あかつき荘の灯

第二十八話 名乗るという仕事

 佐分利晴は、その夜、眠れなかった。
 深夜一時過ぎ、部屋を出て、階段を降りようとしたら、下から人が上がってきた。
 朝倉灯だった。
 リュックを背負って、大きな紙袋を抱えていた。
「朝倉さん」
「あ、晴ちゃん」
 二人は、階段の途中で、向かい合った。
「どこか、行くんですか」
「うん」
「探しに行くんですか」
「……うん」
 晴は、階段の一段上に立って、灯を見下ろした。
 見下ろす形になったのは、初めてだった。
「私も行きます」
「駄目」
「なんでですか」
「明日、収録でしょう」
 晴は、口をつぐんだ。
 四月末に、晴には、二本目の仕事が入っていた。
 『渚を数える』の、第五話。女生徒の役。台詞は、四行。
 決めたのは、久瀬冬吾でも東雲弓子でもなく、外部の音響監督だった。
 その人は、去年の十二月に、晴の「行っちゃった」を、スタジオで聞いていた七人のうちの一人だった。
「……はい」
「行ってきます」
 灯は、階段を上がろうとした。
 晴が、その袖を掴んだ。
「朝倉さん」
「なに」
「ひとつだけ、聞いていいですか」
 灯は、立ち止まった。
 晴は、灯の顔を見た。
 この人は、この一年、ずっと、同じ顔をしていた。
 誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰って、誰の話でも聞いて、誰にも自分の話をしない顔だ。
「朝倉さんは、なんで、この家に来たんですか」
 灯の肩が、動いた。
「その質問、みんなにされる」
「みんなするからです」
 晴は言った。
「みんな、朝倉さんに、自分の話をしました。私も、まひるさんも、久瀬さんも、鹿沼さんも」
「……うん」
「でも、朝倉さんの話を、誰も聞いてないんです」
 階段の電球が、じじ、と鳴った。
 あかつき荘の電球は、いつも切れかけている。
「晴ちゃん」
「はい」
「私、話すと、たぶん、迷惑をかける」
「かけてください」
 晴は、即答した。
「私、四十七回落ちたとき、朝倉さんに、全部話しました。何回も。何時間も」
「それは、私が」
「迷惑でしたか」
「まさか」
「じゃあ、私も、迷惑じゃないです」
 灯は、その顔を見た。
 二十三歳になった佐分利晴の顔を。
 晴は、続けた。
「私、名乗るのが、嫌いなんです」
 灯が、まばたきをした。
「『声優、志望です』って言うたびに、自分がまだ何者でもないって、自分で確認するので。ほんとに、嫌なんです」
「うん」
「でも、名乗らないと、嘘になるから」
 晴は、灯の袖を、握り直した。
「名乗るのって、自分のためじゃないんです。聞く人のためなんです」
「……」
「聞く人に、『あなたは今、誰と喋ってるか』を教えるのが、名乗るってことだと思うんです」
 灯の目から、涙が、落ちた。
 一粒だった。
 それから、堰が切れた。
 灯は、階段の途中で、紙袋を落とした。
 膝から崩れて、段に座り込んだ。
 晴は、その隣に座った。
 そして、待った。
 待つのが、この家の作法だった。
「――十二年前」
 灯は、掠れた声で言った。
「群馬で、家出した中学生の女の子がいます」
「……はい」
「『ヨルノハテ』の最終回を観て、家を出て、一晩、国道を歩いて、朝、高崎の駅で保護された子です」
 晴は、動かなかった。
「その子、私です」
 階段が、静まりかえった。
 晴は、しばらく、灯の横顔を見ていた。
 見て、それから、こう言った。
「……朝倉さん」
「うん」
「その子、死ななかったんですね」
 灯は、顔を上げた。
 晴は、泣いていなかった。
「私、その話、ネットで読んだことがあります。中学のとき。『アニメが女の子を狂わせた』っていう記事」
「うん」
「私、あの記事、大嫌いでした」
 晴の声は、震えていた。
「だって、書いた人、その子に会ってないでしょう。会ってないのに、その子が壊れたことにしてるでしょう。そんなの、ただの決めつけじゃないですか」
「……」
「その子、生きてるじゃないですか」
 晴は、灯のほうを向いた。
「生きてて、二十六歳になってて、私にごはん作ってくれてるじゃないですか」
 灯は、両手で顔を覆った。
 覆った手の隙間から、声が漏れた。
 晴は、その背中に、手を置いた。
 置いて、しばらく、さすった。
「朝倉さん」
「……うん」
「名乗ってきてください」
 晴は、言った。
「監督に、名乗ってきてください。それだけでいいです」
「怖い」
「怖いです」
 晴は、頷いた。
「怖いに決まってます。私だって、毎回怖いです」
 晴は、灯の背中を、一度、強く叩いた。
「でも、名乗らないと、嘘になるので」
 灯は、笑った。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、笑った。
「……ずるいよ、晴ちゃん」
「ずるくないです」
 晴は、階段の下に落ちた紙袋を拾って、灯に渡した。
「私、朝倉さんに、ちゃんと名乗ってもらったの、今日が初めてです」
「うん」
「よろしくお願いします、朝倉さん」
 晴は、深く、頭を下げた。
 灯も、頭を下げた。
 階段の途中で、二人の女が、互いに頭を下げていた。
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