あかつき荘の灯

第七話 夜明けまで歩く

 十一年前の三月二十一日は、金曜日だった。
 その日のことを、朝倉灯は、順番どおりに思い出すことができない。
 思い出は、時系列ではなく、においと温度でできている。

 まず、居間の石油ストーブの上で、やかんが鳴っていた。
 群馬の、山のほうの町だった。高崎の駅から、バスで四十分。三月といっても、夜になれば水たまりが凍る。
 灯は中学二年生で、十四歳で、名字が変わって一年半が経っていた。
 朝倉灯から、高梨灯に。
 母の多恵子が再婚したのは、灯が小学六年の終わりだった。相手は、市役所に勤める高梨啓一という人で、悪い人ではなかった。むしろ、いい人だった。灯に対して、一度も声を荒らげたことがない。誕生日にはちゃんとケーキを買ってきた。
 連れ子が二人いた。翔太と、萌花。翔太は当時小学四年生で、萌花は幼稚園だった。
 二人とも、灯によく懐いた。
 だから、灯には、不満がなかった。
 不満がない、ということを、灯は毎日、自分に確認していた。
 その日の夕方、灯が学校から帰ると、居間のテーブルに、写真が置いてあった。
 年賀状の相談を、三月にする家ではない。だから、それは、写真屋で撮った、いわゆる家族写真の見本だった。
 高梨啓一が真ん中にいて、その隣に多恵子がいて、前に翔太と萌花が並んでいる。
 四人だった。
 灯は、しばらくその写真を見た。
 それから、キッチンにいた母に、聞いた。
「これ、いつ撮ったの」
「あー、先週の日曜。あんた、塾だったでしょ」
「うん」
「今度、四人で撮り直そうか」
 母はそう言った。
 言ってから、たぶん、自分の言い間違いに気づいたのだと思う。
 母は、菜箸を持ったまま、少しのあいだ動かなかった。
「――五人で、ね」
 灯は、笑った。
「うん」
 そう言って、二階の自分の部屋に上がった。
 その日の夕飯は、鶏の唐揚げだった。灯の好物だ。母がそれを作ったのは、たぶん偶然ではなかったと思う。
 灯は、三つ食べた。おいしい、と言った。
 嘘ではなかった。本当においしかった。
 部屋に戻って、机の前に座って、それから、初めて泣いた。
 声を出さずに泣くのは、慣れていた。

 深夜零時五十五分。
 灯はイヤホンをして、小さなテレビの電源を入れた。
 群馬でその番組が放送されていたのは、東京から一週遅れで、しかも深夜一時からだった。灯は毎週、それを起きて観ていた。
 『ヨルノハテ』の、第十三話。最終回。
 サブタイトルは、「夜明けまで歩く」。
 主人公のミナモは、十五歳の女の子だ。彼女の住む町は、ある夜を境に、朝が来なくなる。何時間経っても、何日経っても、空は暗いままだ。
 人々は家に閉じこもり、電気を惜しみ、やがて、朝が来ることを忘れていく。
 最終回で、ミナモは家を出る。
 東へ歩くのだ。地球は回っているのだから、東へ歩けば、いつかは朝の側に出るはずだ、という、理屈にもならない理屈で。
 誰も一緒に行かない。誰も引き止めない。
 彼女は、一人で、真っ暗な国道を歩く。
 三十分ほど歩いたところで、彼女は独り言のように言う。

「――夜が明けるまで歩けば、朝は勝手に来る。来ない朝を待ってるのは、しんどいけどさ。来る朝に向かって歩くのは、案外、簡単だよ」

 その台詞を聞いたとき、灯は、テレビの前で、身体を起こした。
 最終回は、そのあと二十分ほど続く。ミナモは歩き続け、途中で何人かに出会い、最後には、東の空が、ほんのわずかに白む。
 白むだけだ。朝日は昇らない。画面は、白みかけの空のまま、暗転する。
 エンドロールが流れる。
 三行目に、名前がある。

  脚本・原作 雨宮千景

 灯はテレビを消した。
 時計は、午前一時三十分を指していた。
 それから、何をしたのか、あまり覚えていない。
 気がつくと、制服の上にダッフルコートを着て、マフラーを巻いて、スニーカーを履いていた。財布も、携帯も持たなかった。ポケットに入っていたのは、家の鍵と、五百円玉が一枚だけだった。
 玄関の鍵を開けるとき、かちり、と大きな音がした。
 誰も起きてこなかった。
 外に出ると、空気が、水みたいに冷たかった。
 息が白い。
 灯は、東へ歩き出した。
 高崎の駅は、東にある。それだけが理由だった。
 国道は、深夜でもトラックが通った。灯は歩道を歩いた。歩道が途切れると、路肩を歩いた。
 最初の一時間は、何も考えなかった。
 二時間目に入って、足の裏が痛くなった。スニーカーは通学用で、底が薄かった。
 三時間目に、寒さが、痛みに変わった。
 耳が痛い。指が痛い。膝から下の感覚が薄くなる。
 どこかに座り込みたい、と何度も思った。
 バス停の屋根の下に、ベンチがあった。灯はそこの前で、たしかに一度、立ち止まった。
 ――座ったら、たぶん、そこで眠る。
 そのことを、十四歳の灯は、はっきりと理解した。
 三月の、氷点下の、屋根だけのバス停で、コートを着て眠るということが、どういうことなのか。
 灯は、それを理解したうえで、五秒くらい、ベンチを見ていた。
 それから、歩き出した。

「――来る朝に向かって歩くのは、案外、簡単だよ」

 声に出して言った。
 誰もいない国道で、自分の声が、白い息と一緒に散った。
 簡単ではなかった。全然、簡単ではなかった。
 でも、その台詞は、灯に、方角を教えていた。
 東だ。東に歩けばいい。理由は要らない。歩くのに理由なんか要らない。要るのは方角だけだ。
 灯は歩いた。
 午前五時十分、高崎駅の東口に着いた。
 所要時間、三時間四十分。あとで地図で測ったら、十四キロあった。
 駅はまだシャッターが半分下りていた。灯はその前で、しゃがみこんだ。
 しゃがんだ瞬間に、身体じゅうが震え出した。今まで震えていなかったのが不思議なくらいだった。
 どれくらいそうしていたのか、わからない。
 声をかけられた。
「――お嬢さん」
 顔を上げると、駅員の制服を着た、五十歳くらいの男の人が立っていた。
 その人は、灯の顔を見て、それから、灯の靴を見た。灯のスニーカーは、泥と、たぶん溶けかけの霜で、ぐしょぐしょになっていた。
 男の人は、何も聞かなかった。
 どこから来たのかも、なぜここにいるのかも、聞かなかった。
 ただ、いったんどこかに行って、戻ってきて、灯の前にしゃがんで、手に持っていたものを差し出した。
 缶のミルクティーだった。
 あたたかかった。
「持って。落とさないように、両手で」
 灯は、両手でそれを受け取った。
 缶の熱が、指先に染みるまで、たっぷり十秒かかった。
 十秒経って、指が熱いと感じた瞬間、灯は、声を上げて泣いた。
 駅員の人は、灯の隣に立って、何も言わずに、東の空を見ていた。
 空は、白みかけていた。
 朝日は、まだ昇っていなかった。

 保護された、と記録には書かれた。
 母が迎えに来た。啓一も来た。二人とも、青い顔をしていた。母は灯を抱きしめて、泣きながら、何度も謝った。
 警察の人に、母は説明した。
「――夜中に、アニメを観てたみたいで。それに影響されたんだと思います」
 母は、悪気があって言ったのではない。
 母には、それしか、説明できることがなかったのだ。写真のことは、たぶん、母自身、もう忘れていた。
 その説明が、地元紙の小さな記事になった。
 記事は、ネットに転載された。
 転載は、拡散された。
 そして、二週間後には、こういう見出しになっていた。

  ――深夜アニメ、中2女子を「家出」させる。氷点下の夜、14キロ徒歩。制作側の責任は

 灯は、それを、学校のパソコン室で読んだ。
 その日から、灯は、自分の指を、噛むようになった。
 四月十一日、記者会見があった。灯はテレビでそれを見た。
 スーツを着た大人が何人か並んでいて、その端に、痩せた若い男が座っていた。
 二十四歳の雨宮千景は、ほとんど何も喋らなかった。
 最後に、記者が「被害に遭った少女に、何か言うことはありますか」と聞いた。
 雨宮は、顔を上げた。
 そして、一言だけ言った。
「――申し訳ありませんでした」
 灯は、テレビの前で、叫びそうになった。
 違う。
 違う、違う、違う。
 あなたは謝る側じゃない。
 私は、あの台詞に、助けられたんです。あなたの言葉がなかったら、私は、あのバス停のベンチに座っていました。
 声は、出なかった。
 十四歳の灯には、その声をどこに出せばいいのか、わからなかった。
 母に言えば、母は自分を責めるだろう。学校に言えば、事は大きくなるだろう。テレビ局に手紙を書くという発想は、その時の灯には、なかった。
 いや。
 本当は、書いた。
 書いて、出さなかった。便箋七枚。今も持っている。
 灯は、あの日から十一年、その手紙を、鞄の底に入れて生きてきた。
 高校を出て、東京の専門学校に行って、家裁に申し立てて、名字を朝倉に戻した。
 母は、それを止めなかった。
 「あんたの好きにしなさい」と、電話の向こうで言った。声が、少し震えていた。
 朝倉灯という名前は、こうして、書類の上で、高梨灯という少女と切り離された。
 だから、誰も、たどり着けない。
 十一年間、雨宮千景がどれほど探しても、彼が探しているのは「高梨」という名字の女の子だった。
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