あかつき荘の灯
第四話 書けない人
六月に入って、最初の月曜日。
灯は初めて、あかつき荘の二階のいちばん奥へ入った。
呼ばれたのだ。
夜の十時、共同の風呂から上がって廊下を歩いていると、突き当たりの引き戸が開いていて、その隙間から明かりが漏れていた。
「朝倉さん」
声がした。
灯は立ち止まった。心臓が、ばかみたいに大きく鳴った。
「はい」
「ちょっと、いい?」
引き戸を開けると、そこは書斎というより、倉庫だった。
八畳ほどの和室。壁の三面が本棚で、本棚に収まりきらない本が床に積み上がり、その塔がいくつも立っている。塔と塔のあいだに、けもの道のような通路がある。
窓際に、古い座卓。その上にノートパソコンが一台と、原稿用紙の束と、コーヒーカップが四つ。全部、中身が残っている。
雨宮千景は、座卓の前に胡坐をかいていた。
部屋着のスウェット。眼鏡をかけている。日中は外していたはずだ。
「悪いね、こんな時間に」
「いえ」
「座って。……座れる場所、あるかな」
彼は少し困った顔で周囲を見回した。
まひるが言っていた、困った顔だ、と灯は思った。
灯は本の塔をひとつ、そっと横にずらして、隙間に膝をついた。
「立って聞きます」
「それは、なんか、俺が上司みたいで嫌だな」
「上司です」
「そうなんだけど」
雨宮は、頭をかいた。
この人は、と灯は思った。この人は、想像していたよりずっと、なんというか、しまりがない。
テレビで見たことがあるのは、十一年前の映像だけだ。あのときの彼は、二十四歳で、痩せていて、記者会見の席で、たった一言だけ喋って、あとはずっと下を向いていた。
「用事なんだけどさ」
雨宮は、座卓の上の紙束を指した。
「これ、明日の朝までに、東雲さんに渡してほしい」
「今、渡さないんですか」
「あの人、今日はもう寝てる。起こすと本気で怒るから」
「あの、それ、私が起こしてもいいなら」
「いや、それは俺が寝覚めが悪い」
灯は少し笑った。
笑ってから、笑ってしまったことに、自分で驚いた。
雨宮も、少しだけ笑った。
「あのさ、朝倉さん」
「はい」
「二か月、大丈夫?」
「大丈夫、というのは」
「制作進行、二か月保てば、だいたい保つんだよ。二か月以内に半分辞める」
「半分もですか」
「半分。うちはまだマシなほうらしいけど」
雨宮はコーヒーカップのひとつを持ち上げて、中を覗いて、諦めて置いた。
「久瀬から、あんたの話を聞いた」
灯は顔を上げた。
「なんて」
「『まともだ』って」
「……それは、褒め言葉ですか」
「あいつが人を褒めるとき、語彙が二つしかない。『まとも』と『速い』」
灯はまた笑った。
部屋の中は、紙とインクと、埃と、コーヒーのにおいがした。
これが、あのにおいだ。玄関を開けたときにした、あのインクのにおいの、大元。
灯は、部屋を見回した。
本棚には、小説と、脚本の本と、写真集と、それから、なぜか植物図鑑と地図が異様に多い。
そして、机の脇の壁に、コルクボードがあった。
何も貼られていない。画鋲だけが、七本、刺さっている。
「何もないでしょう」
雨宮が言った。
灯は、見ていたことを気づかれて、うろたえた。
「すみません」
「いいよ。みんな見る」
彼は、コルクボードを一瞥した。
「昔はあそこに、プロットを貼ってた。展開ごとに一枚ずつ紙に書いて、順番を入れ替えて、並べ直して。物語って、並べ替えると全然違うものになるからさ」
「今は」
「今は、貼るものがない」
あっさりとした言い方だった。
自嘲でも、悲愴でもなかった。ただ、事実を報告する声だった。
灯は、喉のあたりが詰まるのを感じた。
「……書いて、いらっしゃらないんですか」
言ってしまってから、後悔した。
新入社員が、社長に、言っていいことではなかった。
雨宮は、少し黙った。
それから、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「書いてはいる」
「はい」
「書いてはいるんだ。仕事だから。人の原作をアニメにする分には、いくらでも書ける。それは俺、たぶん上手いんだよ。人の話を、テレビに載る形に直すのは」
彼は眼鏡をかけ直した。
「でも、自分の話は、もう書けない」
「なぜですか」
灯は、自分の声が震えていないことを祈った。
雨宮は、コルクボードのほうを見たまま言った。
「昔さ、俺の書いた話を観て、家を出た子がいるんだ」
部屋の空気が、ゆっくり止まった。
「中学生だった。三月の、夜。俺の書いたアニメの最終回を観て、そのまま、家を出て、一晩じゅう、外を歩いた。朝になって、駅で見つかった」
「……」
「三月だよ。夜は氷点下だった。その子が、もし途中でどこかに座り込んでたら、どうなってたかわからない」
雨宮は、初めて灯のほうを見た。
その目には、なんの表情もなかった。空っぽの、乾いた目だった。
「俺は、その子に会ったことがない。名前も知らない。どこの誰かも知らない。当時、報道はされたけど、未成年だからね、名前は出なかった」
「探さなかったんですか」
「探したよ」
彼はそう言って、初めて、少し笑った。
それは、灯が今まで見たなかで、いちばん見たくない種類の笑い方だった。
「探した。十一年、探してる。……気持ち悪いだろ」
灯は、首を横に振った。
振りながら、自分の視界が滲んでいることに気づいた。
まずい、と思った。ここで泣いたら、全部おかしくなる。
「すみません、私」
「いや、いいよ。俺が悪い。新人にする話じゃなかった」
雨宮は座卓の上の紙束を手に取って、灯に差し出した。
「これ、頼むね」
「……はい」
灯は両手で受け取った。
部屋を出る間際、雨宮が、思い出したように言った。
「朝倉さん」
「はい」
「群馬の、どこ?」
灯の指先が、紙束の縁を強く掴んだ。
「――前橋です」
「そう」
雨宮は、それだけ言って、パソコンのほうに向き直った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
引き戸を閉めて、廊下に出た。
灯はそこで、しばらく動けなかった。
嘘をついた。
前橋ではない。灯が育ったのは、前橋から電車で四十分かかる、小さな町だ。
なぜ嘘をついたのか、自分でもわからなかった。
いや、わかっていた。
あの人が十一年間探している「その子」の住所を、あの人はきっと、知っているからだ。報道されなくても、業界の人間なら、どこかで耳にしている。
灯は、紙束を胸に抱えて、階段を降りた。
台所に、まだ明かりがついていた。
鹿沼律が一人で、テーブルに分厚いノートを広げて、何かを書き写していた。
灯が入っていくと、律は驚いたように顔を上げ、ノートを、少し慌てて閉じた。
灯は初めて、あかつき荘の二階のいちばん奥へ入った。
呼ばれたのだ。
夜の十時、共同の風呂から上がって廊下を歩いていると、突き当たりの引き戸が開いていて、その隙間から明かりが漏れていた。
「朝倉さん」
声がした。
灯は立ち止まった。心臓が、ばかみたいに大きく鳴った。
「はい」
「ちょっと、いい?」
引き戸を開けると、そこは書斎というより、倉庫だった。
八畳ほどの和室。壁の三面が本棚で、本棚に収まりきらない本が床に積み上がり、その塔がいくつも立っている。塔と塔のあいだに、けもの道のような通路がある。
窓際に、古い座卓。その上にノートパソコンが一台と、原稿用紙の束と、コーヒーカップが四つ。全部、中身が残っている。
雨宮千景は、座卓の前に胡坐をかいていた。
部屋着のスウェット。眼鏡をかけている。日中は外していたはずだ。
「悪いね、こんな時間に」
「いえ」
「座って。……座れる場所、あるかな」
彼は少し困った顔で周囲を見回した。
まひるが言っていた、困った顔だ、と灯は思った。
灯は本の塔をひとつ、そっと横にずらして、隙間に膝をついた。
「立って聞きます」
「それは、なんか、俺が上司みたいで嫌だな」
「上司です」
「そうなんだけど」
雨宮は、頭をかいた。
この人は、と灯は思った。この人は、想像していたよりずっと、なんというか、しまりがない。
テレビで見たことがあるのは、十一年前の映像だけだ。あのときの彼は、二十四歳で、痩せていて、記者会見の席で、たった一言だけ喋って、あとはずっと下を向いていた。
「用事なんだけどさ」
雨宮は、座卓の上の紙束を指した。
「これ、明日の朝までに、東雲さんに渡してほしい」
「今、渡さないんですか」
「あの人、今日はもう寝てる。起こすと本気で怒るから」
「あの、それ、私が起こしてもいいなら」
「いや、それは俺が寝覚めが悪い」
灯は少し笑った。
笑ってから、笑ってしまったことに、自分で驚いた。
雨宮も、少しだけ笑った。
「あのさ、朝倉さん」
「はい」
「二か月、大丈夫?」
「大丈夫、というのは」
「制作進行、二か月保てば、だいたい保つんだよ。二か月以内に半分辞める」
「半分もですか」
「半分。うちはまだマシなほうらしいけど」
雨宮はコーヒーカップのひとつを持ち上げて、中を覗いて、諦めて置いた。
「久瀬から、あんたの話を聞いた」
灯は顔を上げた。
「なんて」
「『まともだ』って」
「……それは、褒め言葉ですか」
「あいつが人を褒めるとき、語彙が二つしかない。『まとも』と『速い』」
灯はまた笑った。
部屋の中は、紙とインクと、埃と、コーヒーのにおいがした。
これが、あのにおいだ。玄関を開けたときにした、あのインクのにおいの、大元。
灯は、部屋を見回した。
本棚には、小説と、脚本の本と、写真集と、それから、なぜか植物図鑑と地図が異様に多い。
そして、机の脇の壁に、コルクボードがあった。
何も貼られていない。画鋲だけが、七本、刺さっている。
「何もないでしょう」
雨宮が言った。
灯は、見ていたことを気づかれて、うろたえた。
「すみません」
「いいよ。みんな見る」
彼は、コルクボードを一瞥した。
「昔はあそこに、プロットを貼ってた。展開ごとに一枚ずつ紙に書いて、順番を入れ替えて、並べ直して。物語って、並べ替えると全然違うものになるからさ」
「今は」
「今は、貼るものがない」
あっさりとした言い方だった。
自嘲でも、悲愴でもなかった。ただ、事実を報告する声だった。
灯は、喉のあたりが詰まるのを感じた。
「……書いて、いらっしゃらないんですか」
言ってしまってから、後悔した。
新入社員が、社長に、言っていいことではなかった。
雨宮は、少し黙った。
それから、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「書いてはいる」
「はい」
「書いてはいるんだ。仕事だから。人の原作をアニメにする分には、いくらでも書ける。それは俺、たぶん上手いんだよ。人の話を、テレビに載る形に直すのは」
彼は眼鏡をかけ直した。
「でも、自分の話は、もう書けない」
「なぜですか」
灯は、自分の声が震えていないことを祈った。
雨宮は、コルクボードのほうを見たまま言った。
「昔さ、俺の書いた話を観て、家を出た子がいるんだ」
部屋の空気が、ゆっくり止まった。
「中学生だった。三月の、夜。俺の書いたアニメの最終回を観て、そのまま、家を出て、一晩じゅう、外を歩いた。朝になって、駅で見つかった」
「……」
「三月だよ。夜は氷点下だった。その子が、もし途中でどこかに座り込んでたら、どうなってたかわからない」
雨宮は、初めて灯のほうを見た。
その目には、なんの表情もなかった。空っぽの、乾いた目だった。
「俺は、その子に会ったことがない。名前も知らない。どこの誰かも知らない。当時、報道はされたけど、未成年だからね、名前は出なかった」
「探さなかったんですか」
「探したよ」
彼はそう言って、初めて、少し笑った。
それは、灯が今まで見たなかで、いちばん見たくない種類の笑い方だった。
「探した。十一年、探してる。……気持ち悪いだろ」
灯は、首を横に振った。
振りながら、自分の視界が滲んでいることに気づいた。
まずい、と思った。ここで泣いたら、全部おかしくなる。
「すみません、私」
「いや、いいよ。俺が悪い。新人にする話じゃなかった」
雨宮は座卓の上の紙束を手に取って、灯に差し出した。
「これ、頼むね」
「……はい」
灯は両手で受け取った。
部屋を出る間際、雨宮が、思い出したように言った。
「朝倉さん」
「はい」
「群馬の、どこ?」
灯の指先が、紙束の縁を強く掴んだ。
「――前橋です」
「そう」
雨宮は、それだけ言って、パソコンのほうに向き直った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
引き戸を閉めて、廊下に出た。
灯はそこで、しばらく動けなかった。
嘘をついた。
前橋ではない。灯が育ったのは、前橋から電車で四十分かかる、小さな町だ。
なぜ嘘をついたのか、自分でもわからなかった。
いや、わかっていた。
あの人が十一年間探している「その子」の住所を、あの人はきっと、知っているからだ。報道されなくても、業界の人間なら、どこかで耳にしている。
灯は、紙束を胸に抱えて、階段を降りた。
台所に、まだ明かりがついていた。
鹿沼律が一人で、テーブルに分厚いノートを広げて、何かを書き写していた。
灯が入っていくと、律は驚いたように顔を上げ、ノートを、少し慌てて閉じた。