あかつき荘の灯

最終話 あかつき荘の灯

 藤堂という記者に会ったのは、二〇二〇年の六月だった。
 場所は、吉祥寺の、古い喫茶店。氷室玲奈が十四年通っているという、あの店である。
 朝倉灯は、雨宮千景と二人で、その席に座った。
 藤堂は、先に来ていた。
「お呼び立てして、すみません」灯が言った。
「いえ」
「取材ではありません」
「わかっています」
 藤堂は、鞄からノートを出しかけて、やめた。
 やめて、鞄を、椅子の下に置いた。
 灯は、深く息を吸って、そして、名乗った。
「――二〇〇八年三月に、群馬で保護された中学生は、私です」
 藤堂は、動かなかった。
 彼は、五十歳を過ぎた男が、そういう話を聞いたときにする顔をしていた。
 つまり、まったく表情がなかった。
 灯は、話した。
 写真のこと。母のこと。バス停のベンチのこと。ミナモの台詞のこと。十四キロのこと。
 缶のミルクティーのこと。
 便箋七枚のこと。
 一時間かかった。
 話し終わると、藤堂は、冷めたコーヒーを一口飲んで、それから、こう言った。
「――書いていいですか」
「駄目です」
 灯は、即答した。
「私の名前は、絶対に出さないでください。母の名前も、弟妹の名前も、出さないでください」
「はい」
「私は、いま、この人と仕事をしています。それを、私の十四歳の話とくっつけて読まれるのは、嫌です」
「はい」
「私は、被害者になりたくないんです」
 藤堂は、深く頷いた。
 そして、目を伏せた。
「――十二年、追ってきました」
 彼は言った。
「追ってきて、いま、あなたに『書くな』と言われました」
「はい」
「これで、私の十二年は、終わります」
 彼は、そう言って、少し笑った。
「けっこう、いい終わり方です」
 灯は、その顔を見た。
 この人も、あの夜に、人生の一部を持っていかれた人なのだと、そのとき初めて、思った。
「藤堂さん」
「はい」
「一行だけなら、書いてください」
 藤堂が、顔を上げた。
「名前も、場所も、経緯も、書かないでください。ただ、一行だけ」
 灯は、言った。
「――『当事者に会った。彼女は、傷ついていなかった』」
 藤堂は、しばらく、灯の顔を見ていた。
 それから、鞄からノートを出して、その一行だけを書いた。
 書いて、ノートを閉じた。
 その一行は、三か月後、彼のコラムの最後に載った。
 署名は、藤堂の名前だけだった。
 誰も、それが何の話なのか、わからなかった。
 わかる人間は、この国に、四人しかいなかった。

   *

 二〇二一年四月十八日、日曜日。
 あかつき荘は、朝から、うるさかった。
 まひるが山形から持ち帰った芋煮を、住人全員に配って回り、晴が台本を音読しながら廊下を歩き、律が「うるさい」と怒鳴り、東雲弓子が二日酔いで台所に突っ伏していた。
 久瀬冬吾は、庭で草をむしっていた。
 枇杷の木の下で、猫のノリが、身体をひねって背中を舐めていた。
 灯は、洗濯物を干し終えて、縁側の前に立った。
 いつもなら、そこから台所へ行く。
 誰かにお茶を淹れて、誰かの洗い物をして、それで、立っている。
 その日は、そうしなかった。
 灯は、縁側に、腰を下ろした。
 板が、きい、と鳴った。
 三月の終わりに買った古いスニーカーが、地面から少し浮いた。
 灯は、庭を見た。
 枇杷の木。物干し。剥がれかけたブロック塀。草をむしっている冬吾の背中。
 ――ああ、と思った。
 ここから見ると、こういう景色なのか。
 二年、この家にいて、初めて見た。
「朝倉さん」
 背中で、声がした。
 振り返ると、雨宮千景が、廊下に立っていた。
 手に、湯呑みを二つ持っている。
「座ってる」
「座ってます」
「初めて見た」
「私もです」
 雨宮は、灯の隣に座った。
 湯呑みを一つ、渡してくれた。
 中身は、麦茶だった。四月に麦茶は早い、と灯は思ったが、言わなかった。
「監督」
「うん」
「書斎、見ました」
「勝手に入ったな」
「入りました」
 灯は、麦茶を一口飲んだ。
 昨日の夜、灯は、書斎に入った。
 部屋は、また散らかっていた。本の塔が四つ立っていて、座卓の上にコーヒーカップが三つあって、中身が残っていた。
 壁の、コルクボードを見た。
 二年前は、何もなかった。画鋲が七本、刺さっているだけだった。
 いまは、紙が貼ってあった。
 七枚。
 展開ごとに一枚ずつ、鉛筆で書かれている。
 順番を入れ替えた跡が、画鋲の穴の数でわかった。
 灯は、その七枚を、しばらく見ていた。
 それから、引き出しを開けた。
 ノートが、十三冊並んでいた。
 〇八から、二〇まで。
 その一番手前に、白い封筒が、置いてあった。
 角がすり切れて、色の黄ばんだ封筒。
「あれ、そこでいいんですか」
 灯は、麦茶の湯呑みを、両手で包んだ。
「いいんだよ」雨宮は言った。「あそこがいい」
「なんでですか」
「毎日開けるから」
 灯は、庭を見た。
 冬吾が、むしった草をゴミ袋に詰めていた。
「監督」
「うん」
「聞いてもいいですか」
「うん」
「『とうだいもり』の、灯台守って、誰ですか」
 雨宮は、麦茶を飲んだ。
 飲んで、庭を見た。
 しばらく、答えなかった。
「あの話、灯台守、出てこないだろ」
「出てきません」
「うん」
「灯台は出てきます。掃除する人も出てきます。でも、『灯台守』っていう人は、一人も出てこないです」
「そう」
「なんでですか」
 雨宮は、湯呑みを、縁側に置いた。
「灯台守っていうのはさ」
 彼は言った。
「昔は、いたんだよ。灯台に住んで、毎晩、灯を点けて、朝になったら消す人が」
「はい」
「でも、いまは、いない。全部、自動になった。誰も住んでない」
「はい」
「じゃあ、誰が点けてると思う?」
 灯は、少し考えた。
「……機械、ですか」
「まあ、そうなんだけど」
 雨宮は、笑った。
「――見てる人だよ」
 灯は、彼のほうを向いた。
「灯台はさ、誰も見てなくても点く。それはそうなんだ。親父の言ったとおりだ」
 彼は、庭の枇杷の木を見ていた。
「でも、誰も見てなかったら、それは、ただの機械なんだよ。ただの、電気だ」
「……」
「一年に一回か二回、誰かが、それを見る。沖で迷った船が、それを見る。そのときに初めて、あれは、灯台になる」
 彼は、言った。
「だから、灯台を灯台にしてるのは、見てるほうだ」
 灯は、麦茶の湯呑みを、握りしめた。
「――灯台守は、あんただよ」
 彼は、庭を見たまま、言った。
「俺が十二年、勝手に点けてただけの電気を、灯台にしたのは、あんただ」
 灯は、うつむいた。
 うつむいて、しばらく、動かなかった。
 庭で、冬吾が、ゴミ袋の口を縛る音がした。
 台所から、まひるが「芋煮、あっためましたー」と叫ぶ声がした。
 二階から、晴の朗読の声が降ってきた。
 廊下の奥から、律が「だからうるさいって!」と怒鳴った。
 東雲弓子が「あんたたち全員うるさい」と、寝ぼけた声で言った。
 灯は、顔を上げた。
 目に涙が溜まっていて、庭の景色が、全部、滲んでいた。
 滲んだ庭は、色でできていた。
 枇杷の緑と、塀の灰色と、洗濯物の白と、四月の空の青。
 まひるなら、この四十色に、名前をつけられるだろう。
「監督」
「うん」
「私、この家に、住んでていいですか」
 雨宮は、少しのあいだ、黙った。
 それから、こう言った。
「――ここに置いておくから」
 灯は、息を呑んだ。
「食べたかったら、食べて」
 灯は、笑った。
 笑って、泣いた。
 そして、雨宮の肩に、額をつけた。
 雨宮は、動かなかった。
 動かないまま、湯呑みを持ち上げて、麦茶を飲んだ。

   *

 その夜、深夜零時。
 あかつき荘の台所に、明かりがついた。
 鍋の前に立っていたのは、鹿沼律だった。
 カレーである。市販のルウで、具は玉ねぎとじゃがいもと、豚肉。
「え、鹿沼さんが作るの?」まひるが顔を出した。
「悪いか」
「二年ぶりじゃないですか」
「うるさい」
 晴が来た。冬吾が来た。東雲弓子が、缶ビールを持って来た。
 最後に、灯と雨宮が、二階から降りてきた。
 六人と一人。
 あかつき荘の台所は、狭かった。
 狭いところに、七人が座った。
 灯は、皿を配りながら、ふと、窓のほうを見た。
 窓の外は、真っ暗だった。
 坂の下に、街の灯が、点々と見えた。
 その一つ一つの下に、誰かがいる。
 その誰かのうちの何人かは、今夜、眠れないでいる。
 そのうちの何人かは、明日、朝が来ないと思っている。
 ――大丈夫だよ、と灯は思った。
 朝は、来る。
 勝手に来る。
 来ない朝を待つのは、しんどい。
 でも、来る朝に向かって歩くのは、案外、簡単だ。
 簡単じゃないけど。
 全然、簡単じゃないけど。
 誰かが、そう言ってくれれば、歩ける。
 灯は、皿を置いた。
 置いて、雨宮のほうを見た。
 雨宮は、カレーを食べていた。
 食べながら、律に何か言っていた。律が、「はい」と、真っ赤な顔で答えていた。
 ――そういえば。
 灯は、思い出した。
 三日前、律の部屋の机の上に、原稿用紙が一枚、置いてあったという。
 万年筆で、二行だけ書いてあったそうだ。

   才能があるかどうかは、俺は決めない。
   三千回、見ろ。

 律は、それを見て、三十分、泣いたらしい。
 本人が言っていたのではない。まひるが、廊下で聞いていたのだ。
 灯は、笑った。
 笑って、スプーンを取った。
 あかつき荘の窓に、灯がともっていた。
 坂の下から見上げれば、たぶん、小さな四角い光が、ひとつ。
 誰も見ていないかもしれない。
 でも、点いていた。
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