あかつき荘の灯

第二十九話 置き手紙

 鹿沼律は、その夜、書斎にいた。
 誰にも断らずに入った。
 どうせ、もう、怒る人はいない。
 部屋は、片付いていた。
 律は、座卓の前に座った。
 そして、リュックから、大学ノートを一冊、出した。
 背表紙に、〇一九、と書いてある。
 六か月ぶりに、それを、元の場所に戻すつもりだった。
 律は、引き出しを開けた。
 開けて、そこに、他のノートが十一冊並んでいるのを見た。
 ――〇八から、一八まで。
 律が六か月前に見たときと、同じだ。
 あのとき、律は、いちばん新しい一冊だけを持って出た。
 律は、〇八のノートを、もう一度、開いた。

  ――あの子が、生きていたら書く。

 律は、その一行を見た。
 十か月前も、この一行を見た。
 見て、無視した。
 その先のプロットが面白かったから、この一行のことを、考えないことにした。
 律は、ノートを閉じた。
 そして、ようやく、理解した。
 ――俺が盗んだのは、話じゃなかった。
 俺が盗んだのは、この人が、十一年かけて、やっと一冊だけ、引き出しから出そうとしていた、その最初の一歩だ。
 律は、〇一九のノートを、引き出しに戻した。
 十二冊になった。
 引き出しを閉めて、しばらく、座っていた。
 それから、鞄からノートパソコンを出して、机の上に置いた。
 新しいファイルを開いた。
 白い画面。
 律は、そこに、一行、打った。

  『九秒』

 消した。
 もう一度、打った。
 消した。
 三度目に、律は、こう打った。

  『パンを持って帰る』

 律は、その七文字を、しばらく見ていた。
 それから、書き始めた。
 一時間、書いた。
 書けなかった。
 三行書いて、消して、また三行書いて、消した。
 律は、パソコンを閉じた。
 閉じて、笑った。
 ――そうだよな。
 俺は、四年、書けなかったんだ。
 三か月だけ書けたのは、骨があったからだ。骨がなくなれば、また書けない。
 それが、俺の実力だ。
 律は、天井を見上げた。
 見上げて、それから、机の上の原稿用紙を一枚取った。
 万年筆で、書いた。

   監督へ
   ノートを返しました。十二冊、揃っています。
   俺は、あなたのものを盗みました。
   あなたは「君の作品だ」と言いましたが、あれは嘘です。
   あなたが優しいことは知っています。だからこそ、俺は、あなたの優しさを利用しました。
   東雲さんに、五年間、自分の名前で賞に出すなと言われました。
   俺は、五年、ここにいます。
   あなたが帰ってこなくても、五年、ここにいます。
   それが、俺にできる、唯一の返し方だと思うからです。
   最後に、一つだけ、書かせてください。
   俺は、四年間、あなたに「才能がある」と言われたくて、ここにいました。
   一度も言われませんでした。
   それが、悔しくて、盗みました。
   でも、いまは、わかります。
   あなたは、俺に「才能がある」と言わなかったんじゃない。
   誰にも、一度も、言ったことがないんです。
   あなたは、人に才能があるかどうかを、決めない人です。
   「そのために三千回見たか」と聞く人です。
   俺は、三千回、見ていませんでした。
                      鹿沼律

 書き終えて、律は、それを座卓の上に置いた。
 置いて、部屋を出た。
 廊下に出ると、玄関のほうから、物音がした。
 律は、階段を降りた。
 朝倉灯が、玄関で、靴を履いていた。
「朝倉さん」
 灯が、振り返った。
「鹿沼さん」
「行くの」
「はい」
「……そっか」
 律は、なんと言えばいいのか、わからなかった。
 「見つかるといいね」も違う。「気をつけて」も違う。
 結局、こう言った。
「あの人に、伝えてほしいことがある」
「はい」
 律は、少し考えた。
 考えて、首を振った。
「――やっぱり、いい」
「え」
「俺が自分で言う」
 律は、言った。
「だから、連れて帰ってきて」
 灯は、律の顔を見た。
 そして、頷いた。
「はい」
 玄関の引き戸が、がらり、と開いた。
 四月の夜の風が、入ってきた。
 律は、その風の中に灯が出ていくのを、玄関に立って見送った。
 振り返ると、廊下の奥、台所に、明かりがついていた。
 東雲弓子が、テーブルに突っ伏して、寝ていた。
 律は、その肩に、自分の上着をかけた。
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