あかつき荘の灯

第三十三話 夜明けまで歩く

 灯台の光が、四秒に一度、回っていた。
 朝倉灯は、雨宮千景の顔を見ていた。
 この人は、知っている。
 いつからかはわからない。けれど、知っている。
 知っていて、一年間、一度も、聞かなかった。
 ――待たれていた。
 その事実が、灯の身体の中を、熱いものになって通っていった。
 灯は、リュックを下ろした。
 下ろして、いちばん奥のポケットから、封筒を出した。
 白い封筒だった。角がすり切れて、色が黄ばんでいる。
 封は、していない。
 灯は、それを両手で持って、雨宮の前に立った。
「監督」
「うん」
「私、名乗ります」
 雨宮が、目を細めた。
「言わなくていいよ」
「言います」
 灯は、言った。
「言わないと、嘘になるので」
 風が吹いた。
 海の音が、少しだけ大きくなった。
 灯は、息を吸った。
 十二年ぶんの息だった。
「――二〇〇八年三月二十一日の夜、群馬県で、あなたの書いた『ヨルノハテ』の最終回を観て、家を出た中学二年生は、私です」
 雨宮の表情が、動かなかった。
「一晩じゅう、国道を歩きました。十四キロです。翌朝の五時十分に、高崎駅の東口で保護されました」
「……」
「当時の名前は、高梨灯です」
 言った。
 言い終わったあと、灯は、自分の膝が震えているのに気づいた。
 雨宮は、動かなかった。
 灯台の光が、一回、回った。
 二回、回った。
 三回目に、彼が動いた。
 彼は、灯の前で、膝を折ろうとした。
 地面に、手をつこうとした。
「駄目です!」
 灯は、叫んだ。
 叫んで、両手で、彼の肩を掴んだ。
 力いっぱい掴んだ。
 二十六歳の女の力では、三十六歳の男を支えることなど、本当はできない。
 できないはずなのに、雨宮の身体は、そこで止まった。
「駄目です。しないでください」
「朝倉さん」
「謝らないでください」
 灯の声は、悲鳴に近かった。
「お願いします。それだけは、しないでください」
 雨宮は、灯の顔を見上げた。
 その目から、涙が落ちていた。
 灯は、初めて、この人が泣くのを見た。
「――俺は」
 彼は、言った。
「俺は、あんたに、なんて言えばいい」
 灯は、彼の肩を掴んだまま、首を横に振った。
「何も、言わないでください」
「そんなわけには」
「じゃあ、これを読んでください」
 灯は、封筒を、彼の胸に押しつけた。
 雨宮は、それを受け取った。
「なに、これ」
「手紙です」
 灯は言った。
「十二年前に、私が、あなたに書いた手紙です」
 雨宮の手が、止まった。
「出せなかったので、ずっと、持ってました」
 彼は、封筒を、両手で持った。
 その手が、震えていた。
「読んで、いいの」
「読んでください」
 彼は、封筒から便箋を出した。
 七枚あった。
 罫線の入った、安いレターセットだった。中学生が文房具屋で買う類の、右下に小さな花が印刷されているやつだ。
 字は、丸くて、下手だった。
 雨宮は、携帯を持っていなかった。
 だから、彼は、灯台の光のほうへ、便箋を傾けた。
 四秒に一度、光が回る。
 その一瞬だけ、紙の上の字が、白く浮かんだ。
 彼は、それを、四秒に一度ずつ、読んだ。

   雨宮千景さま

   はじめまして。わたしは、ぐんまけんにすんでいる中学2年生です。
   名前は、たかなしあかりといいます。
   この手紙は、たぶん出しません。出せないと思います。でも書きます。

   わたしは、3月21日の夜に、家を出ました。
   テレビでは、アニメのせいだと言われています。
   うちのお母さんも、そう言いました。
   ちがいます。
   わたしがお家を出たのは、その日の夕方に、しゃしんを見たからです。
   4人でうつっているしゃしんでした。
   わたしは、そこにいませんでした。
   お母さんは、わるくないです。わすれていただけです。
   わすれられるって、そういうことなんだと思いました。

 雨宮は、二枚目をめくった。
 光が、回った。

   でも、これだけは書きたいです。
   わたしは、あの夜、とちゅうで、バス停でとまりました。
   やねのあるバス停で、ベンチがありました。
   すごくつかれていて、足がいたくて、耳がいたくて、そこにすわりたかったです。
   5びょうくらい、見ていました。
   すわったら、たぶん、そこでねてしまうと思いました。
   3月で、氷点下でした。ねたらどうなるか、わたしはわかっていました。
   わかっていて、5びょう、見ていました。

   そのとき、ミナモのせりふを思い出しました。

   「夜が明けるまで歩けば、朝はかってに来る。来ない朝を待ってるのは、しんどいけどさ。来る朝に向かって歩くのは、あんがい、かんたんだよ」

   かんたんじゃなかったです。ぜんぜん、かんたんじゃなかったです。
   でも、わたしは、歩きました。
   ベンチにすわらないで、歩きました。
   だから、朝になりました。

 雨宮の肩が、大きく揺れた。
 彼は、便箋を持ったまま、うずくまった。
 灯は、その隣に、しゃがんだ。
 何も言わなかった。
 波の音がした。
 光が、回った。
 三分ほどして、雨宮は、また便箋を持ち上げた。
 三枚目を読んだ。四枚目を読んだ。
 最後の、七枚目に来た。

   テレビで、あやまっているのを見ました。
   「もうしわけありませんでした」と言っていました。
   わたしは、テレビの前で、さけびました。
   声は出ませんでした。

   あやまらないでください。

   あなたは、わたしをこわしていません。
   あなたは、わたしを、あるかせてくれました。
   もし、あの日、あのアニメがなかったら、わたしは、あのベンチにすわっていました。
   だから、わたしは、いま、いきています。

   いつか、大人になったら、会いに行きます。
   会いに行って、ありがとうございましたと言います。
   それまで、書くのをやめないでください。
   おねがいします。

                 2008年4月11日 高梨 灯

 雨宮千景は、便箋を膝の上に置いた。
 置いて、両手で顔を覆った。
 そして、声を上げて泣いた。
 三十六歳の男の泣き方だった。息が詰まって、ときどき、ひゅっ、と喉が鳴った。
 灯は、その隣に座って、待った。
 待つのが、この家の作法だった。
 どれくらい、そうしていたか、わからない。
 雨宮が、顔を上げた。
 目が、真っ赤だった。
「……朝倉さん」
「はい」
「十二年、待たせた」
「はい」
「ごめん、じゃないよな」
「はい」
 灯は、頷いた。
「じゃあ、なんて言えばいい」
 灯は、リュックの外ポケットに、手を伸ばした。
 缶のミルクティーを、出した。
 朝、三鷹の駅で買ったものだ。
 もう、とっくに冷たくなっていた。
 灯は、それを、両手で持って、雨宮に差し出した。
「持ってください」
「え」
「落とさないように、両手で」
 雨宮は、その缶を、両手で受け取った。
 灯は、笑った。
 泣きながら、笑った。
「十二年前の朝、高崎駅の駅員さんが、私に、そう言ってくれました」
「……」
「名前も知らない人です。何も聞かないで、これをくれました。あのとき、これが、すごく熱かったんです」
 灯は、袖で顔を拭いた。
「私、その人にも、ありがとうを言ってません」
 雨宮は、缶を両手で包んだ。
「冷たいよ」
「はい。朝、買ったので」
「そうか」
「――でも、持ってください」
 雨宮は、頷いた。
 そして、缶を、上着のポケットに入れた。
 二人は、しばらく、灯台の下に座っていた。
 光が、回っていた。
 海には、船が一隻もいなかった。
「監督」
「うん」
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「うん」
「私が、あの子だってわかってて、なんで、聞かなかったんですか」
 雨宮は、海のほうを見た。
「あんたのものだからだよ」
「……え」
「十二年、あんたが持ってたものだ。俺が『君だろ』って言って取り上げたら、それは、盗みだ」
 彼は言った。
「うちのアシスタントが、やったのと、同じだ」
 灯は、その言葉を聞いて、また泣いた。
 この人は、と思った。
 この人は、こういう人なのだ。
 誰かが差し出すまで、絶対に、手を出さない。
 だから、この人は、十二年、何も持てなかった。
「監督」
「うん」
「あの、私」
 灯は、膝の上で、両手を握った。
 喉が、震えていた。
「私、あなたのことが、好きです」
 言った。
 言ってしまった。
 波の音が、やけに大きく聞こえた。
 雨宮は、しばらく黙っていた。
 それから、こう言った。
「朝倉さん」
「はい」
「俺は、十二年、あの子を探してた」
 灯は、うつむいた。
 わかっていた。
 この人にとって、私は「あの子」だ。それ以上には、なれない。
「でもさ」
 雨宮が、言った。
「去年の八月に、この岬で、俺、怖くなったんだよ」
 灯は、顔を上げた。
「もし、この子があの子だったら、俺は、この子に謝らないといけない。謝ったら、この子は『あの子』になる。仕事が速くて、人を庇う癖があって、笑うのが少しだけ遅い、朝倉灯じゃなくなる」
「……」
「俺は、それが、嫌だった」
 彼は、灯のほうを向いた。
 灯台の光が、彼の顔を、白く照らした。
「十二年探した相手に、『あの子じゃないでほしい』って思ったんだ。最低だろ」
「最低じゃないです」
「最低だよ」
 雨宮は、笑った。
 それから、真顔になった。
「――だから、答えは、こうだ」
 彼は、言った。
「俺が隣にいてほしいのは、あの子じゃない。朝倉灯さんだ」
 灯は、両手で口を押さえた。
 押さえた指のあいだから、声が漏れた。
 雨宮は、立ち上がった。
 立ち上がって、灯に、手を差し出した。
 灯は、その手を掴んだ。
 彼は、握り返した。
 九月の、真っ暗な食堂で、握り返さなかった手を。

 時計は、午後八時を回っていた。
 夜明けまで、八時間以上ある。
「朝倉さん」
「はい」
「歩こうか」
「え」
「東に」
 雨宮は、岬の向こうを指した。
 その先は、暗くて、何も見えなかった。
「あの最終回、俺、朝日を出さなかったんだよ」
「はい。知ってます」
「なんで出さなかったか、知ってる?」
「東雲さんに、聞きました。『出したら嘘になるから』って」
「そう」
 雨宮は、頷いた。
「観てる人の中に、明日、朝が来ない人がいるかもしれないと思った。だから、白むところで止めた」
 彼は、灯の手を握ったまま、言った。
「でも、今日は」
 灯は、彼を見た。
「出るまで、いようか」
 灯の視界が、また滲んだ。
「……はい」
 二人は、岬を降りた。
 海沿いの道を、東へ歩いた。
 街灯は、まばらだった。
 夜の海は、真っ黒で、波の白いところだけが見えた。
 二人は、あまり喋らなかった。
 ときどき、どちらかが、思い出したように何かを言って、もう一方が答えた。
「ノリ、餌、増やすと吐くんですよね」
「吐く」
「穂村さんが、缶詰を週三回あげてました」
「あの馬鹿」
 午前二時に、二十四時間営業のスーパーがあった。
 二人は、そこでおにぎりを買って、駐車場の縁石に座って食べた。
 午前四時に、空の東の端が、ほんのわずかに、色を変えた。
 紺から、藍へ。
 灯は、それを見て、まひるのことを思い出した。
 ――一分ごとに、色が変わる。
 午前四時四十分、二人は、小さな漁港の防波堤にいた。
 東の空が、白んでいた。
 灯は、その空を見た。
 十二年前の朝と、同じ空だった。
 あのとき、灯は、高崎駅の東口で、しゃがみこんでいた。
 缶を両手で持って、泣いていた。
 空は、白むだけで、朝日は、まだ昇っていなかった。
 午前四時五十八分。
 海の向こうに、光の点が、生まれた。
 小さな点だった。
 それが、じわじわと広がって、水平線の上に、一本の線を引いた。
 朝日だった。
 灯は、その光を、見た。
 隣で、雨宮が、小さく言った。
「――出たな」
「はい」
「十二年ぶりに見た」
「私もです」
 灯は、笑った。
 笑って、それから、泣いた。
 雨宮は、灯の手を、握り直した。
「朝倉さん」
「はい」
「帰ろうか」
「はい」
「――家に」
 灯は、頷いた。
 朝日が、二人の顔を、正面から照らしていた。
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