あかつき荘の灯
第三十一話 灯台
その町に着いたのは、午前十時過ぎだった。
静岡で在来線に乗り換えて、さらにバスに乗った。八月に来たときと、同じ経路だった。
バスの窓から、海が見えた。
四月の海は、八月の海より、青が薄かった。
灯は、終点でバスを降りた。
防波堤があって、その内側に漁船が並んでいる。八月と同じ景色だった。
灯は、坂を上った。
道は覚えていた。写真を撮りながら歩いた道だ。庇の影の落ち方。錆びた自販機。バス停の時刻表の書体。
町の東の外れまで、四十分かかった。
岬に出た。
灯台があった。
白い、四角い、あまり格好のよくない灯台。高さは十メートルほどしかない。柵の一部が、赤茶色に錆びている。
誰もいなかった。
灯は、その場に立ち尽くした。
風が、下から吹き上げてきた。
海の音がした。
――いない。
当たり前だ、と思った。
根拠は、たった一つの約束だけだった。八か月前の、夕方の、ほんの十秒の会話。
あの人が覚えているはずがない。人の顔と名前を覚えるのが絶望的に下手な人だ。
灯は、リュックを下ろして、柵にもたれた。
しばらく、海を見た。
携帯を出して、東雲弓子にメッセージを送ろうとして、やめた。
まだ、十時だ。
灯は、その場に座った。
コンクリートの地面は、日に温められて、あたたかかった。
――待とう。
夜まで待とう。
約束は「夜に来よう」だった。だから、来るとしたら、夜だ。
灯は、リュックから水筒を出して、湯を飲んだ。
そして、待った。
十一時。
十二時。
昼過ぎに、漁師らしい老人が一人、犬を連れて通った。
灯を見て、少し驚いた顔をして、それから「こんにちは」と言った。
灯も「こんにちは」と返した。
老人は、灯台のほうを見て、それから、灯に言った。
「観光かい」
「いえ」
「そうかい」
老人は、それ以上、聞かなかった。
二時。
三時。
風が、少し強くなった。
灯は、リュックから紙袋を出して、中の絵を確かめた。
久瀬冬吾の描いた、あかつき荘の庭。
六人が縁側にいて、灯だけが、庭に立っている絵。
灯は、それを、しばらく見た。
見て、また袋に戻した。
四時。
五時。
太陽が、西に傾いた。
海の色が、変わり始めた。青から、灰色へ。灰色から、金へ。
灯は、まひるのことを思い出した。
六時ちょうどから、六時十五分まで。一分ごとに、四十色。
この海にも、名前のない色が、いくつもあった。
六時。
日が沈んだ。
空が、まだ明るいうちに、灯台の上の光が、点いた。
灯は、立ち上がった。
その灯は、思っていたより、ずっと小さかった。
白い光が、四秒に一度、回る。
海に向かって、光の筋が伸びて、消えて、また伸びる。
誰も見ていなかった。
沖に、船は一隻もいなかった。
灯は、その光を、見上げた。
――こいつはな、誰も見てなくても、点くんだよ。
八月に、あの人が言った言葉が、耳に戻ってきた。
灯の目から、涙が、勝手に落ちた。
背中で、足音がした。
灯は、振り返らなかった。
振り返れなかった。
足音は、砂利を踏んで、ゆっくりと近づいてきて、灯の三メートルほど後ろで、止まった。
長い沈黙があった。
波の音がした。
そして、声がした。
「――点いてたよ」
灯は、両手で口を押さえた。
押さえた手のあいだから、声が漏れた。
雨宮千景は、それ以上、近づかなかった。
彼は、灯の三メートル後ろに立って、灯台を見上げていた。
「昨日の夜、初めて見た」
彼は言った。
「十年以上、夜に来てなかったからさ。ほんとに点くのか、自信がなかった」
灯は、振り返った。
雨宮は、痩せていた。
髭が伸びていて、着ているものは、東京を出たときのままだった。灰色のカーディガンに、紺のスウェット。
だが、目は、あかつき荘にいたときより、ずっと、はっきりしていた。
「監督」
「うん」
「なんで、ここに」
「約束したから」
あっさりと、彼は言った。
「八月に、あんたと。『いつか、夜に来よう』って」
灯は、声が出なかった。
「一人で来るつもりだったんだけどね」
雨宮は、少し笑った。
「まあ、そうもいかないよな」
「……なんで」
「なんで?」
「なんで、私が来るってわかったんですか」
雨宮は、答えなかった。
答えずに、柵のところまで歩いてきて、灯の隣に立った。
二人は、並んで、灯台を見上げた。
四秒に一度、光が回った。
「朝倉さん」
「はい」
「怒ってる?」
「怒ってます」
「だよな」
「めちゃくちゃ怒ってます」
「うん」
「携帯、置いていくのは、駄目です」
「うん」
「猫の餌のことしか書いてない置き手紙も、駄目です」
「うん」
「穂村さんが、泣きました」
「……悪かった」
「私も、泣きました」
雨宮が、灯のほうを見た。
灯は、まっすぐ前を見ていた。
海は、もう暗かった。
灯台の光だけが、四秒に一度、海を撫でていた。
「監督」
「うん」
「なんで、いなくなったんですか」
雨宮は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「あの記事のせいだよ」
「……はい」
「あの記事の後半、読んだ?」
「読みました」
「『本人が語らないかぎり、あの事件は終わらない』ってやつ」
「はい」
雨宮は、柵に両手を置いた。
「あれを読んだとき、俺、初めて、怖くなったんだ」
「怖い?」
「うん」
彼は言った。
「今まで、俺は、あの子に会いたいと思ってた。十二年、会いたいと思ってた。でも、あの記事を読んだとき、初めて、逆のことを思った」
灯の心臓が、大きく打った。
「――このままだと、誰かが、あの子を見つける」
風が吹いた。
「俺が業界にいて、俺の名前がニュースに出続けるかぎり、あの記者は、あの子を探し続ける。そして、たぶん、いつか、見つける。あの人はプロだから」
「……」
「見つかったら、あの子は、どうなる?」
雨宮は、灯のほうを向いた。
「二十六とか、七とかだろ。仕事してるかもしれない。結婚してるかもしれない。子どもがいるかもしれない。全部、いまの生活があるはずだ」
「……はい」
「そこに、十二年前の名前が、いきなり戻ってくる」
彼の声は、低かった。
「俺は、あの子に会いたい。会って、話がしたい。でも、それは、俺の都合だ」
灯は、その言葉を、身体の真ん中で受けた。
――私の都合だ。
久瀬冬吾に、九月に言われた言葉と、同じ形をしていた。
「だから、消えることにした」
雨宮は、灯台を見上げた。
「俺が消えれば、話は終わる。記事は続かない。あの子は、見つからないで済む」
「……監督」
「これで、いいんだよ」
彼は、笑った。
「十二年待って、会わないことに決めた。それだけの話」
灯は、動けなかった。
目の前が、涙で歪んでいた。
この人は、と灯は思った。
この人は、いま、私を守るために、自分の十二年を、捨てようとしている。
私のことを、私だと知らないまま。
――ちがう。
灯は、はっとした。
知らないまま?
「監督」
「うん」
「――なんで、私が来るってわかったんですか」
もう一度、聞いた。
雨宮は、答えなかった。
灯台の光が、回った。
その光が、彼の横顔を、一瞬だけ、白く照らした。
彼は、目を閉じていた。
静岡で在来線に乗り換えて、さらにバスに乗った。八月に来たときと、同じ経路だった。
バスの窓から、海が見えた。
四月の海は、八月の海より、青が薄かった。
灯は、終点でバスを降りた。
防波堤があって、その内側に漁船が並んでいる。八月と同じ景色だった。
灯は、坂を上った。
道は覚えていた。写真を撮りながら歩いた道だ。庇の影の落ち方。錆びた自販機。バス停の時刻表の書体。
町の東の外れまで、四十分かかった。
岬に出た。
灯台があった。
白い、四角い、あまり格好のよくない灯台。高さは十メートルほどしかない。柵の一部が、赤茶色に錆びている。
誰もいなかった。
灯は、その場に立ち尽くした。
風が、下から吹き上げてきた。
海の音がした。
――いない。
当たり前だ、と思った。
根拠は、たった一つの約束だけだった。八か月前の、夕方の、ほんの十秒の会話。
あの人が覚えているはずがない。人の顔と名前を覚えるのが絶望的に下手な人だ。
灯は、リュックを下ろして、柵にもたれた。
しばらく、海を見た。
携帯を出して、東雲弓子にメッセージを送ろうとして、やめた。
まだ、十時だ。
灯は、その場に座った。
コンクリートの地面は、日に温められて、あたたかかった。
――待とう。
夜まで待とう。
約束は「夜に来よう」だった。だから、来るとしたら、夜だ。
灯は、リュックから水筒を出して、湯を飲んだ。
そして、待った。
十一時。
十二時。
昼過ぎに、漁師らしい老人が一人、犬を連れて通った。
灯を見て、少し驚いた顔をして、それから「こんにちは」と言った。
灯も「こんにちは」と返した。
老人は、灯台のほうを見て、それから、灯に言った。
「観光かい」
「いえ」
「そうかい」
老人は、それ以上、聞かなかった。
二時。
三時。
風が、少し強くなった。
灯は、リュックから紙袋を出して、中の絵を確かめた。
久瀬冬吾の描いた、あかつき荘の庭。
六人が縁側にいて、灯だけが、庭に立っている絵。
灯は、それを、しばらく見た。
見て、また袋に戻した。
四時。
五時。
太陽が、西に傾いた。
海の色が、変わり始めた。青から、灰色へ。灰色から、金へ。
灯は、まひるのことを思い出した。
六時ちょうどから、六時十五分まで。一分ごとに、四十色。
この海にも、名前のない色が、いくつもあった。
六時。
日が沈んだ。
空が、まだ明るいうちに、灯台の上の光が、点いた。
灯は、立ち上がった。
その灯は、思っていたより、ずっと小さかった。
白い光が、四秒に一度、回る。
海に向かって、光の筋が伸びて、消えて、また伸びる。
誰も見ていなかった。
沖に、船は一隻もいなかった。
灯は、その光を、見上げた。
――こいつはな、誰も見てなくても、点くんだよ。
八月に、あの人が言った言葉が、耳に戻ってきた。
灯の目から、涙が、勝手に落ちた。
背中で、足音がした。
灯は、振り返らなかった。
振り返れなかった。
足音は、砂利を踏んで、ゆっくりと近づいてきて、灯の三メートルほど後ろで、止まった。
長い沈黙があった。
波の音がした。
そして、声がした。
「――点いてたよ」
灯は、両手で口を押さえた。
押さえた手のあいだから、声が漏れた。
雨宮千景は、それ以上、近づかなかった。
彼は、灯の三メートル後ろに立って、灯台を見上げていた。
「昨日の夜、初めて見た」
彼は言った。
「十年以上、夜に来てなかったからさ。ほんとに点くのか、自信がなかった」
灯は、振り返った。
雨宮は、痩せていた。
髭が伸びていて、着ているものは、東京を出たときのままだった。灰色のカーディガンに、紺のスウェット。
だが、目は、あかつき荘にいたときより、ずっと、はっきりしていた。
「監督」
「うん」
「なんで、ここに」
「約束したから」
あっさりと、彼は言った。
「八月に、あんたと。『いつか、夜に来よう』って」
灯は、声が出なかった。
「一人で来るつもりだったんだけどね」
雨宮は、少し笑った。
「まあ、そうもいかないよな」
「……なんで」
「なんで?」
「なんで、私が来るってわかったんですか」
雨宮は、答えなかった。
答えずに、柵のところまで歩いてきて、灯の隣に立った。
二人は、並んで、灯台を見上げた。
四秒に一度、光が回った。
「朝倉さん」
「はい」
「怒ってる?」
「怒ってます」
「だよな」
「めちゃくちゃ怒ってます」
「うん」
「携帯、置いていくのは、駄目です」
「うん」
「猫の餌のことしか書いてない置き手紙も、駄目です」
「うん」
「穂村さんが、泣きました」
「……悪かった」
「私も、泣きました」
雨宮が、灯のほうを見た。
灯は、まっすぐ前を見ていた。
海は、もう暗かった。
灯台の光だけが、四秒に一度、海を撫でていた。
「監督」
「うん」
「なんで、いなくなったんですか」
雨宮は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「あの記事のせいだよ」
「……はい」
「あの記事の後半、読んだ?」
「読みました」
「『本人が語らないかぎり、あの事件は終わらない』ってやつ」
「はい」
雨宮は、柵に両手を置いた。
「あれを読んだとき、俺、初めて、怖くなったんだ」
「怖い?」
「うん」
彼は言った。
「今まで、俺は、あの子に会いたいと思ってた。十二年、会いたいと思ってた。でも、あの記事を読んだとき、初めて、逆のことを思った」
灯の心臓が、大きく打った。
「――このままだと、誰かが、あの子を見つける」
風が吹いた。
「俺が業界にいて、俺の名前がニュースに出続けるかぎり、あの記者は、あの子を探し続ける。そして、たぶん、いつか、見つける。あの人はプロだから」
「……」
「見つかったら、あの子は、どうなる?」
雨宮は、灯のほうを向いた。
「二十六とか、七とかだろ。仕事してるかもしれない。結婚してるかもしれない。子どもがいるかもしれない。全部、いまの生活があるはずだ」
「……はい」
「そこに、十二年前の名前が、いきなり戻ってくる」
彼の声は、低かった。
「俺は、あの子に会いたい。会って、話がしたい。でも、それは、俺の都合だ」
灯は、その言葉を、身体の真ん中で受けた。
――私の都合だ。
久瀬冬吾に、九月に言われた言葉と、同じ形をしていた。
「だから、消えることにした」
雨宮は、灯台を見上げた。
「俺が消えれば、話は終わる。記事は続かない。あの子は、見つからないで済む」
「……監督」
「これで、いいんだよ」
彼は、笑った。
「十二年待って、会わないことに決めた。それだけの話」
灯は、動けなかった。
目の前が、涙で歪んでいた。
この人は、と灯は思った。
この人は、いま、私を守るために、自分の十二年を、捨てようとしている。
私のことを、私だと知らないまま。
――ちがう。
灯は、はっとした。
知らないまま?
「監督」
「うん」
「――なんで、私が来るってわかったんですか」
もう一度、聞いた。
雨宮は、答えなかった。
灯台の光が、回った。
その光が、彼の横顔を、一瞬だけ、白く照らした。
彼は、目を閉じていた。