あかつき荘の灯
間章 母、坂を上る
高梨多恵子が三鷹の駅に降りたのは、二〇二一年五月の、水曜日の午前十一時だった。
五十八歳になっていた。
埼玉の家を七時半に出て、電車を三回乗り換えた。荷物は、大きな紙袋がひとつ。中に、群馬の菓子と、漬物と、それから、封筒がひとつ入っていた。
娘には、前の日に電話をした。
「明日、そっち行っていい?」
「え」
「いいの? だめなの?」
「……いいけど。何しに」
「顔見に」
電話の向こうで、娘が、少し黙った。
「うち、変な家だよ」
「知ってる。あんたが言ってた」
「変な人しかいないよ」
「知ってる」
多恵子は、そう言って、電話を切った。
切ってから、台所で、三十分泣いた。
夫には、見つからないようにした。
坂は、思っていたより急だった。
多恵子は、途中の酒屋の前で、一度立ち止まった。
赤い自動販売機があった。
その前で、しばらく、動かなかった。
――缶のミルクティー。
あの朝、詰所で、灯が両手で持っていたもの。
多恵子は、それを、十三年間、一度も飲んでいない。
飲めなかった、というのが正確だ。
彼女は、財布を出した。
出して、また、しまった。
まだだ、と思った。
まだ、私が飲んでいいものじゃない。
坂を上りきると、古い二階建てが見えた。
枇杷の木があった。
門柱に、手書きの表札があった。字が、あまり上手ではない。
「――お母さん」
声がして、多恵子は、振り返った。
娘が、門の内側に立っていた。
二十七歳になった、朝倉灯が。
多恵子は、その顔を見た瞬間に、息が詰まった。
二年ぶりだった。
この子は、痩せていなかった。
それが、なにより、ありがたかった。
「……来たわよ」
「うん」
「重かった」
「持つよ」
灯は、紙袋を受け取った。
中を覗いて、「多いよ」と言った。
「多いに決まってるでしょ。七人いるんでしょ」
「なんで知ってるの」
「あんたが言ったの。電話で」
灯は、少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
あかつき荘の居間は、昼間でも薄暗かった。
多恵子は、座卓の前に座らされ、五分もしないうちに、四人に囲まれた。
「お母さん、若いですね!」
「ほんとに朝倉さんのお母さん?」
「唐揚げのレシピ、あれ、山形の母のと、どっちが」
「うるさい。全員、外出ろ」
最後の声は、四十過ぎの無愛想な男だった。
男は、四人を廊下に追い出して、多恵子に茶を出した。
「久瀬といいます」
「はあ」
「――朝倉さんには、世話になってます」
男は、それだけ言って、頭を下げて、出ていった。
多恵子は、その背中を見送った。
――いい人たちだ。
彼女は、そう思った。
思ってから、涙が出そうになって、慌てて茶をすすった。
昼過ぎに、その人が来た。
廊下の奥から歩いてきて、居間の入口で、立ち止まった。
痩せた男だった。
三十七歳。灰色のカーディガンに、紺のスウェット。髪に、少し白いものが混じっている。
テレビで見た顔より、ずっと、疲れて見えた。
そして、テレビで見た顔より、ずっと、穏やかだった。
「雨宮です」
男は、そう名乗って、頭を下げた。
多恵子は、座布団から降りた。
畳に、両手をついた。
「お母さん」
灯が、慌てた。
「お母さん、やめて」
「やめない」
多恵子は、額を、畳につけた。
「――申し訳ありませんでした」
部屋が、静まりかえった。
「私です」
多恵子は、畳に額をつけたまま、言った。
「私が、警察の人に、『アニメのせいだ』って言ったんです。あの朝、詰所で。混乱してて、何を言えばいいかわからなくて、それで、そう言ったんです」
「……」
「そのせいで、あなたが」
多恵子の声が、割れた。
「あなたが、十三年」
雨宮千景は、その前に、膝をついた。
そして、多恵子の肩に、そっと手を置いた。
「お母さん」
「はい」
「顔を上げてください」
「上げられません」
「上げてください」
彼の声は、静かだった。
「お母さんが謝ったら、この子が困ります」
多恵子は、顔を上げた。
娘が、部屋の隅に立って、両手で口を押さえていた。
雨宮は、多恵子の顔を見て、こう言った。
「俺は、あの朝、そこにいませんでした」
「……はい」
「お母さんは、いました。パジャマの上に上着だけ着て、サンダルで、走ってきた」
多恵子の目が、大きくなった。
「……なんで、それを」
「この子が、覚えてました」
雨宮は、灯のほうを見た。
「十三年、覚えてました」
多恵子は、両手で顔を覆った。
覆って、声を上げて泣いた。
灯が、その隣に座った。
座って、母の背中に、手を置いた。
雨宮は、静かに立ち上がって、部屋を出ていった。
襖を、音を立てずに閉めた。
二人になって、しばらくして、多恵子が言った。
「……灯」
「うん」
「あんた、お母さんに、言いたいこと、あるでしょ」
「ないよ」
「あるでしょ」
多恵子は、洟をかんだ。
「言いなさいよ。今日、そのために来たんだから」
灯は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「じゃあ、ひとつだけ」
「なに」
「あの写真」
多恵子の肩が、揺れた。
「四人で写ってた、あの写真」
「うん」
「あれ、まだ、ある?」
多恵子は、顔を上げた。
そして、紙袋の中から、封筒を出した。
「……持ってきた」
「え」
「あんたが電話で、あの話したでしょ。去年」
多恵子は、封筒を、座卓の上に置いた。
「あれから、探したの。押し入れの奥にあった」
灯は、封筒を開けた。
中に、色の褪せた写真が一枚。
高梨啓一が真ん中にいて、その隣に多恵子がいて、前に翔太と萌花が並んでいる。
四人だった。
灯は、その写真を、しばらく見た。
「――お母さん」
「なに」
「私、これ見ても、もう、なんともないや」
多恵子が、灯の顔を見た。
「ほんとに?」
「ほんと」
灯は、写真を封筒に戻した。
「なんかね、いま見ると、みんな、顔がこわばってるの。お父さん、緊張しすぎ」
「そうなのよ、あの人、写真嫌いで」
「萌花、前歯ないじゃん」
「抜けてたのよ、ちょうど」
多恵子は、笑った。
笑って、また、少し泣いた。
「灯」
「うん」
「今度さ」
「うん」
「五人で、撮る?」
灯は、母の顔を見た。
十三年前、キッチンで菜箸を持ったまま止まった、あの人の顔を。
「――撮ろっか」
灯は、そう言った。
「でも、五人じゃ足りないと思う」
「え?」
「たぶん、十二人になる」
「なんで!」
「この家、そういう家なの」
灯は、笑った。
襖の向こうで、誰かが「聞こえてますよー」と言った。
まひるの声だった。
多恵子が、噴き出した。
夕方、多恵子は、坂を降りた。
灯が、駅まで送った。
途中の酒屋の前で、多恵子は、立ち止まった。
赤い自動販売機の前だった。
「お母さん?」
多恵子は、財布を出した。
百三十円を入れて、缶のミルクティーを買った。
落ちてきた缶を、両手で持った。
あたたかかった。
多恵子は、しばらく、それを両手で包んでいた。
そして、灯のほうを向いて、こう言った。
「あんた、これ、あの朝、持ってたよね」
灯は、頷いた。
「うん」
「お母さん、十三年、これ飲めなかったの」
「……知らなかった」
「言ってないもん」
多恵子は、プルタブを開けた。
一口飲んだ。
そして、少し笑った。
「――甘いね」
「甘いよ」
「こんなに甘かったっけ」
「甘いの」
灯は言った。
「甘くて、あったかいの。だから、あれでよかったの」
多恵子は、頷いた。
頷いて、缶を持ったまま、坂を降りた。
娘が、その隣を歩いていた。
五月の夕方の光が、二人の背中にあたっていた。
五十八歳になっていた。
埼玉の家を七時半に出て、電車を三回乗り換えた。荷物は、大きな紙袋がひとつ。中に、群馬の菓子と、漬物と、それから、封筒がひとつ入っていた。
娘には、前の日に電話をした。
「明日、そっち行っていい?」
「え」
「いいの? だめなの?」
「……いいけど。何しに」
「顔見に」
電話の向こうで、娘が、少し黙った。
「うち、変な家だよ」
「知ってる。あんたが言ってた」
「変な人しかいないよ」
「知ってる」
多恵子は、そう言って、電話を切った。
切ってから、台所で、三十分泣いた。
夫には、見つからないようにした。
坂は、思っていたより急だった。
多恵子は、途中の酒屋の前で、一度立ち止まった。
赤い自動販売機があった。
その前で、しばらく、動かなかった。
――缶のミルクティー。
あの朝、詰所で、灯が両手で持っていたもの。
多恵子は、それを、十三年間、一度も飲んでいない。
飲めなかった、というのが正確だ。
彼女は、財布を出した。
出して、また、しまった。
まだだ、と思った。
まだ、私が飲んでいいものじゃない。
坂を上りきると、古い二階建てが見えた。
枇杷の木があった。
門柱に、手書きの表札があった。字が、あまり上手ではない。
「――お母さん」
声がして、多恵子は、振り返った。
娘が、門の内側に立っていた。
二十七歳になった、朝倉灯が。
多恵子は、その顔を見た瞬間に、息が詰まった。
二年ぶりだった。
この子は、痩せていなかった。
それが、なにより、ありがたかった。
「……来たわよ」
「うん」
「重かった」
「持つよ」
灯は、紙袋を受け取った。
中を覗いて、「多いよ」と言った。
「多いに決まってるでしょ。七人いるんでしょ」
「なんで知ってるの」
「あんたが言ったの。電話で」
灯は、少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
あかつき荘の居間は、昼間でも薄暗かった。
多恵子は、座卓の前に座らされ、五分もしないうちに、四人に囲まれた。
「お母さん、若いですね!」
「ほんとに朝倉さんのお母さん?」
「唐揚げのレシピ、あれ、山形の母のと、どっちが」
「うるさい。全員、外出ろ」
最後の声は、四十過ぎの無愛想な男だった。
男は、四人を廊下に追い出して、多恵子に茶を出した。
「久瀬といいます」
「はあ」
「――朝倉さんには、世話になってます」
男は、それだけ言って、頭を下げて、出ていった。
多恵子は、その背中を見送った。
――いい人たちだ。
彼女は、そう思った。
思ってから、涙が出そうになって、慌てて茶をすすった。
昼過ぎに、その人が来た。
廊下の奥から歩いてきて、居間の入口で、立ち止まった。
痩せた男だった。
三十七歳。灰色のカーディガンに、紺のスウェット。髪に、少し白いものが混じっている。
テレビで見た顔より、ずっと、疲れて見えた。
そして、テレビで見た顔より、ずっと、穏やかだった。
「雨宮です」
男は、そう名乗って、頭を下げた。
多恵子は、座布団から降りた。
畳に、両手をついた。
「お母さん」
灯が、慌てた。
「お母さん、やめて」
「やめない」
多恵子は、額を、畳につけた。
「――申し訳ありませんでした」
部屋が、静まりかえった。
「私です」
多恵子は、畳に額をつけたまま、言った。
「私が、警察の人に、『アニメのせいだ』って言ったんです。あの朝、詰所で。混乱してて、何を言えばいいかわからなくて、それで、そう言ったんです」
「……」
「そのせいで、あなたが」
多恵子の声が、割れた。
「あなたが、十三年」
雨宮千景は、その前に、膝をついた。
そして、多恵子の肩に、そっと手を置いた。
「お母さん」
「はい」
「顔を上げてください」
「上げられません」
「上げてください」
彼の声は、静かだった。
「お母さんが謝ったら、この子が困ります」
多恵子は、顔を上げた。
娘が、部屋の隅に立って、両手で口を押さえていた。
雨宮は、多恵子の顔を見て、こう言った。
「俺は、あの朝、そこにいませんでした」
「……はい」
「お母さんは、いました。パジャマの上に上着だけ着て、サンダルで、走ってきた」
多恵子の目が、大きくなった。
「……なんで、それを」
「この子が、覚えてました」
雨宮は、灯のほうを見た。
「十三年、覚えてました」
多恵子は、両手で顔を覆った。
覆って、声を上げて泣いた。
灯が、その隣に座った。
座って、母の背中に、手を置いた。
雨宮は、静かに立ち上がって、部屋を出ていった。
襖を、音を立てずに閉めた。
二人になって、しばらくして、多恵子が言った。
「……灯」
「うん」
「あんた、お母さんに、言いたいこと、あるでしょ」
「ないよ」
「あるでしょ」
多恵子は、洟をかんだ。
「言いなさいよ。今日、そのために来たんだから」
灯は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「じゃあ、ひとつだけ」
「なに」
「あの写真」
多恵子の肩が、揺れた。
「四人で写ってた、あの写真」
「うん」
「あれ、まだ、ある?」
多恵子は、顔を上げた。
そして、紙袋の中から、封筒を出した。
「……持ってきた」
「え」
「あんたが電話で、あの話したでしょ。去年」
多恵子は、封筒を、座卓の上に置いた。
「あれから、探したの。押し入れの奥にあった」
灯は、封筒を開けた。
中に、色の褪せた写真が一枚。
高梨啓一が真ん中にいて、その隣に多恵子がいて、前に翔太と萌花が並んでいる。
四人だった。
灯は、その写真を、しばらく見た。
「――お母さん」
「なに」
「私、これ見ても、もう、なんともないや」
多恵子が、灯の顔を見た。
「ほんとに?」
「ほんと」
灯は、写真を封筒に戻した。
「なんかね、いま見ると、みんな、顔がこわばってるの。お父さん、緊張しすぎ」
「そうなのよ、あの人、写真嫌いで」
「萌花、前歯ないじゃん」
「抜けてたのよ、ちょうど」
多恵子は、笑った。
笑って、また、少し泣いた。
「灯」
「うん」
「今度さ」
「うん」
「五人で、撮る?」
灯は、母の顔を見た。
十三年前、キッチンで菜箸を持ったまま止まった、あの人の顔を。
「――撮ろっか」
灯は、そう言った。
「でも、五人じゃ足りないと思う」
「え?」
「たぶん、十二人になる」
「なんで!」
「この家、そういう家なの」
灯は、笑った。
襖の向こうで、誰かが「聞こえてますよー」と言った。
まひるの声だった。
多恵子が、噴き出した。
夕方、多恵子は、坂を降りた。
灯が、駅まで送った。
途中の酒屋の前で、多恵子は、立ち止まった。
赤い自動販売機の前だった。
「お母さん?」
多恵子は、財布を出した。
百三十円を入れて、缶のミルクティーを買った。
落ちてきた缶を、両手で持った。
あたたかかった。
多恵子は、しばらく、それを両手で包んでいた。
そして、灯のほうを向いて、こう言った。
「あんた、これ、あの朝、持ってたよね」
灯は、頷いた。
「うん」
「お母さん、十三年、これ飲めなかったの」
「……知らなかった」
「言ってないもん」
多恵子は、プルタブを開けた。
一口飲んだ。
そして、少し笑った。
「――甘いね」
「甘いよ」
「こんなに甘かったっけ」
「甘いの」
灯は言った。
「甘くて、あったかいの。だから、あれでよかったの」
多恵子は、頷いた。
頷いて、缶を持ったまま、坂を降りた。
娘が、その隣を歩いていた。
五月の夕方の光が、二人の背中にあたっていた。