あかつき荘の灯
第六話 名乗る仕事
佐分利晴は、自分の声が嫌いだった。
高すぎるのだ。子どもの声だと言われる。二十二歳にもなって、電話に出ると「お母さんいる?」と聞かれる。
声優の養成所に入って三年目、晴が受けたオーディションは、四十七件。
合格は、ゼロ件。
いや、正確には一件だけ、二次審査まで残ったことがある。去年の秋、深夜アニメの、名前のある役だった。
二次で落ちた。理由は教えてもらえない。
教えてもらえないことに、晴はもう慣れた。慣れたと思うことにした。
「晴ちゃん、今日どうだった?」
七月の水曜、あかつき荘の縁側で、まひるが聞いた。
晴はサンダルをつっかけて庭に降りたところだった。手には、鞄と、丸めた台本。
「駄目でした」
「そっか」
「『元気でいいね』って言われました」
晴は笑った。
「元気でいいね、って言われたら、落ちるんです。あれは、他に褒めるとこがなかったときの言葉なので」
「そんなことないよ」
「あります」晴はきっぱり言った。「四十七回あるので、私、詳しいです」
まひるが、少し笑って、少し困った。
庭の端で、猫のノリが、身体をひねって背中を舐めていた。
晴は縁側に腰かけて、鞄からペットボトルの水を出した。半分ほど飲んで、蓋を閉めた。
「まひるさん」
「うん?」
「私、名乗るのが好きなんです」
「知ってる。『声優、志望です』って、毎回ちゃんと言うよね」
「はい」
晴は膝の上で台本を丸め直した。
「でも、ほんとは、志望って言うの、めちゃくちゃ嫌なんです。言うたびに、自分がまだ何者でもないってことを、自分で確認するので」
「……うん」
「でも、言わないと、嘘になるから」
晴は、庭の枇杷の木を見上げた。
実はもう終わっていて、葉だけが濃く茂っている。
「私、嘘つきたくないんです。声を使う仕事なのに、自分の声で嘘つくの、駄目だと思うんです」
まひるは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「晴ちゃんはさ、なんで声優になりたいの」
晴は即答した。
「『ヨルノハテ』の、ミナモです」
「あー」まひるが両手で顔を覆った。「やっぱりそれか」
「やっぱりって、なんですか」
「この家、それしかいないんだよ。私も、久瀬さんも、たぶん鹿沼さんも」
「みんな、そうなんですか」
「そう。だから、監督のとこに集まってくんの」
晴は、少し嬉しくなって、それから、少し寂しくなった。
自分の一番大事な理由が、この家では、そんなに珍しいものではないらしい。
「ミナモの、どこですか」
「え?」
「まひるさんは、色でしょ。私は、声なんです」
晴は、姿勢を正した。
そして、声を出した。
「――『わたし、まだ何にもなってないよ』」
まひるが、息を呑んだ。
それは、晴の普段の声ではなかった。低くもない。作り声でもない。ただ、芯の位置が、少しだけ下にずれていた。
「『でも、なってないってことは、これからなるってことでしょ』」
声が、庭に落ちた。
枇杷の葉が鳴った。
「……晴ちゃん」
「これ、第九話の、ミナモの台詞です」
晴は普段の声に戻った。
「あの声、声優の柏木由起さんっていう人がやってて、当時十九歳だったんです。デビュー二年目で。今はもう、業界にいません。結婚して辞めちゃった」
「知らなかった」
「私、調べたので」
晴は膝を抱えた。
「私、その台詞を、中学生のときに、部屋で百回くらい真似したんです。そしたら、なんか、生きていけるような気がしたんです」
縁側の板が、きい、と鳴った。
晴とまひるが振り返ると、廊下の奥に、雨宮千景が立っていた。
いつからそこにいたのか、わからなかった。
手に、ゴミ袋を持っている。生活感がありすぎて、一瞬、誰だかわからないほどだった。
「あ」晴が慌てて立ち上がった。「すみません、うるさかったですか」
「いや」
雨宮は、ゴミ袋を持ったまま、少し立ち止まった。
「佐分利さん」
「はい」
「今の台詞、第九話じゃない」
晴は、固まった。
「……え」
「第十話だ。九話は雨のシーンだから、その台詞は入らない」
雨宮はそう言って、庭へ降りていった。ゴミ置き場は、門のところにある。
晴は、その背中を見送った。
まひるも、見送った。
二人はしばらく黙って、それから、まひるが小さな声で言った。
「……あの人、覚えてるんだね」
「え?」
「自分の書いた話。十一年前の、一話ずつ」
晴は、庭の暗がりを見た。
雨宮の背中が、門のあたりで、ゴミ袋を置いてかがんでいる。
その姿は、どこにでもいる、痩せた男の背中だった。
でも、と晴は思った。
あの人は、覚えている。
覚えているのに、書かない。
それは、忘れるより、ずっと苦しいことなんじゃないだろうか。
その夜、晴は自分の部屋で、四十八件目のオーディションの応募フォームを書いた。
名前の欄に「佐分利晴」と打ち込む。職業の欄に「声優志望」と打ち込む。
打ち込んで、しばらく画面を見て、それから、送信ボタンを押した。
高すぎるのだ。子どもの声だと言われる。二十二歳にもなって、電話に出ると「お母さんいる?」と聞かれる。
声優の養成所に入って三年目、晴が受けたオーディションは、四十七件。
合格は、ゼロ件。
いや、正確には一件だけ、二次審査まで残ったことがある。去年の秋、深夜アニメの、名前のある役だった。
二次で落ちた。理由は教えてもらえない。
教えてもらえないことに、晴はもう慣れた。慣れたと思うことにした。
「晴ちゃん、今日どうだった?」
七月の水曜、あかつき荘の縁側で、まひるが聞いた。
晴はサンダルをつっかけて庭に降りたところだった。手には、鞄と、丸めた台本。
「駄目でした」
「そっか」
「『元気でいいね』って言われました」
晴は笑った。
「元気でいいね、って言われたら、落ちるんです。あれは、他に褒めるとこがなかったときの言葉なので」
「そんなことないよ」
「あります」晴はきっぱり言った。「四十七回あるので、私、詳しいです」
まひるが、少し笑って、少し困った。
庭の端で、猫のノリが、身体をひねって背中を舐めていた。
晴は縁側に腰かけて、鞄からペットボトルの水を出した。半分ほど飲んで、蓋を閉めた。
「まひるさん」
「うん?」
「私、名乗るのが好きなんです」
「知ってる。『声優、志望です』って、毎回ちゃんと言うよね」
「はい」
晴は膝の上で台本を丸め直した。
「でも、ほんとは、志望って言うの、めちゃくちゃ嫌なんです。言うたびに、自分がまだ何者でもないってことを、自分で確認するので」
「……うん」
「でも、言わないと、嘘になるから」
晴は、庭の枇杷の木を見上げた。
実はもう終わっていて、葉だけが濃く茂っている。
「私、嘘つきたくないんです。声を使う仕事なのに、自分の声で嘘つくの、駄目だと思うんです」
まひるは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「晴ちゃんはさ、なんで声優になりたいの」
晴は即答した。
「『ヨルノハテ』の、ミナモです」
「あー」まひるが両手で顔を覆った。「やっぱりそれか」
「やっぱりって、なんですか」
「この家、それしかいないんだよ。私も、久瀬さんも、たぶん鹿沼さんも」
「みんな、そうなんですか」
「そう。だから、監督のとこに集まってくんの」
晴は、少し嬉しくなって、それから、少し寂しくなった。
自分の一番大事な理由が、この家では、そんなに珍しいものではないらしい。
「ミナモの、どこですか」
「え?」
「まひるさんは、色でしょ。私は、声なんです」
晴は、姿勢を正した。
そして、声を出した。
「――『わたし、まだ何にもなってないよ』」
まひるが、息を呑んだ。
それは、晴の普段の声ではなかった。低くもない。作り声でもない。ただ、芯の位置が、少しだけ下にずれていた。
「『でも、なってないってことは、これからなるってことでしょ』」
声が、庭に落ちた。
枇杷の葉が鳴った。
「……晴ちゃん」
「これ、第九話の、ミナモの台詞です」
晴は普段の声に戻った。
「あの声、声優の柏木由起さんっていう人がやってて、当時十九歳だったんです。デビュー二年目で。今はもう、業界にいません。結婚して辞めちゃった」
「知らなかった」
「私、調べたので」
晴は膝を抱えた。
「私、その台詞を、中学生のときに、部屋で百回くらい真似したんです。そしたら、なんか、生きていけるような気がしたんです」
縁側の板が、きい、と鳴った。
晴とまひるが振り返ると、廊下の奥に、雨宮千景が立っていた。
いつからそこにいたのか、わからなかった。
手に、ゴミ袋を持っている。生活感がありすぎて、一瞬、誰だかわからないほどだった。
「あ」晴が慌てて立ち上がった。「すみません、うるさかったですか」
「いや」
雨宮は、ゴミ袋を持ったまま、少し立ち止まった。
「佐分利さん」
「はい」
「今の台詞、第九話じゃない」
晴は、固まった。
「……え」
「第十話だ。九話は雨のシーンだから、その台詞は入らない」
雨宮はそう言って、庭へ降りていった。ゴミ置き場は、門のところにある。
晴は、その背中を見送った。
まひるも、見送った。
二人はしばらく黙って、それから、まひるが小さな声で言った。
「……あの人、覚えてるんだね」
「え?」
「自分の書いた話。十一年前の、一話ずつ」
晴は、庭の暗がりを見た。
雨宮の背中が、門のあたりで、ゴミ袋を置いてかがんでいる。
その姿は、どこにでもいる、痩せた男の背中だった。
でも、と晴は思った。
あの人は、覚えている。
覚えているのに、書かない。
それは、忘れるより、ずっと苦しいことなんじゃないだろうか。
その夜、晴は自分の部屋で、四十八件目のオーディションの応募フォームを書いた。
名前の欄に「佐分利晴」と打ち込む。職業の欄に「声優志望」と打ち込む。
打ち込んで、しばらく画面を見て、それから、送信ボタンを押した。