あかつき荘の灯
第八話 まともだ、と言った理由
久瀬冬吾は、人の顔を、線で見る。
職業病だ。三十を過ぎたころから、初対面の人間を見ると、頭の中で勝手にアタリを取っている。頭の丸み、顎の角度、目のあいだの距離。
だから、朝倉灯を初めて見たとき、冬吾がまず思ったのは、「描きにくい顔だ」ということだった。
整っている。だが、印象に残る崩れがない。目も鼻も口も、まっすぐに置かれている。
こういう顔は、アニメーターにとって、いちばん難しい。
二度目に見たとき、冬吾は考えを変えた。
六月の、修羅場の入り口だった。三階の制作デスクに、リテイクの束が積まれている。灯はそれを一枚ずつ確認して、付箋を貼っていた。
冬吾は、廊下から、それを見ていた。
灯は、五分に一度、顔を上げる。
顔を上げて、フロアの奥、雨宮千景が座っている席のほうを、一秒だけ見る。
見て、また下を向く。
それを、冬吾は、三十分のあいだに六回、数えた。
――ああ、と冬吾は思った。
描きにくい顔じゃない。
この子は、いつも同じところを見ているから、表情が動かないだけだ。
冬吾があかつき荘に来たのは、六年前だ。
その前は、大手の制作会社にいた。作画監督になったのは二十七のときで、業界では早いほうだった。
早すぎたのだと思う。
二年で、身体が動かなくなった。
朝、机の前に座ると、腕が上がらない。診てもらっても、どこも悪くない。ただ、線が引けない。
辞めて、実家の秋田に戻って、半年、何もしなかった。
東雲弓子から電話がかかってきたのは、その半年目だった。
「久瀬くん。うちで、絵、描かない?」
「描けません」
「知ってる。だから、描かなくていい仕事から始めればいいでしょ」
冬吾はそのとき、生まれて初めて、電話口で泣いた。
あかつき荘に来て最初の三か月、冬吾がやったのは、庭の草むしりと、風呂掃除と、資料の整理だけだった。
誰も何も言わなかった。
四か月目に、雨宮が縁側で、冬吾に一枚の紙を渡した。
鉛筆で、猫が描いてあった。ノリだ。ひどく下手な絵だった。
「これ、直してくれない?」
「……これは」
「俺が描いた。腹立つだろ」
「腹は立ちませんけど」
「立てよ」雨宮は言った。「腹立てて、描き直せ」
冬吾は、その紙を部屋に持って帰った。
三日かかった。
三日目の夜、猫を一匹、描いた。
それが、六年前だ。
「久瀬さん、ラフ、上がりました?」
灯の声で、冬吾は我に返った。
七月の、金曜の夜。スタジオには、あと五人しか残っていない。
「上がってる」
「見せていただいても」
「見ろ」
冬吾は液晶タブレットを回した。
灯は身を乗り出して、画面を覗き込んだ。しばらく黙って見て、それから、言った。
「……ここの、手」
「なに」
「この手、少し、開きすぎてませんか」
冬吾は、灯の顔を見た。
「なんで」
「このシーン、この人、まだ迷ってるので」
灯は、画面の中の少女の手を指差した。
「迷ってる人は、たぶん、手をここまで開かないと思います。開くのは、決めたあとです」
冬吾は、しばらく、その手を見ていた。
それから、ペンを取って、指を三本、内側に寄せた。
二秒で終わる修正だった。
絵が、変わった。
「……ああ」
冬吾は、思わず声を出した。
「これだ」
「すみません、生意気を」
「いや」
冬吾は首を振った。
「あんた、演出やったほうがいい」
「制作進行です」
「今はな」
灯は困ったように笑った。その笑い方は、いつも、少しだけ遅れて始まる。
冬吾は、自分の胸のあたりに、久しぶりの感覚があるのに気づいた。
誰かに、何かを、見せたいという感覚だった。
「朝倉」
「はい」
「なんで、うちに来た」
同じことを、鹿沼律も聞いたのだと、冬吾は知らなかった。
灯は、少し間を置いてから、言った。
「久瀬さんは、なんで来たんですか」
「俺は、拾われた」
「私もです」
冬吾は、笑った。
「嘘つけ。あんた、自分で坂を上ってきたろ」
灯の表情が、止まった。
冬吾は、それを見て、なぜか、これ以上聞いてはいけない気がした。
だから、話を変えた。
「――今度の日曜、あかつき荘で合評会がある」
「合評会?」
「聞いてないのか。年に二回、住人が自分の作ったものを持ち寄って、監督に見せる」
「見せて、どうなるんですか」
「何も」冬吾は言った。「褒められもしないし、けなされもしない。監督は、ただ、感想を言う。ときどき、ひとつだけ、質問をする」
「質問」
「そう。そして、その質問がな」
冬吾は、タブレットのペンを、ペン立てに戻した。
「ぜんぶ、こっちの、いちばん見られたくないところに刺さる」
職業病だ。三十を過ぎたころから、初対面の人間を見ると、頭の中で勝手にアタリを取っている。頭の丸み、顎の角度、目のあいだの距離。
だから、朝倉灯を初めて見たとき、冬吾がまず思ったのは、「描きにくい顔だ」ということだった。
整っている。だが、印象に残る崩れがない。目も鼻も口も、まっすぐに置かれている。
こういう顔は、アニメーターにとって、いちばん難しい。
二度目に見たとき、冬吾は考えを変えた。
六月の、修羅場の入り口だった。三階の制作デスクに、リテイクの束が積まれている。灯はそれを一枚ずつ確認して、付箋を貼っていた。
冬吾は、廊下から、それを見ていた。
灯は、五分に一度、顔を上げる。
顔を上げて、フロアの奥、雨宮千景が座っている席のほうを、一秒だけ見る。
見て、また下を向く。
それを、冬吾は、三十分のあいだに六回、数えた。
――ああ、と冬吾は思った。
描きにくい顔じゃない。
この子は、いつも同じところを見ているから、表情が動かないだけだ。
冬吾があかつき荘に来たのは、六年前だ。
その前は、大手の制作会社にいた。作画監督になったのは二十七のときで、業界では早いほうだった。
早すぎたのだと思う。
二年で、身体が動かなくなった。
朝、机の前に座ると、腕が上がらない。診てもらっても、どこも悪くない。ただ、線が引けない。
辞めて、実家の秋田に戻って、半年、何もしなかった。
東雲弓子から電話がかかってきたのは、その半年目だった。
「久瀬くん。うちで、絵、描かない?」
「描けません」
「知ってる。だから、描かなくていい仕事から始めればいいでしょ」
冬吾はそのとき、生まれて初めて、電話口で泣いた。
あかつき荘に来て最初の三か月、冬吾がやったのは、庭の草むしりと、風呂掃除と、資料の整理だけだった。
誰も何も言わなかった。
四か月目に、雨宮が縁側で、冬吾に一枚の紙を渡した。
鉛筆で、猫が描いてあった。ノリだ。ひどく下手な絵だった。
「これ、直してくれない?」
「……これは」
「俺が描いた。腹立つだろ」
「腹は立ちませんけど」
「立てよ」雨宮は言った。「腹立てて、描き直せ」
冬吾は、その紙を部屋に持って帰った。
三日かかった。
三日目の夜、猫を一匹、描いた。
それが、六年前だ。
「久瀬さん、ラフ、上がりました?」
灯の声で、冬吾は我に返った。
七月の、金曜の夜。スタジオには、あと五人しか残っていない。
「上がってる」
「見せていただいても」
「見ろ」
冬吾は液晶タブレットを回した。
灯は身を乗り出して、画面を覗き込んだ。しばらく黙って見て、それから、言った。
「……ここの、手」
「なに」
「この手、少し、開きすぎてませんか」
冬吾は、灯の顔を見た。
「なんで」
「このシーン、この人、まだ迷ってるので」
灯は、画面の中の少女の手を指差した。
「迷ってる人は、たぶん、手をここまで開かないと思います。開くのは、決めたあとです」
冬吾は、しばらく、その手を見ていた。
それから、ペンを取って、指を三本、内側に寄せた。
二秒で終わる修正だった。
絵が、変わった。
「……ああ」
冬吾は、思わず声を出した。
「これだ」
「すみません、生意気を」
「いや」
冬吾は首を振った。
「あんた、演出やったほうがいい」
「制作進行です」
「今はな」
灯は困ったように笑った。その笑い方は、いつも、少しだけ遅れて始まる。
冬吾は、自分の胸のあたりに、久しぶりの感覚があるのに気づいた。
誰かに、何かを、見せたいという感覚だった。
「朝倉」
「はい」
「なんで、うちに来た」
同じことを、鹿沼律も聞いたのだと、冬吾は知らなかった。
灯は、少し間を置いてから、言った。
「久瀬さんは、なんで来たんですか」
「俺は、拾われた」
「私もです」
冬吾は、笑った。
「嘘つけ。あんた、自分で坂を上ってきたろ」
灯の表情が、止まった。
冬吾は、それを見て、なぜか、これ以上聞いてはいけない気がした。
だから、話を変えた。
「――今度の日曜、あかつき荘で合評会がある」
「合評会?」
「聞いてないのか。年に二回、住人が自分の作ったものを持ち寄って、監督に見せる」
「見せて、どうなるんですか」
「何も」冬吾は言った。「褒められもしないし、けなされもしない。監督は、ただ、感想を言う。ときどき、ひとつだけ、質問をする」
「質問」
「そう。そして、その質問がな」
冬吾は、タブレットのペンを、ペン立てに戻した。
「ぜんぶ、こっちの、いちばん見られたくないところに刺さる」