あかつき荘の灯

第三十二話 十二年

 雨宮千景が、朝倉灯を初めて見たのは、二〇一九年三月二十九日の午後だった。
 スタジオ・アカツキの、狭い会議室。
 採用面接である。制作進行の枠が一つ空いていて、応募が四人あった。
 三人目が、彼女だった。
 東雲弓子が「失礼します」と言ってドアを開け、そのあとから入ってきた。
 彼女は、ドアの前で、深く頭を下げた。
「朝倉灯と申します。よろしくお願いいたします」
 雨宮は、そのとき、自分の手が、机の下で止まったのを感じた。
 理由は、わからなかった。
 顔に見覚えはない。会ったこともない。声も知らない。
 ただ、彼女がドアの前で頭を下げたときの、その角度が、深すぎた。
 ――この子は、なにかを、頼みに来ている。
 仕事を頼みに来た人間の角度ではなかった。
 面接は、二十分だった。
 彼女は、よく喋った。要領がよく、質問には正確に答え、余計なことは言わなかった。
 雨宮は、ほとんど何も聞かなかった。
 最後に、一つだけ、聞いた。
「朝倉さんは、うちの作品、観たことある?」
 彼女は、〇・五秒、止まった。
 そして、こう答えた。
「はい。いくつか」
 いくつか、と彼女は言った。
 雨宮は、その言い方を、あとになって何度も思い出した。
 この業界の面接で、その質問に「いくつか」と答える人間は、まずいない。
 みんな、タイトルを言う。言えば点数になると思っている。
 言わない人間には、二通りある。
 本当に観ていない人間と、言い出したら止まらなくなる人間だ。
 面接のあと、雨宮は、彼女の履歴書を、もう一度見た。

  朝倉 灯  一九九四年一月生まれ
  群馬県高崎市出身

 彼は、その二行を、しばらく見た。
 見て、履歴書を、東雲の机に戻した。
 ――何人いると思ってるんだ。
 その年に群馬県で十四歳だった人間は、二万人近くいる。
 偶然だ。
 彼は、そう結論した。
 結論したことを、その日から一年間、毎日、思い出すことになるとは、思っていなかった。

 最初に「まさか」と思ったのは、入居の日だ。
 縁側で猫に餌をやっていたら、彼女が降りてきて、名乗った。
「朝倉灯です。今日から、お世話になります」
 雨宮は、顔を上げた。
 そして、二秒か三秒、黙った。
 彼女の顔を見ていた。
 その顔に、探しているものは、何もなかった。
 十一年間、彼が群馬の校門の前で見てきた顔は、全部、十四歳の顔だった。
 二十五歳の顔なんて、知るわけがない。
 彼は、いつもの台詞を言った。
「ようこそ。うるさい家だけど、慣れると眠れる」
 新入りに毎回言う台詞だった。
 言いながら、彼は、自分がその台詞に逃げたことに気づいていた。

 六月の夜、書斎に彼女を呼んだ。
 原稿を東雲に渡してほしい、というだけの用事だった。
 用事はすぐ済んだ。
 済んだのに、彼は、余計なことを喋った。
 十一年前の話をした。書けない話をした。「探してる」と言った。「気持ち悪いだろ」と言った。
 彼女は、首を横に振った。
 そして、泣きそうな顔をした。
 ――なぜ、この子が泣くんだ。
 雨宮は、そう思った。
 思いながら、口が、勝手に動いた。
「朝倉さん。群馬の、どこ?」
 聞くつもりは、なかった。
 聞いてはいけない質問だと、わかっていた。
 彼女は、〇・五秒、止まった。
 そして、答えた。
「――前橋です」
 雨宮は、「そう」とだけ言って、パソコンに向き直った。
 引き戸が閉まって、彼女の足音が階段を降りていった。
 雨宮は、そのまま、十分ほど動かなかった。
 履歴書には、高崎市と書いてあった。
 自分で書いた履歴書の出身地を、間違える人間はいない。
 ――嘘をついた。
 なぜ。
 答えは一つしかなかった。
 この子は、群馬のどこ出身かを、俺に知られたくない。
 その夜、雨宮は、引き出しの奥の、薄いノートを出した。
 おしぼりの袋が貼ってあるページを開いた。

  高梨

 彼は、その三文字を、朝まで見ていた。

 七月の合評会で、彼女は、こう言った。
「――『ここに置いておくから、食べたかったら食べなさい』」
 祖母の言葉だと、彼女は言った。
 中学のとき、家でごはんが食べられない時期があった、とも言った。
 雨宮は、そのとき、座卓の下で、指を握っていた。
 握らないと、手が震えそうだったからだ。
 彼は、枝豆の皿を、彼女のほうへ押した。
 それが、そのとき彼にできる、唯一のことだった。

 八月、静岡へ行った。
 ロケハンに監督が同行する必要は、本当はなかった。
 彼は、彼女と二人になりたかった。
 なりたい理由を、自分で説明できなかった。
 岬で、彼は、父の話をした。灯台の話をした。
 誰も見ていなくても点く、という話をした。
 彼女は、途中で、目をこすった。「砂が」と言った。
 風は、海からではなく、山から吹いていた。
 砂は、飛んでいなかった。
 帰りのバスの中で、雨宮は、窓の外を見ながら、こう考えた。
 ――もし、この子が、あの子だったら。
 そうしたら、俺は、この子に、なんと言えばいい。
 「申し訳ありませんでした」か。
 それを言った瞬間に、この子は、俺にとって「あの子」になる。
 朝倉灯という、仕事の速い、庇い癖のある、笑うのが少しだけ遅い、二十五歳の女ではなくなる。
 ――俺は、それが、嫌だ。
 雨宮は、そのとき初めて、自分の気持ちの形を、正確に知った。
 知って、絶望した。
 十一年探した。会いたいと思って生きてきた。
 その相手が目の前にいるかもしれないのに、俺は今、「あの子でないでほしい」と思っている。
 こんなに卑怯な男は、いない。

 九月、山形の国道で、彼女は言った。
「その子は、たぶん、寒かったと思います」
「でも、たぶん――ひとりでは、なかったと思います」
 雨宮は、そのとき、危うく、その場に膝をつくところだった。
 ひとりでは、なかった。
 その言い方を、なぜこの子ができる。
 あの夜のことを、外側から想像した人間は、絶対にそう言わない。
 「寂しかったと思います」と言う。「怖かったと思います」と言う。
 「ひとりでは、なかった」と言えるのは、あの夜、隣に何かがいたと知っている人間だけだ。
 雨宮は、煙草を消して、立ち上がった。
 そして、「そうだといいな」と言った。
 声が掠れた。
 真っ暗な食堂の中を、二人で手探りで歩いた。
 彼女の指が、彼の手の甲に、一度だけ触れた。
 雨宮は、その瞬間、手を握り返さなかった。
 握り返せば、たぶん、全部が壊れた。

 九月の終わりに、彼は、書けた。
 三日で書けた。十一年ぶりだった。
 書けた理由は、はっきりしていた。
 山形の九秒ではない。
 あの夜、真っ暗な店の中で、彼女が「今日は、もう、点けないほうがいいと思います」と言ったからだ。
 あの一言で、彼の中の何かが、動いた。
 ――この子は、灯を点けないという選択があることを、知っている。
 そんなことを知っている二十五歳が、この世にいる。
 それが、彼には、たまらなかった。
 書いたノートは、引き出しにしまった。
 出せなかった。
 出したら、その物語の中に、彼女がいることが、わかってしまうからだ。

 三月、彼女は、書斎に来て、こう言った。
「生きてますよ」
 なんで、そう思うの、と彼は聞いた。
 彼女は、答えられなかった。
 答えられずに、「そう思わないと、監督がかわいそうだからです」と言った。
 その瞬間に、雨宮は、確信した。
 確信して、そして、決めた。
 ――聞かない。
 永遠に、聞かない。
 理由は、三つあった。
 一つ目は、聞いてしまえば、彼女は「被害者」になる。
 二つ目は、俺が謝れば、彼女は、俺に何も言えなくなる。
 そして、三つ目が、いちばん大きかった。
 ――これは、この子のものだからだ。
 この子は、十二年、それを持っていた。
 誰にも渡さずに、抱えて生きてきた。
 それを、俺が「君がそうなんだろう」と言って取り上げたら、それは、盗みだ。
 鹿沼律がやったことと、何も変わらない。
 俺は、この一年で、それだけは学んだ。
 ――人が自分で差し出すまで、待つ。
 差し出さないなら、それは、その人のものだ。
 だから、雨宮千景は、聞かなかった。
 一年間、一度も、聞かなかった。

 四月二十三日の夜、彼は、荷物をまとめた。
 行き先は、決めていなかった。
 どこでもよかった。どこでもよかったが、一箇所だけ、頭に浮かんだ場所があった。
 彼は、そこへ行くことにした。
 行くことにして、そして、自分に、正直に言った。
 ――これは、鍵を開けておくということだ。
 この世界で、俺がここにいることを推測できる人間は、一人しかいない。
 東雲弓子でもない。久瀬冬吾でもない。
 八月の夕方、あの岬で、「いつか、夜に、見に来ましょう」と言った、あの子だけだ。
 消えるつもりだった。
 消えるつもりで、一箇所だけ、鍵を開けた。
 ――来るな、と思った。
 ――来てくれ、と思った。
 両方だった。
 彼は、静岡行きの電車に乗った。

 四月二十五日の夜。
 彼は、宿にしていた漁協の空き部屋を出て、岬まで歩いた。
 昨日と同じように、灯台の光を見に行くつもりだった。
 坂を上りきったとき、柵の前に、人影があった。
 小柄な影が、灯台を見上げていた。
 雨宮は、そこで、立ち止まった。
 三十秒ほど、動けなかった。
 波の音がした。
 彼は、砂利を踏んで、三メートル後ろまで歩いた。
 そして、言った。
「――点いてたよ」

 彼女が、「なんで、私が来るってわかったんですか」と聞いた。
 二度、聞いた。
 雨宮は、目を閉じた。
 閉じて、考えた。
 ――言うか。
 言えば、この一年が終わる。
 言えば、この子は、たぶん、名乗る。
 名乗らせていいのか。
 いや、と彼は思った。
 いいか悪いかを決めるのは、俺じゃない。
 俺は、待つと決めた。
 待つというのは、扉の前に立って、こちらから開けないということだ。
 だが、扉の前に立っていることを、伝えてはいけない、とは、誰も言っていない。
 雨宮は、目を開けた。
 灯台の光が、回った。
 彼は、まっすぐ前を見たまま、言った。
「――ここに来ることを知ってるのは、この世で一人だけだからだよ」
 彼女が、息を呑む音がした。
「俺は、その一人に、鍵を開けておいた」
 雨宮は、そこで初めて、彼女のほうを向いた。
「それだけだ」
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