あかつき荘の灯

第三十話 始発列車

 三鷹駅の始発は、四時三十九分だった。
 朝倉灯は、四時十分に改札の前に着いて、シャッターが上がるのを待った。
 四月の終わりの、明け方である。
 寒くはなかった。十二年前とは、違う。
 十二年前の三月は、氷点下だった。
 灯は、自動販売機の前に立った。
 缶のミルクティーが、いちばん下の段にあった。
 「あたたかい」の赤いランプが、まだ点いていた。四月の終わりは、そろそろ切り替わる時期だ。
 灯は、百三十円を入れて、それを買った。
 缶が落ちてきた。
 両手で持った。
 あたたかかった。
 ――持って。落とさないように、両手で。
 十二年前の、高崎駅東口。
 名前も知らない駅員の人が、しゃがんで、そう言った。
 灯は、その人の顔を、いまでもはっきり覚えている。
 五十歳くらいで、眉が太くて、鼻の頭が赤かった。
 あの人にも、私は、ありがとうを言っていない。
 灯は、缶をリュックの外ポケットに入れた。
 シャッターが上がった。

 東京駅で新幹線に乗り換えるまでのあいだ、灯は、携帯を出した。
 連絡先のリストを、下へ、下へとスクロールした。
 「母」で、指を止めた。
 最後に通話したのは、二年前だ。祖母の三回忌のとき。
 時刻は、五時二十分だった。
 ――起きてるわけない。
 そう思いながら、灯は、通話ボタンを押した。
 三回、鳴った。
「……もしもし?」
 出た。
 声は、はっきりしていた。
「もしもし。灯です」
「灯? どうしたの、こんな時間に。何かあったの」
「何もない」
「何もないのに、五時に電話してこないでしょ」
 母の声には、慌てた気配があった。
 灯は、新幹線のホームのベンチに座った。
「お母さん、起きてたの」
「起きてるわよ。あんた、お母さんが何時に起きると思ってるの。五時よ、昔から」
「……そうだった」
「そうよ」
 沈黙が落ちた。
 灯は、ホームの向こうの空を見た。
 東の空が、うっすらと明るくなり始めていた。
「お母さん」
「なに」
「私、十二年前に、家出したよね」
 電話の向こうが、静かになった。
 長い沈黙だった。
 灯は、それを待った。
 この一年で覚えた、いちばん大事なことだった。
「……したね」
「うん」
「あんた、あのこと、まだ」
「まだ、っていうか」
 灯は、言葉を選んだ。
「私、あのとき、お母さんに、一個だけ、嘘ついた」
「嘘?」
「うん」
 灯は、缶ミルクティーを、リュックから出して、膝の上に置いた。
「私、アニメのせいで家を出たんじゃないの」
 母は、何も言わなかった。
「あの日の夕方、テーブルに、写真があったでしょ。写真屋さんで撮ったやつ」
 電話の向こうで、息を呑む音がした。
「四人で写ってたの。お母さんと、お父さんと、翔太と、萌花で」
「……灯」
「私、それ見て、家を出たの」
 母は、答えなかった。
「アニメじゃないの。アニメは、逆なの」
 灯は、東の空を見た。
「あの日の夜、私、アニメの最終回を観たの。それで、外に出たの。あのアニメの最終回で、女の子が夜通し歩く話をやってたから、私も歩いたの。歩いてれば朝が来るって、あれが教えてくれたから、私、途中で座らなかったの」
「……」
「座ってたら、たぶん、私、あそこで寝てた」
 母が、泣き始めた音がした。
 灯は、それを聞きながら、自分が驚くほど落ち着いていることに気づいた。
 言えた。
 十二年、誰にも言えなかったことを、いま、母に言った。
「お母さん」
「……うん」
「私、お母さんを責めてないよ」
「責めなさいよ!」
 母が、叫んだ。
「責めなさいよ、そんなの!」
「責めないよ」
 灯は言った。
「お母さん、あの写真の日、私が塾だったの、覚えてた?」
「……覚えてない」
「でしょ。だから、あれは、お母さんが忘れてただけなの。忘れられるって、そういうことなの」
「灯」
「私は、そのことで、いま、こうやって話してるだけ。責めてるんじゃない」
 新幹線の入線を告げるアナウンスが、鳴った。
「お母さん」
「なに」
「私、これから、人に会いに行くの」
「誰に」
「そのアニメを作った人」
 母が、息を止めた。
「その人、十二年、私を探してるの」
「……え」
「私が、名字を変えたから、見つからないの」
 灯は、立ち上がった。
「だから、これから、名乗りに行く」
 電話の向こうで、母が、何かを言おうとした。
 言おうとして、言葉にならなかった。
「お母さん」
「……なに」
「あのとき、迎えに来てくれて、ありがとう」
 灯は、そう言った。
「駅で、私を抱きしめてくれたの、覚えてる。お母さん、コート着てなかった。パジャマの上に、上着だけ着てた」
 母が、声を上げて泣いた。
 灯は、新幹線のドアが開くのを見ながら、静かに言った。
「じゃあ、行ってくる」
「灯」
「うん」
「――帰ってきなさいよ」
 灯は、笑った。
「うん」
 通話を切った。
 新幹線に乗った。
 窓側の席に座って、缶のミルクティーを開けた。
 まだ、少しあたたかかった。
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