あかつき荘の灯

第二十六話 いなくなる

 四月二十四日、金曜日の朝。
 雨宮千景は、いなくなった。
 最初に気づいたのは、佐分利晴だった。
 朝の六時、バイトに出るために起きて、台所に降りたら、テーブルの上に、猫の餌の袋が置いてあった。
 いつもは、戸棚の中にある。
 晴は、それを見て、なぜか、いやな予感がした。
 二階に上がって、書斎の引き戸を開けた。
 開けたことは、四年間、一度もなかった。
 部屋は、片付いていた。
 本の塔が、なかった。全部、本棚に収まっていた。座卓の上には、何も載っていなかった。
 パソコンもない。
 窓際に、携帯電話が一台、置いてあった。
 充電コードにつながれたまま、画面が黒くなっていた。
 晴は、階段を駆け降りた。
「東雲さん! 東雲さん!」

 九時に、あかつき荘の居間に、五人が集まった。
 東雲弓子。久瀬冬吾。穂村まひる。鹿沼律。佐分利晴。
 朝倉灯は、六人目として、いちばん端に座っていた。
「落ち着いて聞いて」弓子が言った。
 顔色が悪かった。
「雨宮くんが、いなくなりました」
「警察に」まひるが言った。
「まだ」
「なんでですか!」
「置き手紙があるからよ」
 弓子は、一枚の紙を、座卓の上に置いた。
 便箋ではない。原稿用紙の裏だった。

   しばらく留守にします。
   探さないでください。
   ノリの餌は一日二回。缶詰は週二回まで。増やすと吐きます。
                     雨宮

 まひるが、原稿用紙を見て、いきなり泣き出した。
「なんで、猫のことばっかり」
「あの人らしいわ」弓子が言った。
「らしくないです!」
 まひるは、泣きながら怒った。
「猫のこと書くくらいなら、私たちのことも書いてくださいよ!」
 誰も、何も言えなかった。
「――前も、こうだったんですか」
 冬吾が、静かに聞いた。
 弓子は、頷いた。
「十二年前ね。携帯を置いて、鍵をかけずに、出ていった。三か月かかった」
「見つけたのは」
「私」
「どこに」
「静岡」
 弓子は言った。
「実家の近くの、潰れた旅館。でも、今回は、そこじゃないと思う。あの旅館、三年前に取り壊された」
 律が、両手で顔を覆った。
「俺のせいです」
「そうよ」
 弓子は、あっさり言った。
「あなたのせいでもあるし、私のせいでもあるし、あの人自身のせいでもある。だから、いま誰のせいかを話すのは、後回し」
 弓子は、立ち上がった。
「三日待つ。三日で戻らなかったら、警察に届ける。それまでに、心当たりのある人は、私に言って」
 全員が、黙った。
 誰も、心当たりがなかった。
 この家に何年住んでいても、あの人がどこへ行くのかを知っている人間は、一人もいなかった。

 その日の夜、灯は、書斎に入った。
 誰にも言わずに、入った。
 電気をつけると、部屋は、恐ろしいほど片付いていた。
 灯は、座卓の前に座った。
 そして、いちばん下の引き出しを開けた。
 ノートが、並んでいた。
 背表紙に、年号だけ。〇八から、一八まで。十一冊。
 一九だけが、ない。
 灯は、〇八のノートを取り出した。
 開いた。
 一行目に、こうあった。

  ――あの子が、生きていたら書く。

 灯は、そのページを、長いこと見た。
 ページをめくった。
 プロットが、びっしりと書かれていた。
 登場人物表。相関図。台詞の断片。
 灯は、次のノートを取った。〇九。同じだった。一〇も。一一も。
 十一冊。十一年分。
 全部、完成している。
 全部、誰にも見せられていない。
 ――この人は、書いていた。
 書けなかったんじゃない。
 書いて、出さなかったのだ。
 十一年間、毎年一本ずつ、誰にも見せない話を書いて、引き出しにしまっていた。
 灯は、ノートを閉じた。
 閉じて、引き出しの、いちばん奥に、手を伸ばした。
 もう一冊、薄いノートがあった。
 背表紙に、何も書いていない。
 灯は、それを開いた。

  二〇〇八年五月十一日 高崎 駅東口 五時十分に立つ
  二〇〇八年六月七日  群馬県K町 中学校前 下校時刻 四十七人
  ――該当なし

 灯の指が、止まった。
 ページをめくった。
 同じような記録が、延々と続いていた。五年分。
 途中から、年に二回になった。
 三月二十一日と、三月二十二日。
 二〇一四年。二〇一五年。二〇一六年。二〇一七年。二〇一八年。
 二〇一九年三月二十二日。高崎駅東口。五時十分。
 ――その一週間後に、灯は、この家に来た。
 灯は、ノートを、膝の上で握りしめた。
 ページの一枚に、何かが貼ってあった。
 紙のおしぼりの袋だった。皺だらけの、黄ばんだ袋。
 そこに、ボールペンで、三文字だけ書いてあった。

  高梨

 灯は、その三文字を見た。
 自分が、十四歳のときの名字を。
 二〇一二年に、家庭裁判所に申し立てて、消した名字を。
 灯の口から、声が漏れた。
 声にならない声だった。
 彼女は、ノートを胸に抱えて、床に突っ伏した。
 ――ごめんなさい。
 畳に、額を押しつけた。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 私が、消したんだ。
 あなたが十二年探していたその名前を、私が、書類の上で消したんだ。
 あなたは、いない人を探していた。
 いない人を探すように、私がしたんだ。
 どれくらい、そうしていたか、わからない。
 顔を上げたとき、部屋の窓の外は、真っ暗だった。
 灯は、涙を拭いた。
 拭いて、立ち上がった。
 そして、思い出した。
 八月の、静岡の岬。
 白い、四角い、格好のよくない灯台。
 ――いつか、夜に、見に来ましょう。
 ――いいよ。じゃあ、いつか、夜に来よう。
 灯は、走った。
 書斎を出て、階段を駆け降りて、台所に飛び込んだ。
 東雲弓子が、椅子に座って、缶ビールを開けようとしていた。
「東雲さん」
「なに、どうしたの、あなた」
「休みをください」
「は?」
「明日から、三日、休みをください」
 弓子は、缶を置いた。
 灯の顔を見た。
 その顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、目だけが、異様に光っていた。
「……朝倉さん」
「お願いします」
「あなた、心当たりがあるの」
「あります」
 灯は、言った。
「あの人と、約束を、しています」
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