たそがれ色のカフェオレ
第一章 雨宿りは恋のはじまり
恋というものは、たいてい傘を忘れた日にやって来る。
——なんてことを言うと、親友の真弓は「あんた、詩人になったの? それとも熱でもあるの?」と真顔で額に手を伸ばしてくるに違いない。でも、事実なのだから仕方がない。
杉原陽菜多、二十歳。K女子大の文学部二年生。身長百五十六センチ。恋愛経験——ほぼゼロ。「ほぼ」というのは、高校一年のとき、隣のクラスの男の子に告白されて、三日間だけ付き合ったことがあるからだ。三日で終わったのは、その子が三日目に「やっぱり俺、陽菜多の友達の方が好きかも」と言い出したからで、あれを「経験」に数えていいものか、陽菜多はいまだに迷っている。
その日——四月も半ばの木曜日、陽菜多は大学の帰り道で、見事なにわか雨に捕まった。
「うそでしょ……」
朝のテレビでは、降水確率一〇パーセントと言っていたのだ。一〇パーセントを信じた自分が悪いのか、九〇パーセントの方の空が悪いのか。
駅までは、まだ十分はある。商店街のアーケードは途中で切れていて、その先は屋根のない道が続く。陽菜多は、切れたアーケードの端で立ち往生した。
スカートの裾はもう濡れている。買ったばかりの、白いスニーカーも。
ふと横を見ると、細い路地の奥に、灯りがともっていた。
オレンジ色の、あたたかい灯り。木の看板に、消えかかったペンキの文字で、
〈珈琲 シリウス〉
とある。
「喫茶店……こんなとこにあったんだ」
この商店街は、大学に入ってからの一年間、たぶん二百回は通っている。なのに、こんな店があるなんて、ちっとも知らなかった。
恋も、そういうものかもしれない。ずっとそこにあったのに、雨が降るまで気づかない。
カラン、と古めかしいドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
低い声がして、カウンターの奥から男の人が顔を上げた。
四十代半ばだろうか。少し長めの髪に、白いものが混じっている。紺のエプロン。カップを拭く手つきが、妙にゆっくりで、丁寧だった。
「すごい降りだね。——タオル、使う?」
差し出された白いタオルは、ふんわりと、お日さまの匂いがした。
「あ……ありがとう、ございます」
「奥の席、ストーブつけてあるから。四月だってのに、今日は冷えるね」
店の中には、客は一人もいなかった。年代物の柱時計と、壁一面のレコード。窓際の椅子の上では、大きな灰色の猫が、迷惑そうに片目だけ開けて、こちらを見た。
「その席、シリウスのなんだ。よかったら隣、どうぞ」
「シリウス……って、お店の名前じゃ」
「店の名前が先か、猫の名前が先か、もう覚えてないんだよね」
男の人は、そう言って笑った。目尻に、くしゃっと皺が寄った。
——あ。
と、陽菜多は思った。何が「あ」なのか、自分でもわからなかった。ただ、胸の奥の、ふだん使っていない引き出しが、小さな音を立てて開いたような気がした。
「何にしましょう」
「えっと……カフェオレ、ください」
「はい。——うちのカフェオレはね、時間がかかるよ。牛乳を焦がさないように、鍋でゆっくり温めるから」
「あの、急いでないです。雨、やみそうにないし」
「そう。じゃあ、ゆっくり作ります」
やがて運ばれてきたカフェオレは、大ぶりの白いカップに、なみなみと注がれていた。ひとくち飲んで、陽菜多は目を丸くした。
甘い。でも、お砂糖の甘さじゃない。牛乳そのものの、やさしい甘さだ。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
マスターはカウンターの中で、また別のカップを拭き始めた。窓の外では雨が、アーケードの継ぎ目を叩いている。柱時計が、こち、こち、と鳴っている。猫のシリウスが、あくびをひとつした。
時間が、この店の中だけ、ゆっくり流れているみたいだった。
雨がやんだのは、一時間も後のことだ。陽菜多は伝票を持ってレジへ行き——そこで財布の中を見て、青くなった。
「あの……ごめんなさい、私……三百二十円しか……」
カフェオレは四百五十円だった。
マスターは、ちょっと首をかしげて、そして言った。
「じゃ、三百二十円でいいよ。残りは——そうだな、今度晴れた日に、顔を見せてくれたら、それでチャラ」
「え、でも」
「うちは、そういう店なの。雨の日のお客さんからは、雨の日の分しかもらわない」
わけのわからない理屈だった。でも、そのわけのわからなさが、なぜだか胸に沁みた。
「……絶対、来ます。晴れた日に」
「うん。待ってます」
カラン、とドアベルを鳴らして外に出ると、雨上がりの商店街は、夕焼けで金色に光っていた。
水たまりを飛び越えながら、陽菜多は気がついた。自分がさっきから、ずっと笑っていることに。
——これが、すべての始まりだった。
陽菜多、二十歳の春。相手は、たぶん四十代半ばの、名前も知らない喫茶店のマスター。
誰がどう考えても、無謀としか言いようのない恋の、始まりだった。
——なんてことを言うと、親友の真弓は「あんた、詩人になったの? それとも熱でもあるの?」と真顔で額に手を伸ばしてくるに違いない。でも、事実なのだから仕方がない。
杉原陽菜多、二十歳。K女子大の文学部二年生。身長百五十六センチ。恋愛経験——ほぼゼロ。「ほぼ」というのは、高校一年のとき、隣のクラスの男の子に告白されて、三日間だけ付き合ったことがあるからだ。三日で終わったのは、その子が三日目に「やっぱり俺、陽菜多の友達の方が好きかも」と言い出したからで、あれを「経験」に数えていいものか、陽菜多はいまだに迷っている。
その日——四月も半ばの木曜日、陽菜多は大学の帰り道で、見事なにわか雨に捕まった。
「うそでしょ……」
朝のテレビでは、降水確率一〇パーセントと言っていたのだ。一〇パーセントを信じた自分が悪いのか、九〇パーセントの方の空が悪いのか。
駅までは、まだ十分はある。商店街のアーケードは途中で切れていて、その先は屋根のない道が続く。陽菜多は、切れたアーケードの端で立ち往生した。
スカートの裾はもう濡れている。買ったばかりの、白いスニーカーも。
ふと横を見ると、細い路地の奥に、灯りがともっていた。
オレンジ色の、あたたかい灯り。木の看板に、消えかかったペンキの文字で、
〈珈琲 シリウス〉
とある。
「喫茶店……こんなとこにあったんだ」
この商店街は、大学に入ってからの一年間、たぶん二百回は通っている。なのに、こんな店があるなんて、ちっとも知らなかった。
恋も、そういうものかもしれない。ずっとそこにあったのに、雨が降るまで気づかない。
カラン、と古めかしいドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
低い声がして、カウンターの奥から男の人が顔を上げた。
四十代半ばだろうか。少し長めの髪に、白いものが混じっている。紺のエプロン。カップを拭く手つきが、妙にゆっくりで、丁寧だった。
「すごい降りだね。——タオル、使う?」
差し出された白いタオルは、ふんわりと、お日さまの匂いがした。
「あ……ありがとう、ございます」
「奥の席、ストーブつけてあるから。四月だってのに、今日は冷えるね」
店の中には、客は一人もいなかった。年代物の柱時計と、壁一面のレコード。窓際の椅子の上では、大きな灰色の猫が、迷惑そうに片目だけ開けて、こちらを見た。
「その席、シリウスのなんだ。よかったら隣、どうぞ」
「シリウス……って、お店の名前じゃ」
「店の名前が先か、猫の名前が先か、もう覚えてないんだよね」
男の人は、そう言って笑った。目尻に、くしゃっと皺が寄った。
——あ。
と、陽菜多は思った。何が「あ」なのか、自分でもわからなかった。ただ、胸の奥の、ふだん使っていない引き出しが、小さな音を立てて開いたような気がした。
「何にしましょう」
「えっと……カフェオレ、ください」
「はい。——うちのカフェオレはね、時間がかかるよ。牛乳を焦がさないように、鍋でゆっくり温めるから」
「あの、急いでないです。雨、やみそうにないし」
「そう。じゃあ、ゆっくり作ります」
やがて運ばれてきたカフェオレは、大ぶりの白いカップに、なみなみと注がれていた。ひとくち飲んで、陽菜多は目を丸くした。
甘い。でも、お砂糖の甘さじゃない。牛乳そのものの、やさしい甘さだ。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
マスターはカウンターの中で、また別のカップを拭き始めた。窓の外では雨が、アーケードの継ぎ目を叩いている。柱時計が、こち、こち、と鳴っている。猫のシリウスが、あくびをひとつした。
時間が、この店の中だけ、ゆっくり流れているみたいだった。
雨がやんだのは、一時間も後のことだ。陽菜多は伝票を持ってレジへ行き——そこで財布の中を見て、青くなった。
「あの……ごめんなさい、私……三百二十円しか……」
カフェオレは四百五十円だった。
マスターは、ちょっと首をかしげて、そして言った。
「じゃ、三百二十円でいいよ。残りは——そうだな、今度晴れた日に、顔を見せてくれたら、それでチャラ」
「え、でも」
「うちは、そういう店なの。雨の日のお客さんからは、雨の日の分しかもらわない」
わけのわからない理屈だった。でも、そのわけのわからなさが、なぜだか胸に沁みた。
「……絶対、来ます。晴れた日に」
「うん。待ってます」
カラン、とドアベルを鳴らして外に出ると、雨上がりの商店街は、夕焼けで金色に光っていた。
水たまりを飛び越えながら、陽菜多は気がついた。自分がさっきから、ずっと笑っていることに。
——これが、すべての始まりだった。
陽菜多、二十歳の春。相手は、たぶん四十代半ばの、名前も知らない喫茶店のマスター。
誰がどう考えても、無謀としか言いようのない恋の、始まりだった。