たそがれ色のカフェオレ
第二章 百三十円の通い道
「——で、あんた、それから毎日通ってるわけ?」
大学の学食で、真弓がうどんをすする手を止めた。
「毎日じゃないもん。週に……四回くらい」
「ほぼ毎日って言うのよ、それは」
小田真弓は、陽菜多の高校からの親友である。陽菜多と違って恋愛経験は豊富。本人いわく「戦歴七勝五敗二引き分け」で、恋の相談ごとには、警察犬なみの嗅覚を発揮する。
「まさかあんた、そのマスターに惚れたんじゃないでしょうね」
「ちっ、違うよ! ただ、カフェオレがおいしいから」
「ふーん。カフェオレね」
真弓は、じとっと陽菜多を見た。
「じゃ、そのマスターの名前は?」
「小暮さん。小暮修一郎さん。お店の営業許可証に書いてあった」
「営業許可証まで見たの!? 刑事か、あんたは」
「た、たまたま目に入ったの!」
「年は?」
「四十六。……たぶん。常連のおじいちゃんが『小暮ちゃんももう四十六かい』って言ってたから」
「家族は?」
「……一人、みたい。八年前に、奥さんを病気で亡くして……。それからずっと、一人でお店やってるんだって」
真弓は箸を置いた。そして、しみじみと言った。
「あんた、それ、全部『たまたま』知ったのね?」
「……うん」
「陽菜多」
「なに」
「重症よ」
——重症。
その言葉を、陽菜多は帰りの電車の中で、何度も反芻した。
そんなはずない、と思う。だって相手は四十六歳。父親は五十一歳だから、お父さんと五つしか違わない。恋愛の対象になんて、なるわけがない。
なるわけがないのに——。
気がつくと、電車を降りた足は、駅と反対側の、商店街に向かっていた。
カラン。
「いらっしゃい。——ああ、陽菜多ちゃん」
名前を覚えてもらえたのは、三度目に来たときだ。学生証を落として、拾ってもらったのがきっかけだった。あのとき小暮さんは「陽菜多。いい名前だね。ひなたぼっこの、ひなた」と言った。
二十年間で、自分の名前を褒められたことは何度もある。でも、あんなにうれしかったのは、初めてだった。
「カフェオレでいい?」
「はい。あと今日は、トーストも」
「はいよ」
カウンターの端が、いつのまにか陽菜多の指定席になっていた。シリウスが足元にすり寄ってくる。この猫は、気に入った客の足にしか寄ってこないのだと、常連の田口のおじいちゃんが教えてくれた。
「陽菜多ちゃん、大学は楽しい?」
「うーん……レポートが三つたまってます」
「ここで書けば? うち、静かだけが取り柄だから」
「いいんですか?」
「コーヒー、一杯で何時間粘っても、怒らない店です」
それから陽菜多は、レポートを書くという口実を手に入れた。口実というのは便利なもので、週四回が、週五回になった。
小暮さんは、不思議な人だった。
余計なことは何も聞かない。でも、こちらが話したいときは、カップを拭く手を止めて、ちゃんと聞いてくれる。陽菜多がゼミの発表で失敗して落ち込んでいた日は、何も言わずに、カフェオレの上にシナモンで小さな星を描いてくれた。
「……これ、何ですか?」
「シリウス。いちばん暗い夜に、いちばん明るく見える星」
そういうことを、さらりと言う人なのだった。ずるい、と思う。四十六歳は、二十歳がそういう言葉にどれだけ弱いか、知らないのだ。
五月のある夕方、店じまい間際に、陽菜多は思い切って聞いてみた。
「小暮さんは、どうして喫茶店を?」
「んー」小暮さんは、豆を挽く手を止めた。「女房がね、コーヒー好きだったの」
「あ……」
「結婚したころ、二人で約束したんだ。いつか小さい喫茶店をやろうって。女房が客席に座って、俺が淹れて。——で、店を開いて二年目に、あいつは客席じゃなくて、病院のベッドに座ることになっちゃった」
しまった、と思った。聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「ごめんなさい、私……」
「なんで謝るの」小暮さんは笑った。「話したのは、こっちだよ。それにね、女房の話をすると、あいつがちょっとだけ帰ってくるような気がするんだ。だから、聞いてくれる人がいるのは、ありがたい」
夕陽が、店の中をオレンジ色に染めていた。小暮さんの横顔に、深い皺が刻まれているのが見えた。笑い皺と、それから、たぶん、泣くのを我慢した皺と。
その横顔を見ながら、陽菜多は、はっきりと自覚してしまった。
——好きだ。
この人が、好きだ。
二十六も年上の、亡くなった奥さんをまだ想い続けている、この人が。
どうしよう、と思った。うれしくて、こわくて、せつなくて、胸の中で三つの気持ちが団子になって、喉のところまでせり上がってきた。
「陽菜多ちゃん? 顔、赤いよ。ストーブ、強すぎた?」
「……はい。ストーブの、せいです」
五月に、ストーブなんてついていなかった。
大学の学食で、真弓がうどんをすする手を止めた。
「毎日じゃないもん。週に……四回くらい」
「ほぼ毎日って言うのよ、それは」
小田真弓は、陽菜多の高校からの親友である。陽菜多と違って恋愛経験は豊富。本人いわく「戦歴七勝五敗二引き分け」で、恋の相談ごとには、警察犬なみの嗅覚を発揮する。
「まさかあんた、そのマスターに惚れたんじゃないでしょうね」
「ちっ、違うよ! ただ、カフェオレがおいしいから」
「ふーん。カフェオレね」
真弓は、じとっと陽菜多を見た。
「じゃ、そのマスターの名前は?」
「小暮さん。小暮修一郎さん。お店の営業許可証に書いてあった」
「営業許可証まで見たの!? 刑事か、あんたは」
「た、たまたま目に入ったの!」
「年は?」
「四十六。……たぶん。常連のおじいちゃんが『小暮ちゃんももう四十六かい』って言ってたから」
「家族は?」
「……一人、みたい。八年前に、奥さんを病気で亡くして……。それからずっと、一人でお店やってるんだって」
真弓は箸を置いた。そして、しみじみと言った。
「あんた、それ、全部『たまたま』知ったのね?」
「……うん」
「陽菜多」
「なに」
「重症よ」
——重症。
その言葉を、陽菜多は帰りの電車の中で、何度も反芻した。
そんなはずない、と思う。だって相手は四十六歳。父親は五十一歳だから、お父さんと五つしか違わない。恋愛の対象になんて、なるわけがない。
なるわけがないのに——。
気がつくと、電車を降りた足は、駅と反対側の、商店街に向かっていた。
カラン。
「いらっしゃい。——ああ、陽菜多ちゃん」
名前を覚えてもらえたのは、三度目に来たときだ。学生証を落として、拾ってもらったのがきっかけだった。あのとき小暮さんは「陽菜多。いい名前だね。ひなたぼっこの、ひなた」と言った。
二十年間で、自分の名前を褒められたことは何度もある。でも、あんなにうれしかったのは、初めてだった。
「カフェオレでいい?」
「はい。あと今日は、トーストも」
「はいよ」
カウンターの端が、いつのまにか陽菜多の指定席になっていた。シリウスが足元にすり寄ってくる。この猫は、気に入った客の足にしか寄ってこないのだと、常連の田口のおじいちゃんが教えてくれた。
「陽菜多ちゃん、大学は楽しい?」
「うーん……レポートが三つたまってます」
「ここで書けば? うち、静かだけが取り柄だから」
「いいんですか?」
「コーヒー、一杯で何時間粘っても、怒らない店です」
それから陽菜多は、レポートを書くという口実を手に入れた。口実というのは便利なもので、週四回が、週五回になった。
小暮さんは、不思議な人だった。
余計なことは何も聞かない。でも、こちらが話したいときは、カップを拭く手を止めて、ちゃんと聞いてくれる。陽菜多がゼミの発表で失敗して落ち込んでいた日は、何も言わずに、カフェオレの上にシナモンで小さな星を描いてくれた。
「……これ、何ですか?」
「シリウス。いちばん暗い夜に、いちばん明るく見える星」
そういうことを、さらりと言う人なのだった。ずるい、と思う。四十六歳は、二十歳がそういう言葉にどれだけ弱いか、知らないのだ。
五月のある夕方、店じまい間際に、陽菜多は思い切って聞いてみた。
「小暮さんは、どうして喫茶店を?」
「んー」小暮さんは、豆を挽く手を止めた。「女房がね、コーヒー好きだったの」
「あ……」
「結婚したころ、二人で約束したんだ。いつか小さい喫茶店をやろうって。女房が客席に座って、俺が淹れて。——で、店を開いて二年目に、あいつは客席じゃなくて、病院のベッドに座ることになっちゃった」
しまった、と思った。聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「ごめんなさい、私……」
「なんで謝るの」小暮さんは笑った。「話したのは、こっちだよ。それにね、女房の話をすると、あいつがちょっとだけ帰ってくるような気がするんだ。だから、聞いてくれる人がいるのは、ありがたい」
夕陽が、店の中をオレンジ色に染めていた。小暮さんの横顔に、深い皺が刻まれているのが見えた。笑い皺と、それから、たぶん、泣くのを我慢した皺と。
その横顔を見ながら、陽菜多は、はっきりと自覚してしまった。
——好きだ。
この人が、好きだ。
二十六も年上の、亡くなった奥さんをまだ想い続けている、この人が。
どうしよう、と思った。うれしくて、こわくて、せつなくて、胸の中で三つの気持ちが団子になって、喉のところまでせり上がってきた。
「陽菜多ちゃん? 顔、赤いよ。ストーブ、強すぎた?」
「……はい。ストーブの、せいです」
五月に、ストーブなんてついていなかった。