あかつき荘の灯

第三十四話 一年後の春

 二〇二一年、四月。

   *

 穂村まひるは、山形にいた。
 実家の食堂は、もうない。建物は去年の冬に取り壊されて、いまは更地になっている。国道沿いの、無駄に広い駐車場だけが、そのまま残っていた。
 まひるは、その更地の前に、両親と三人で立っていた。
「ここに、あったんだよねえ」母が言った。
「あったよ」父が言った。
 二年ぶりに聞いた、父の声だった。
 まひるは、鞄からタブレットを出した。
「見て」
「なに」
「これ」
 画面に、映像が流れた。
 連続ドラマ『あかつき』の、第九話。
 三か月前に放送された回である。深夜枠の、全十一話。派手な作品ではなかった。視聴率も、よくなかった。
 だが、最終話の翌日、この作品の名前は、この国のいくつかの場所で、確かに口にされた。
 画面の中で、女優が、店の壁のスイッチの前に立っていた。
 一つ目。厨房の白い光。
 三秒。
 二つ目。店内のオレンジの光。
 六秒。
 その六秒のあいだ、女優は、窓の外を見ていた。
 三つ目。
 看板の電球が、四つ、点いた。
 外が、暗くなった。
 店の中だけが、世界でいちばん明るくなった。
 母が、「あっ」と言った。
 まひるは、母の顔を見た。
 母は、口を押さえていた。
 父は、何も言わなかった。
 言わないまま、腰の後ろで手を組んで、更地のほうを向いていた。
 その背中が、少し、揺れていた。
 まひるは、タブレットを止めた。
「これね」まひるは言った。「私が色、やったの」
「あんたが?」
「うん。撮影のとき、照明さんと一緒に、色、決めたの。九秒ぜんぶ」
「……そう」
「うちの店の色にしたよ」
 母が、まひるの背中を、ぱん、と叩いた。
 痛かった。
 まひるは、笑った。

   *

 佐分利晴は、その日、アフレコスタジオにいた。
 新作の、第一話の収録である。
 台本の表紙には、こうあった。

  『とうだいもり』第一話「点かない夜」
  原作・脚本 雨宮千景

 晴の役は、主人公の姉だった。
 名前のある役で、全話に出る。台詞は、第一話だけで、四十二行ある。
 ブースに入る前、音響監督が、晴を呼び止めた。
 去年、『渚を数える』でも一緒だった人だ。
「佐分利さん」
「はい」
「あなたさ、一昨年の暮れに、うちのスタジオで、一言の役やったよね」
 晴は、息を呑んだ。
「……はい」
「『行っちゃった』ってやつ」
「はい」
「あれ、カットになったんだよね。ごめんね、あれ、編集の判断で」
「いえ」
「でもさ」
 音響監督は、台本をめくりながら、言った。
「あの一言、俺、覚えてたんだよ」
 晴は、動けなかった。
「あのとき、七人くらいしか聞いてないんだけどさ。まあ、そのうちの一人が、いま、目の前にいるってこと」
 彼は、そう言って、ブースのほうを顎で示した。
「入って」
「はい」
 晴は、ブースに入った。
 マイクの前に立った。
 台本を開いた。
 深く息を吸って、そして、名乗った。
「――佐分利晴です。よろしくお願いします」
 志望、という言葉は、もう、つけなかった。

   *

 鹿沼律は、あかつき荘の一階の、自分の部屋にいた。
 机の上に、二つのファイルがある。
 一つは、仕事だ。他社の原作もののシリーズ構成。会社名義の企画で、律の名前は、クレジットの下のほうに、「脚本」の四人のうちの一人として載る。
 東雲弓子との約束の、二年目である。
 もう一つは、白いファイルだった。
 表紙に、手書きで、こうある。

  『パンを持って帰る』

 一年で、四十枚しか書けていない。
 毎晩、三行書いて、二行消す。そういう書き方しかできない。
 骨がないからだ。
 骨のない話を書くのが、こんなに難しいということを、律は二十九歳にして、初めて知った。
 その夜、ドアがノックされた。
「はい」
 穂村まひるだった。
 山形から帰ってきたばかりらしく、手に大きな紙袋を提げている。
「お土産」
「え」
「みんなに配ってる。あんただけ配らないの、面倒だから」
 律は、紙袋を受け取った。
 中は、芋煮のレトルトだった。
「……ありがとう」
「べつに」
 まひるは、部屋の中を、ちらりと見た。
 机の上の、白いファイルに、目を止めた。
「それ、なに」
「……新しいやつ」
「ふうん」
 まひるは、それ以上聞かなかった。
 ドアの前で、少し立っていた。
「鹿沼さん」
「なに」
「私、まだ許してないですよ」
「知ってる」
「一生許さないって言いましたし」
「覚えてる」
「でも」
 まひるは、廊下の壁を見ながら言った。
「ドラマの九秒、色、私がやりました」
 律は、顔を上げた。
「え」
「東雲さんが、ねじ込んでくれたんです。『原案の出どころに敬意を払え』って、テレビ局に言って」
「……」
「だから、あの九秒は、私のです」
 まひるは、律を見た。
「あなたのじゃないです」
「うん」
「私のです」
「――うん」
 律は、頷いた。
 まひるは、しばらく律の顔を見て、それから、こう言った。
「今度、うちの店の跡地、見に行きますか」
 律は、驚いて、まひるの顔を見た。
「え」
「更地です。何にもないです。三十二年やって、何にもなくなったところです」
 まひるは、言った。
「見てないものは書かないでください、って言ったのは、私なので」
 律の目が、熱くなった。
 彼は、下を向いた。
「……行かせてください」
「はい」
 まひるは、それだけ言って、廊下を歩いていった。
 律は、ドアを閉めて、机の前に座った。
 白いファイルを開いた。
 その夜、律は、七行書いた。
 一行も、消さなかった。

   *

 久瀬冬吾は、四階の隅の席で、絵を描いていた。
 『とうだいもり』の作画監督である。
 久しぶりの、オリジナル作品だった。
 オリジナルは、しんどい。原作がないということは、頼れる形がないということだ。誰も、その顔を見たことがない。
 冬吾は、それが、たまらなく楽しかった。
「久瀬さん」
 顔を上げると、朝倉灯が立っていた。
 手に、絵コンテの束を持っている。
「第四話のコンテ、上がりました」
「見せろ」
 冬吾は、それを受け取った。
 表紙に、こうあった。

  『とうだいもり』第四話 絵コンテ 朝倉灯

 冬吾は、それをめくった。
 一枚目。二枚目。三枚目。
 黙って、最後まで見た。
 三分かかった。
「……朝倉」
「はい」
「ここの、手」
 冬吾は、あるコマを指した。
 主人公が、ドアの前で、手を伸ばしている絵だった。
「これ、開きすぎだ」
 灯が、身を乗り出した。
「この子、まだ迷ってるだろ」
 灯は、そのコマを見た。
 見て、笑った。
「――そうですね」
「直せ」
「はい」
 灯は、鉛筆を出して、その場で、指を三本、内側に寄せた。
 二秒で終わる修正だった。
 絵が、変わった。
「これだ」冬吾は言った。
「はい」
「――二年前の、仕返しだからな」
「知ってます」
 灯は、笑った。
 その笑い方は、相変わらず、少しだけ遅れて始まった。
 冬吾は、コンテを机に置いた。
 置いて、ふと、聞いた。
「監督は」
「上です」
「書いてるか」
「書いてます」
「そうか」
 冬吾は、液晶タブレットに向き直った。
 向き直ってから、背中で言った。
「朝倉」
「はい」
「――幸せか」
 灯は、少しのあいだ、黙った。
 それから、答えた。
「はい」
「そうか」
 冬吾は、それだけ言って、線を引き始めた。
 その線は、まったく震えていなかった。

   *

 氷室玲奈の新刊が出たのは、その年の三月だった。
 『空席』という、短い長編である。
 書店に並んだのは三月十日で、朝倉灯がそれを買ったのは、十二日の夜だった。
 三鷹の駅前の書店で、平積みの一冊を取って、レジに出した。
 帰りの坂の途中で、我慢できずに、街灯の下で最初の一ページを読んだ。

   ――空席のままなのは、耐えられない。だから私は、誰かを座らせるために書く。

 灯は、そのページの前で、五分ほど立っていた。
 その本は、四十代の女性小説家が主人公だった。彼女は、かつて三年付き合った男のことを、十年経ってから小説にする。
 男は、ある事故で人を傷つけたと思い込んでいて、その思い込みのために書けなくなっている。
 主人公は、その男を救わない。
 救えないまま、別れる。
 物語は、彼女がその男を小説にする、というところで終わる。
 最後の一行は、こうだった。

   ――私は、あなたを救えなかった。でも、あなたを、書くことはできた。それは、たぶん、同じくらいの仕事だ。

 灯は、その本を、二晩かけて読んだ。
 読み終えた朝、氷室玲奈にメールを送った。
 本文は、三行だけ書いた。

    『空席』、読みました。
    最後の一行を、雨宮に読ませました。
    あの人、台所で、十分くらい動きませんでした。

 返事は、その日の夕方に来た。
 こちらも、三行だった。

    ありがとう。
    次の原作、まだ書いてないから、催促しないでね。
    ――あの席、埋まったみたいで、よかったです。

 灯は、その最後の一行を、しばらく見ていた。
 見て、それから、携帯を閉じた。
 返事は、書かなかった。
 書かないほうがいい返事が、この世にはある。

   *

 東雲弓子は、五十二歳になった。
 その日、彼女は、会議室で、来期の予算表を睨んでいた。
 二年前と、同じ光景である。
 違うのは、机の上に、企画書が三本、載っていることだった。
 三本とも、雨宮千景の名前が入っている。
 弓子は、そのうちの一本を手に取った。
 『とうだいもり』の、企画書。
 その最初のページに、企画意図が、五行だけ書いてある。

  ――誰も見ていない灯が、この世界にはある。
  ――見ていないほうが多い。むしろ、ほとんど誰も見ていない。
  ――それでも、それは点く。
  ――一年に一回か二回、たまたま迷った誰かが、それを見る。
  ――この話は、その一回について書く。

 弓子は、その五行を、三回読んだ。
 三回読んで、机に置いて、天井を見た。
 ――十三年、かかった。
 弓子は、そう思った。
 二〇〇八年の三月から、二〇二一年の四月まで。
 長かった。
 長かったが、この業界で、十三年待てる人間は、そう多くない。
 自分は、待った。
 それだけは、褒めていい。
 弓子は、缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。
 そして、携帯を出して、一件のメッセージを打った。
 宛先は、雨宮千景。

   第四話のコンテ、いいわね。朝倉さんに、よろしく言っといて。
   あと、あの子を演出に上げるなら、給料も上げなさい。社長でしょ。

 送信して、弓子は、少し笑った。
 窓の外を、鳩が横切った。
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