は、床の本を一冊、手に取った。
「朝倉さん」
「はい」
「俺、しばらく、現場から離れようと思ってる」
灯の呼吸が、止まった。
「『渚を数える』は、久瀬と、外部の演出さんで回せる。コンテはもう十話まで上げた。あとは、東雲さんが仕切れば、問題ない」
「監督」
「うん」
「それは、逃げですか」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか、わからなかった。
言った瞬間に、自分の声が、震えているのがわかった。
雨宮は、驚いた顔をした。
それから、少し笑った。
「うん。逃げだよ」
あっさりと、認めた。
「でも、朝倉さん。俺が現場にいると、次はもっと大きい記事が出る。次は、鹿沼が名指しされる。あいつは二十八だ。あいつの三十代を、俺のせいで潰すわけにいかない」
「……」
「俺は、一回それをやってる」
雨宮は、床の本を、そっと置いた。
「十二年前、俺の書いた話のせいで、一人の子どもの人生が、変わった。名前も知らないままだ。あの子が今どうしてるか、俺は知らない。生きてるかどうかも、実は、知らない」
灯の視界が、揺れた。
「生きて――」
「うん?」
「生きて、ますよ」
声が、勝手に出た。
雨宮が、顔を上げた。
「なんで、そう思うの」
灯は、答えられなかった。
答えられずに、何秒か立っていた。
その何秒かが、たぶん、灯の人生でいちばん長い何秒かだった。
「――そう思わないと、監督が」
灯は、そう言った。
「監督が、かわいそうだからです」
雨宮は、そのまま、しばらく灯を見ていた。
それから、視線を落とした。
「ありがとう」
彼は、そう言った。
「その言い方をしてくれたのは、東雲さん以外だと、朝倉さんが初めてだよ」
灯は、頭を下げた。
下げて、部屋を出た。
廊下に出て、引き戸を閉めて、そこで、口を押さえた。
言えばよかった。
いま、言えばよかった。
なんで、言わなかったの。
答えは、わかっていた。
怖かったのだ。
「私です」と言った瞬間に、この人が私に頭を下げる、その光景が。
――優しさじゃない。あんたの都合だ。
久瀬冬吾の声が、耳の奥で鳴った。
灯は、廊下の壁に、額をつけた。
壁は、冷たかった。