あかつき荘の灯
第五話 借りたノート
鹿沼律には、才能がない。
そのことを、律は二十三のときに知った。
大学四年の秋、映像系の会社を七社受けて、七社に落ちた。最後の一社の面接で、面接官が言ったのだ。
「君の書くものはね、上手いんだよ。破綻がない。読みやすい。……で、そのあと、何も残らない」
悪意はなかったと思う。むしろ、親切だったのだろう。
律はその日、帰りの電車で立ったまま、二十分間ずっと同じ広告を見ていた。何が書いてあったかは、覚えていない。
あかつき荘に来たのは、その三年後だ。
脚本の勉強会で知り合った先輩に、「雨宮千景がアシスタントを探してる」と言われて、履歴書を持って坂を上った。
面接らしい面接はなかった。
雨宮は、律の書いた短編を三本読んで、それから、こう言った。
「二年、うちにいるといい」
律は舞い上がった。
舞い上がって、しばらく経ってから、気づいた。
あの人は、「才能がある」とは、一言も言わなかった。
二年が過ぎ、三年が過ぎた。今年で四年目だ。
律の仕事は、資料集めと、プロットの清書と、それから、雨宮が喋ることを、片端からノートに書き取ることだった。
雨宮千景は、書かない代わりに、喋る人だった。
深夜、酒も飲まずに、台所や縁側で、ふいに喋り出す。物語の断片を。人物の名前を。まだどこにも存在しない場面を。
「――たとえばさ、双子がいるとするだろ」
その夜も、そうだった。四月の終わり、まだ灯が来る前のことだ。
「双子の兄が、十歳のときに交通事故で死ぬ。弟は生き残る。で、弟は、そのあと五十年生きる。五十年生きて、六十歳になったとき、ふと気づくんだよ。俺はもう、兄貴の六倍生きてしまった、って」
「それ、面白いです」
「面白いか?」
「面白いです。書きましょうよ」
「書かないよ」
雨宮は、湯呑みの茶を飲んだ。
「思いつくのは、誰でもできる。思いついたやつを、最後まで面倒みるのが仕事だ。俺はもう、面倒がみられないから」
律は、その言葉を、ノートに書いた。
書きながら、腹の底が熱くなるのを感じた。
この人は、宝石を、道端に捨てて歩いている。
拾えばいいのに、と思った。
誰かが拾えばいいのに。
あかつき荘の書斎に、律だけは入ることを許されていた。
厳密には、許されているのではない。「資料を取ってきて」と頼まれる回数が、他の住人より圧倒的に多いだけだ。
その日、律は、頼まれていない引き出しを開けた。
座卓の右側、いちばん下の引き出し。
中に、大学ノートが十一冊入っていた。
背表紙に、年号だけが書いてある。〇八、〇九、一〇……一八。
律は、いちばん上の一冊を手に取った。表紙をめくった。
最初のページに、一行だけあった。
――あの子が、生きていたら書く。
律は、そのページを、五分間見ていた。
それから、次のページをめくった。
プロットだった。びっしりと。
登場人物表。相関図。章立て。台詞の断片。ラストシーンのイメージ。
一冊ぶん、まるごと。
律は、震える手で、次の一冊を取った。それも同じだった。次も。次も。
十一冊。十一年分。
どれも、完成している。
どれも、誰にも見せられていない。
いちばん新しい一冊、〇一八、と書かれたノートを、律は、いちばん長く見ていた。
律は、ノートを閉じた。
閉じてから、心臓が、ありえない速さで打っているのに気づいた。
落ち着け、と思った。
これは、盗み見だ。それだけだ。見たものは、忘れればいい。
律は、ノートを引き出しに戻した。戻して、引き出しを閉めた。
閉めてから、また開けた。
そして、〇一八のノートだけを、自分の部屋に持って帰った。
――写すだけだ。
自分にそう言い聞かせた。
勉強のためだ。あの人の構成の組み立て方を、写経のように書き写して、身につけるためだ。そのあと返せばいい。誰も気づかない。誰も損をしない。
律は、その夜から毎晩、深夜の台所で、ノートを写した。
三週間かかった。
写し終わったとき、律は、自分の書いた文字を、ぼんやりと眺めた。
自分の字だった。
自分の字で書かれた、他人の物語だった。
律はノートを閉じ、机の引き出しに入れ、鍵をかけた。
そのあかつき荘の鍵は、机の引き出しには本来ついていない。律が、ホームセンターで買ってきて、自分で取り付けたものだった。
六月の、その夜。
律が写し終えたノートの原本を、そろそろ書斎に戻さなければ、と思いながら、台所で最後のページを見直していたとき、廊下の足音が聞こえた。
律は反射的にノートを閉じた。
入ってきたのは、朝倉灯だった。
紙束を胸に抱えて、顔が、少し赤い。泣いたあとの顔だ、と律は思った。
「あ」灯が言った。「すみません、まだ起きてらしたんですね」
「うん、まあ」
「お邪魔でしたか」
「いや。……朝倉さん、監督のとこ、行ってた?」
「はい。これを、明日の朝、東雲さんにって」
灯はテーブルの端に紙束を置いて、コップに水を汲んだ。
律は、その背中を見ながら、なぜか、話したくなった。
誰かに、何かを、話したくてたまらなかった。
「朝倉さんってさ」
「はい」
「なんで、うち来たの」
灯の背中が、一瞬だけ止まった。
「……アニメが、好きだからです」
「みんなそう言うんだよ」
律は笑った。少し意地悪な笑い方だと、自分でもわかっていた。
「みんなそう言うんだけどさ、この業界、好きなだけで入れるほど楽じゃないじゃん。給料安いし、寝れないし。だからさ、みんな、ほんとはもう一個、理由があるんだよ」
灯が振り返った。
「鹿沼さんは、なんですか」
律は、少し驚いた。切り返してくるとは思っていなかった。
「俺?」
「はい」
「俺は――」
律は口を開いて、閉じた。
言葉が出てこなかった。
俺は、なんだ。
俺は、あの人に「才能がある」と言われたくて、四年、ここにいる。
言えるわけがなかった。
「……俺は、悔しいから」
結局、そう言った。
「悔しい?」
「才能のあるやつを、間近で見てるとさ。悔しいだろ、普通」
灯は、少しのあいだ考えて、それから言った。
「私は、悔しくはならないです」
「へえ」
「才能のある人を見ると、私は、その人が壊れないでほしいって思います」
律は、灯の顔を見た。
この子は、と思った。
この子は、なんでそんな顔をしてるんだろう。
「変なこと言うね、朝倉さんて」
「よく言われます」
灯は水を飲み干して、コップを洗って、伏せた。
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
灯が出ていった。
律は、テーブルの上のノートに手を置いた。
――返そう。
明日の朝、書斎に戻そう。
律は、本気でそう思っていた。
そして、その翌朝、律は、本当に返した。
書斎の引き出しを開けて、〇一八を、元の場所に戻した。引き出しは、また十一冊に戻った。
戻して、律は、少しだけ、自分を誇らしく思った。
俺は、返せる人間だ。
そう思ったことを、律は、あとになって、何度も思い出すことになる。
九月の終わりの夜、律は、資料を取りに書斎へ入った。
引き出しは、ひとりでに目に入った。
開けてみると、ノートが一冊、増えていた。
〇一九。
背表紙のインクが、まだ新しかった。
雨宮が何かを書いた、という話は、誰からも聞いていない。あの人は、書けたことを、誰にも言わない人だった。
律は、その一冊の、最初のページを開いた。
『あかつき』
十月の、雨の降る夜。
律は、それを、自分の部屋に持って帰った。
今度は、返さなかった。
そのことを、律は二十三のときに知った。
大学四年の秋、映像系の会社を七社受けて、七社に落ちた。最後の一社の面接で、面接官が言ったのだ。
「君の書くものはね、上手いんだよ。破綻がない。読みやすい。……で、そのあと、何も残らない」
悪意はなかったと思う。むしろ、親切だったのだろう。
律はその日、帰りの電車で立ったまま、二十分間ずっと同じ広告を見ていた。何が書いてあったかは、覚えていない。
あかつき荘に来たのは、その三年後だ。
脚本の勉強会で知り合った先輩に、「雨宮千景がアシスタントを探してる」と言われて、履歴書を持って坂を上った。
面接らしい面接はなかった。
雨宮は、律の書いた短編を三本読んで、それから、こう言った。
「二年、うちにいるといい」
律は舞い上がった。
舞い上がって、しばらく経ってから、気づいた。
あの人は、「才能がある」とは、一言も言わなかった。
二年が過ぎ、三年が過ぎた。今年で四年目だ。
律の仕事は、資料集めと、プロットの清書と、それから、雨宮が喋ることを、片端からノートに書き取ることだった。
雨宮千景は、書かない代わりに、喋る人だった。
深夜、酒も飲まずに、台所や縁側で、ふいに喋り出す。物語の断片を。人物の名前を。まだどこにも存在しない場面を。
「――たとえばさ、双子がいるとするだろ」
その夜も、そうだった。四月の終わり、まだ灯が来る前のことだ。
「双子の兄が、十歳のときに交通事故で死ぬ。弟は生き残る。で、弟は、そのあと五十年生きる。五十年生きて、六十歳になったとき、ふと気づくんだよ。俺はもう、兄貴の六倍生きてしまった、って」
「それ、面白いです」
「面白いか?」
「面白いです。書きましょうよ」
「書かないよ」
雨宮は、湯呑みの茶を飲んだ。
「思いつくのは、誰でもできる。思いついたやつを、最後まで面倒みるのが仕事だ。俺はもう、面倒がみられないから」
律は、その言葉を、ノートに書いた。
書きながら、腹の底が熱くなるのを感じた。
この人は、宝石を、道端に捨てて歩いている。
拾えばいいのに、と思った。
誰かが拾えばいいのに。
あかつき荘の書斎に、律だけは入ることを許されていた。
厳密には、許されているのではない。「資料を取ってきて」と頼まれる回数が、他の住人より圧倒的に多いだけだ。
その日、律は、頼まれていない引き出しを開けた。
座卓の右側、いちばん下の引き出し。
中に、大学ノートが十一冊入っていた。
背表紙に、年号だけが書いてある。〇八、〇九、一〇……一八。
律は、いちばん上の一冊を手に取った。表紙をめくった。
最初のページに、一行だけあった。
――あの子が、生きていたら書く。
律は、そのページを、五分間見ていた。
それから、次のページをめくった。
プロットだった。びっしりと。
登場人物表。相関図。章立て。台詞の断片。ラストシーンのイメージ。
一冊ぶん、まるごと。
律は、震える手で、次の一冊を取った。それも同じだった。次も。次も。
十一冊。十一年分。
どれも、完成している。
どれも、誰にも見せられていない。
いちばん新しい一冊、〇一八、と書かれたノートを、律は、いちばん長く見ていた。
律は、ノートを閉じた。
閉じてから、心臓が、ありえない速さで打っているのに気づいた。
落ち着け、と思った。
これは、盗み見だ。それだけだ。見たものは、忘れればいい。
律は、ノートを引き出しに戻した。戻して、引き出しを閉めた。
閉めてから、また開けた。
そして、〇一八のノートだけを、自分の部屋に持って帰った。
――写すだけだ。
自分にそう言い聞かせた。
勉強のためだ。あの人の構成の組み立て方を、写経のように書き写して、身につけるためだ。そのあと返せばいい。誰も気づかない。誰も損をしない。
律は、その夜から毎晩、深夜の台所で、ノートを写した。
三週間かかった。
写し終わったとき、律は、自分の書いた文字を、ぼんやりと眺めた。
自分の字だった。
自分の字で書かれた、他人の物語だった。
律はノートを閉じ、机の引き出しに入れ、鍵をかけた。
そのあかつき荘の鍵は、机の引き出しには本来ついていない。律が、ホームセンターで買ってきて、自分で取り付けたものだった。
六月の、その夜。
律が写し終えたノートの原本を、そろそろ書斎に戻さなければ、と思いながら、台所で最後のページを見直していたとき、廊下の足音が聞こえた。
律は反射的にノートを閉じた。
入ってきたのは、朝倉灯だった。
紙束を胸に抱えて、顔が、少し赤い。泣いたあとの顔だ、と律は思った。
「あ」灯が言った。「すみません、まだ起きてらしたんですね」
「うん、まあ」
「お邪魔でしたか」
「いや。……朝倉さん、監督のとこ、行ってた?」
「はい。これを、明日の朝、東雲さんにって」
灯はテーブルの端に紙束を置いて、コップに水を汲んだ。
律は、その背中を見ながら、なぜか、話したくなった。
誰かに、何かを、話したくてたまらなかった。
「朝倉さんってさ」
「はい」
「なんで、うち来たの」
灯の背中が、一瞬だけ止まった。
「……アニメが、好きだからです」
「みんなそう言うんだよ」
律は笑った。少し意地悪な笑い方だと、自分でもわかっていた。
「みんなそう言うんだけどさ、この業界、好きなだけで入れるほど楽じゃないじゃん。給料安いし、寝れないし。だからさ、みんな、ほんとはもう一個、理由があるんだよ」
灯が振り返った。
「鹿沼さんは、なんですか」
律は、少し驚いた。切り返してくるとは思っていなかった。
「俺?」
「はい」
「俺は――」
律は口を開いて、閉じた。
言葉が出てこなかった。
俺は、なんだ。
俺は、あの人に「才能がある」と言われたくて、四年、ここにいる。
言えるわけがなかった。
「……俺は、悔しいから」
結局、そう言った。
「悔しい?」
「才能のあるやつを、間近で見てるとさ。悔しいだろ、普通」
灯は、少しのあいだ考えて、それから言った。
「私は、悔しくはならないです」
「へえ」
「才能のある人を見ると、私は、その人が壊れないでほしいって思います」
律は、灯の顔を見た。
この子は、と思った。
この子は、なんでそんな顔をしてるんだろう。
「変なこと言うね、朝倉さんて」
「よく言われます」
灯は水を飲み干して、コップを洗って、伏せた。
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
灯が出ていった。
律は、テーブルの上のノートに手を置いた。
――返そう。
明日の朝、書斎に戻そう。
律は、本気でそう思っていた。
そして、その翌朝、律は、本当に返した。
書斎の引き出しを開けて、〇一八を、元の場所に戻した。引き出しは、また十一冊に戻った。
戻して、律は、少しだけ、自分を誇らしく思った。
俺は、返せる人間だ。
そう思ったことを、律は、あとになって、何度も思い出すことになる。
九月の終わりの夜、律は、資料を取りに書斎へ入った。
引き出しは、ひとりでに目に入った。
開けてみると、ノートが一冊、増えていた。
〇一九。
背表紙のインクが、まだ新しかった。
雨宮が何かを書いた、という話は、誰からも聞いていない。あの人は、書けたことを、誰にも言わない人だった。
律は、その一冊の、最初のページを開いた。
『あかつき』
十月の、雨の降る夜。
律は、それを、自分の部屋に持って帰った。
今度は、返さなかった。