あかつき荘の灯
第四部 夜明けまで歩く

第二十七話 今の庭

 久瀬冬吾が朝倉灯を捕まえたのは、四月二十四日の、深夜十一時過ぎだった。
 灯が台所で、水筒に湯を注いでいるところだった。
 テーブルの上に、リュックが置いてある。中身は少なかった。着替えが一組と、充電器と、財布。
「朝倉」
「久瀬さん」
「行くのか」
 灯は、水筒の蓋を閉めた。
「はい」
「どこに」
 灯は、少し迷った。
 迷って、答えた。
「静岡です」
 冬吾は、頷いた。
「実家か」
「いえ。実家じゃないです。町は同じですけど」
「じゃあ、どこだ」
「灯台です」
 冬吾は、椅子を引いて、座った。
「灯台」
「八月に、ロケハンで、二人で行きました。岬に、小さい灯台があって。監督のお父さんが、昔、そこの掃除をしてたそうです」
「……」
「そのとき、私、約束したんです。『いつか、夜に、見に来ましょう』って」
 冬吾は、テーブルの木目を見ていた。
「それだけか」
「それだけです」
「根拠としては、弱いな」
「弱いです」
 灯は、あっさり認めた。
「でも、あの人、そういう約束を、忘れない人だと思います」
 冬吾は、しばらく黙っていた。
 それから、立ち上がった。
「待ってろ」
 彼は、台所を出ていった。
 五分ほどで戻ってきた。
 手に、A3ほどの、平たい紙袋を持っていた。
「これ、持ってけ」
「なんですか」
「見りゃわかる」
 灯は、紙袋から中身を出した。
 絵だった。
 鉛筆画。あかつき荘の庭。
 枇杷の木。縁側。物干し。庭の隅の、剥がれかけたブロック塀。
 九月の合評会で見た絵と、構図は同じだった。
 だが、六年前の庭ではなかった。
 枇杷の木は伸びていた。ブロック塀の欠けている場所が、違っていた。物干しには、洗濯物が干してある。よく見ると、まひるのエプロンと、晴の靴下と、律のTシャツだった。
 そして、縁側に、人がいた。
 六人。
 東雲弓子が、湯呑みを持って端に座っている。まひるが、その隣で足をぶらぶらさせている。晴が、台本を広げている。律が、あぐらをかいて何か喋っている。冬吾自身が、柱にもたれて猫を撫でている。
 そして、いちばん端に、女が一人。
 朝倉灯が、立って、こちらを見ていた。
 灯は、その絵を、両手で持ったまま、動けなかった。
「……久瀬さん」
「監督に言われたんだよ。『今の庭を描け』って」
 冬吾は、椅子に座り直した。
「九月に言われて、半年かかった。先週やっと上がった。渡す前に、あの人、いなくなりやがった」
 灯は、絵を見ていた。
 絵の中の自分は、庭に立っていた。
 縁側には、上がっていなかった。
「――私、なんで、立ってるんですか」
 冬吾は、少し笑った。
「あんたが、いつも立ってるからだよ」
「え」
「あんた、この家で、一回も、縁側に座ったことがない」
 灯は、絵から顔を上げた。
「そんな、はず」
「ない。俺は数えた」
 冬吾は言った。
「みんな座る。俺も座る。監督も座る。でも、あんただけ、いつも立ってる。人にお茶を出して、洗濯物をたたんで、それで、立ってる」
「……」
「あんた、この家に、まだ住んでないんだよ」
 灯の目から、涙が落ちた。
 絵の上に落ちそうになって、灯は慌てて顔をそむけた。
「泣くな。紙がふやける」
「はい」
「それ、監督に渡してこい」
「はい」
「渡して」
 冬吾は、灯の目を見た。
「渡して、あんたも、そこに座ってこい」
 灯は、絵を紙袋に戻した。
 戻して、深く、頭を下げた。
「久瀬さん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
 冬吾は、立ち上がった。
「その代わり、ひとつだけ言わせろ」
「はい」
「――俺は、九月に、あんたを好きだと言った」
 灯は、顔を上げた。
「今も、好きだ」
 冬吾は、まっすぐに言った。
「だから、これは、俺の負けを認める作業なんだよ。俺は今、俺の絵を、好きな女に持たせて、別の男のところに行かせてる」
「久瀬さん」
「言わせろって言ったろ」
 冬吾は、笑った。
 久瀬冬吾が、はっきりと、声を出して笑うのを、灯はそのとき初めて見た。
「――だから、絶対、連れて帰ってこい。俺のこの三十分を、無駄にするな」
 灯は、涙を拭いた。
 拭いて、笑った。
「はい」
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