ふたりぐらし ~好きがわからなかったあたしと、一途なあなた~
第4章 崩れない余裕―ぬるま湯の代償―
“――結婚式、やめにしない?”
なおのその一言に、あきくんの目が一瞬大きく開かれた。
揺れる瞳にどこかほっとしたのに、次に紡がれた言葉で心が冷えた。
「……いいよ。
なおがそうしたいなら」
笑顔すら浮かべて言うあきくんに、小さく指先が震えた。
やめにしようと言い出したのはなおなのに、本当はしたくなかったのではという疑念が肯定された事実。
追い打ちをかけるように、あきくんが言葉を重ねる。
「結婚式をしてもしなくても、俺はいい。
しないからって夫婦でなくなるわけではない。
……関係者には必要なら俺から頭を下げるから、大丈夫だ」
欲しかった答えがあった上での試し行動だったと、あきくんの答えを聞いた今ならわかる。
望んでいた形と違う方向に、物事が進もうとしていた。
このままでは、あきくんがいなくなってしまうのではないかと思ったとき、無意識に彼の服の裾を引っ張っていた。
無言の、傍にいて欲しいという願いを彼が正しく受け取ったのかはわからない。
「……ただ、どんなになおにお願いされても。
離婚だけは、聞いてやれそうにない」
あきくんの目が、揺れながらもしっかりとなおに向けられる。
ぎりぎり首の皮一枚で繋がれているような、そんな夫婦生活の二年目のスタートとなった。
正月休みは暦との兼ね合いでそこそこあった。
あきくんは、変わらずに優しい。
本当に、良い人。
急に結婚式をやめたいと言い出しても怒らず、その責任すら負おうとする。
それでも変わらずに、なおを愛し触れ続ける。
元々、触れ合いは多い方だと思っていたが、そのペースも変わらない。
その変わらなさが、彼を振り回していたという答えの様だった。
正月休みが終わる前に、もう一度日高家へと遊びに行った。
あきくんと冬真、なおでゲームをしたりのんびりと過ごした。
「そういえばさ、結婚式なんだけど」
冬真の発言にどきりと胸が嫌な音を立てた。
あきくんから伝わっているのだろう事実を、責められるのか怒られるのか。
ぎゅっとスカートを握って続く言葉を待つ。
「オレ、どんな服にしようかそろそろ考え始めないとだよなー。
母さんはスーツなら何でもいいっていうけど、そうもいかねぇだろ?」
笑いながら言われた言葉に、固まる。
「……結婚式、やめるって聞いてない?」
なおが恐る恐る口にした言葉に、今度は冬真の方が凍り付いた。
「……は?
なお、またお前らこじれてんの?」
はぁぁ、と思い切り呆れからのため息を吐き出した冬真は、トイレで席を立っている兄に対して苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
「……あたし、あきくん振り回しているって気が付いた。
結婚式も……ううん、そもそも結婚自体があきくんの意思だったのかなって思い始めたら怖くなった」
「それで“結婚式やめたい”と」
なおの思考を先読みするように、冬真が言葉の先を引き取る。
なおは無言で頷いた。
「兄貴の反応、想像できるわ。
それで?」
「……結婚式は、やめてもいいって……。
……でも、離婚は応じないって言われた」
「そりゃそうだろうな」
手に持っていたゲーム機をソファーに放り出し、本格的になおに向き合って、冬真は話し出す。
「……兄貴さ、いつから“欲しい”って言えなくなったんだろうな」
「え?」
「俺が中学の頃とか、勘弁してくれってくらい欲しがってただろ、兄貴。
なおのこと、わざとオレに見せつけてたよな、あれ」
冬真の言っている時期が、いつを指しているのかはすぐにわかった。
高校一年のクリスマスイブの日から、高校二年の夏にかけて。
あきくんと一度線を越えた後は、数えきれないほど彼を抱きしめた。
何度か冬真に見られかけたこともある。
「なおと、別れてからだよな。
微妙な距離感作り始めたの」
違う、別れていないとは言えなかった。
曖昧な関係に逃げていたころ。
元カレ元カノですらなく、ただ彼の好きを受け取れずにあの時は逃げた。
同じように好きと言ってくれる人はいたけれど、なおが受け取らないとわかるとみんな離れていった。
関係を持った後も、変わらずに傍にいてくれたのはあきくんだけだった。
そんな彼の優しさに、甘えている。
「……あたし、あきくんのこと縛っているよね」
「まぁ、囲ってんな」
冬真は間髪入れずに頷いた。
彼の優しさを利用して振り回してきた自責で潰れそうだった。
「……あきくんは、そんなことしないのに」
「は?
囲ってんだろ、昔から」
ぽつりと零した言葉に、冬真が驚いたように目を丸くしてこちらを見る。
「え? あきくんの話だよ?」
「わかってるよ。
元カレのくせになおの隣に立ち続けて、他の男近づきにくくしてる時点で兄貴のがやべーよ」
なおの目が、驚きで見開かれる。
「なおがやってるのは、妻という立場での囲いだろ?
兄貴は関係のない立場の時からやってる。
だからこそ、ずっと執念深くて質が悪い」
「…………」
なおがなにも言えなくなったのを見て、冬真がため息交じりに言葉を紡ぐ。
「……オレ、なおのことが好きだったよ。
なお、オレが迫ったら断らなかっただろ。
兄貴に似た顔、断られるはずもないし、オレなら兄貴よりうまくやれると思ってしまった。
……手、出さなくてよかったって今は思ってるけどな。
でもあの頃は、チャンスがあれば本気で奪おうと思ってた」
違う、冬真だけは“最初から”あり得なかった。
冬真には“断る理由”がちゃんとある。
完全に凍り付いたなおを無視して、さらに冬真の言葉は続く。
「兄貴さ、なおが結婚式止めたいって言ったとかオレには何も言ってきてない。
それが何を意味しているかまでは知らないけどさ」
冬真の言葉は、いつもどこか難しい。
「まぁ、本当に兄貴が手を引くなら、オレがなおの人生引き受けてやるから気楽にぶつかれ」
最後は雑にまとめられて、なおの頭に手を伸ばしてぐしゃぐしゃに髪をかき混ぜられる。
それに対抗するように冬真に手を伸ばそうとしたら、その手を戻ってきたあきくんが引き留めた。
なおが瞬きをしながらあきくんの顔を見つめる。
その視線に気が付いていないわけはないのに、あきくんはこちらを見なかった。
「……兄貴話聞いていただろ」
「……俺のいないところで、勝手に話進めてんじゃねぇよ」
あきくんの声は、いつもより冷たかった。
あまり聞いたことのないその響きに、背中がすっと冷えた。
「まぁ、後は夫婦で話し合えば?」
冬真が部屋へと引っ込み、二人だけになる。
残された沈黙が痛かった。
とりあえず聞かれたであろう冬真の発言だけでも否定しようと、なおが口を開きかけた時。
それを遮るように、あきくんが口を開いた。
「……俺、ちゃんとお前の気持ち優先してきたよな?
飲みたくないこと飲み込んできてるのに、何でだよ」
冷たい声音はそのまま変わらずになおへと向けられる。
”飲みたくないことを飲み込んだ”というその言葉は、氷の刃のようだった。
「やっぱりそうだったんだ。
あきくんは式やりたくなかったし、そもそも結婚だって――」
「それ以上言ったら本気で怒る」
びくりと肩が跳ねる。
あきくんに恐怖を感じたのは初めてだった。
こんな風に怒りを露わにした彼を、見たことない。
「飲み込んだのは、式やめたいって言ったことに決まってるだろ!」
大きな声で怒鳴られているわけでもないのに、震えが止まらない。
あきくんは、まっすぐになおを見つめながら、感情を隠すことなく言葉にした。
「……俺がしたくないって、どうしてそうなるんだよ。
やりたいに決まってんだろ」
一拍、言葉が途切れた。
「……なおのドレス姿見たいよ。
お前は俺の妻だと堂々と横に立たせたい」
はぁ、と重たい息を吐きながら、あきくんがなおを見つめる。
「……でも、さ。
それ言ったら、なお逃げるだろ?
もう、逃げられるのは嫌だったんだよ」
握りしめられた手は、指先が白く、小刻みに震えていた。
「ちゃんと、”夫”やってるつもりだったのに……っ」
絞り出すような声のあと、ぽろりと涙が一滴零れた。
「……でも、足りなかったんだよな」
その涙を拭おうと無意識になおが伸ばした手は、優しく、だけどはっきりと払い落とされた。
「……俺、お前が何考えているのか、わからねぇよ」
あきくんの声は、怒っているはずなのに、どこか悲鳴のようにも聞こえた。
払い落とされた手を握りしめる。
視界が揺れたと思ったら、止めどなく涙があふれ出す。
なおの涙を見たあきくんが戸惑いを顔に乗せる。
また逃げられるかもしれないと思ったけれど、衝動を抑えられずにあきくんの胸元にすがった。
今度は払い落とされなかった。
上手く息が吸えない。
「……よか……った……っ!」
荒くなる呼吸を、必死で整えながら絞り出せた言葉。
「……え?」
ほぼ、息に溶けて混ざったような叫びを、それでも正しくあきくんは拾ってくれた。
もう一度、呼吸を整えようとするが、中々上手くいかない。
彼の服を掴んだ手が、震える。
がちゃりと、玄関の開く音がした。
彼の母が帰ってきたのだと、頭では理解していても身体は動かなかった。
あきくんにしがみついて泣いたまま。
リビングの扉が開く。
「……ただいま、って…………なおちゃん?」
返事はできなかったけれど、涙に濡れた表情のまま、彼の母の方を見る。
彼の母の顔色が変わり、あきくんの方を見た。
「……千秋、あなた何やっているの?」
冷たい母の言葉に、あきくんは何も言えずに黙り込む。
修羅場を察したのか、いなくなったはずの冬真が再びリビングへと降りてくる。
「兄貴、なおに逃げられたくなくて必死なんだよ。
重たい男だからさ、普通の女ならびびって逃げるわ」
冬真は軽く言葉にする。
だが、その目は笑っていない。
「なお、兄貴が重くて嫌になったらオレのところにくれば?
少なくとも、なおがどんなに重くても囲ってきてもオレは逃げない」
笑いながらの、冗談交じりの冬真の言葉。
「……冬真。あなた面白がっているでしょう」
彼の母が冬真を窘めようとした瞬間、あきくんの身体が怒りで震えた。
「ふざけんなよ」
低い、呟きの様な声。
しがみついているなおの肩に、守るように左腕が回された。
「……いなく、ならないで……」
小さななおの呟きを、みんなが拾おうとしんとする。
震える声で、なおは続けた。
「……逃げない……から……。
欲しい、のは…………千秋、だけだよ」
それだけ言ったら、また喋れなくなるほどなおの瞳から涙が溢れた。
「……今、それ言うのかよ」
ぽんぽんと慰めるようにあきくんの手が背中に触れる。
それは、俺もだよと伝えてくるような、優しい手だった。
「兄貴、自分の実家で妻泣かすなよ」
冬真の笑い混じりの声が聞こえる。
なおは必死であきくんにしがみついていて、誰の表情も見えなかった。
「そうね、そこは千秋が悪い」
彼の母も乗ってきた。
あきくんは答えられずにただ苦笑いする気配だけした。
「千秋、あなたの部屋でちゃんと二人だけで話してきなさい。
落ち着いたらもう一度降りてきて。
美味しいケーキ、買ってきたから」
彼の母の優しい声が聞こえる。
あきくんは頷いて、なおを連れて二階へと上がっていった。
あきくんの部屋のベッドに、二人並んで座る。
何度も来たことのあるこの部屋は、彼の実家の中で一番落ち着ける場所だった。
零れる涙は中々止まらないけれど、これはもう悲しい涙ではなかった。
「なお」
あきくんの声は、いつもよりも少しだけ固い。
「泣き止んだら、また下に降りよう。
無理に落ち着かせなくていいから、今は思いきり泣け」
なおは無言で彼の言葉に頷く。
その拍子に、また一粒涙が零れた。
肩を抱く腕は、力強くて温かい。
「俺、謝らないから。
本気で怒ったし、本気でお前が欲しい。
だから、無かったことにはしない。
……それでいいよな?」
その言葉に、心から安心した。
涙はまだ止まりそうに無かった。
その後、美味しいケーキを頂いて、しばらくゆっくりした後に日高家を後にした。
彼の母が結婚式の話題を出してきても、なおはもう逃げなかった。
帰り道、まっすぐ前を見て運転するあきくんを見つめるだけで、胸が高鳴った。
お互いにはっきり相手が欲しいと言い合った後だからだろうか。
ハンドルを握る指先に触れたくなって、ぎゅっと自分の膝を握りしめた。
彼に触りたいのに触れないその距離感が、甘くてもどかしかった。
なおのその一言に、あきくんの目が一瞬大きく開かれた。
揺れる瞳にどこかほっとしたのに、次に紡がれた言葉で心が冷えた。
「……いいよ。
なおがそうしたいなら」
笑顔すら浮かべて言うあきくんに、小さく指先が震えた。
やめにしようと言い出したのはなおなのに、本当はしたくなかったのではという疑念が肯定された事実。
追い打ちをかけるように、あきくんが言葉を重ねる。
「結婚式をしてもしなくても、俺はいい。
しないからって夫婦でなくなるわけではない。
……関係者には必要なら俺から頭を下げるから、大丈夫だ」
欲しかった答えがあった上での試し行動だったと、あきくんの答えを聞いた今ならわかる。
望んでいた形と違う方向に、物事が進もうとしていた。
このままでは、あきくんがいなくなってしまうのではないかと思ったとき、無意識に彼の服の裾を引っ張っていた。
無言の、傍にいて欲しいという願いを彼が正しく受け取ったのかはわからない。
「……ただ、どんなになおにお願いされても。
離婚だけは、聞いてやれそうにない」
あきくんの目が、揺れながらもしっかりとなおに向けられる。
ぎりぎり首の皮一枚で繋がれているような、そんな夫婦生活の二年目のスタートとなった。
正月休みは暦との兼ね合いでそこそこあった。
あきくんは、変わらずに優しい。
本当に、良い人。
急に結婚式をやめたいと言い出しても怒らず、その責任すら負おうとする。
それでも変わらずに、なおを愛し触れ続ける。
元々、触れ合いは多い方だと思っていたが、そのペースも変わらない。
その変わらなさが、彼を振り回していたという答えの様だった。
正月休みが終わる前に、もう一度日高家へと遊びに行った。
あきくんと冬真、なおでゲームをしたりのんびりと過ごした。
「そういえばさ、結婚式なんだけど」
冬真の発言にどきりと胸が嫌な音を立てた。
あきくんから伝わっているのだろう事実を、責められるのか怒られるのか。
ぎゅっとスカートを握って続く言葉を待つ。
「オレ、どんな服にしようかそろそろ考え始めないとだよなー。
母さんはスーツなら何でもいいっていうけど、そうもいかねぇだろ?」
笑いながら言われた言葉に、固まる。
「……結婚式、やめるって聞いてない?」
なおが恐る恐る口にした言葉に、今度は冬真の方が凍り付いた。
「……は?
なお、またお前らこじれてんの?」
はぁぁ、と思い切り呆れからのため息を吐き出した冬真は、トイレで席を立っている兄に対して苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
「……あたし、あきくん振り回しているって気が付いた。
結婚式も……ううん、そもそも結婚自体があきくんの意思だったのかなって思い始めたら怖くなった」
「それで“結婚式やめたい”と」
なおの思考を先読みするように、冬真が言葉の先を引き取る。
なおは無言で頷いた。
「兄貴の反応、想像できるわ。
それで?」
「……結婚式は、やめてもいいって……。
……でも、離婚は応じないって言われた」
「そりゃそうだろうな」
手に持っていたゲーム機をソファーに放り出し、本格的になおに向き合って、冬真は話し出す。
「……兄貴さ、いつから“欲しい”って言えなくなったんだろうな」
「え?」
「俺が中学の頃とか、勘弁してくれってくらい欲しがってただろ、兄貴。
なおのこと、わざとオレに見せつけてたよな、あれ」
冬真の言っている時期が、いつを指しているのかはすぐにわかった。
高校一年のクリスマスイブの日から、高校二年の夏にかけて。
あきくんと一度線を越えた後は、数えきれないほど彼を抱きしめた。
何度か冬真に見られかけたこともある。
「なおと、別れてからだよな。
微妙な距離感作り始めたの」
違う、別れていないとは言えなかった。
曖昧な関係に逃げていたころ。
元カレ元カノですらなく、ただ彼の好きを受け取れずにあの時は逃げた。
同じように好きと言ってくれる人はいたけれど、なおが受け取らないとわかるとみんな離れていった。
関係を持った後も、変わらずに傍にいてくれたのはあきくんだけだった。
そんな彼の優しさに、甘えている。
「……あたし、あきくんのこと縛っているよね」
「まぁ、囲ってんな」
冬真は間髪入れずに頷いた。
彼の優しさを利用して振り回してきた自責で潰れそうだった。
「……あきくんは、そんなことしないのに」
「は?
囲ってんだろ、昔から」
ぽつりと零した言葉に、冬真が驚いたように目を丸くしてこちらを見る。
「え? あきくんの話だよ?」
「わかってるよ。
元カレのくせになおの隣に立ち続けて、他の男近づきにくくしてる時点で兄貴のがやべーよ」
なおの目が、驚きで見開かれる。
「なおがやってるのは、妻という立場での囲いだろ?
兄貴は関係のない立場の時からやってる。
だからこそ、ずっと執念深くて質が悪い」
「…………」
なおがなにも言えなくなったのを見て、冬真がため息交じりに言葉を紡ぐ。
「……オレ、なおのことが好きだったよ。
なお、オレが迫ったら断らなかっただろ。
兄貴に似た顔、断られるはずもないし、オレなら兄貴よりうまくやれると思ってしまった。
……手、出さなくてよかったって今は思ってるけどな。
でもあの頃は、チャンスがあれば本気で奪おうと思ってた」
違う、冬真だけは“最初から”あり得なかった。
冬真には“断る理由”がちゃんとある。
完全に凍り付いたなおを無視して、さらに冬真の言葉は続く。
「兄貴さ、なおが結婚式止めたいって言ったとかオレには何も言ってきてない。
それが何を意味しているかまでは知らないけどさ」
冬真の言葉は、いつもどこか難しい。
「まぁ、本当に兄貴が手を引くなら、オレがなおの人生引き受けてやるから気楽にぶつかれ」
最後は雑にまとめられて、なおの頭に手を伸ばしてぐしゃぐしゃに髪をかき混ぜられる。
それに対抗するように冬真に手を伸ばそうとしたら、その手を戻ってきたあきくんが引き留めた。
なおが瞬きをしながらあきくんの顔を見つめる。
その視線に気が付いていないわけはないのに、あきくんはこちらを見なかった。
「……兄貴話聞いていただろ」
「……俺のいないところで、勝手に話進めてんじゃねぇよ」
あきくんの声は、いつもより冷たかった。
あまり聞いたことのないその響きに、背中がすっと冷えた。
「まぁ、後は夫婦で話し合えば?」
冬真が部屋へと引っ込み、二人だけになる。
残された沈黙が痛かった。
とりあえず聞かれたであろう冬真の発言だけでも否定しようと、なおが口を開きかけた時。
それを遮るように、あきくんが口を開いた。
「……俺、ちゃんとお前の気持ち優先してきたよな?
飲みたくないこと飲み込んできてるのに、何でだよ」
冷たい声音はそのまま変わらずになおへと向けられる。
”飲みたくないことを飲み込んだ”というその言葉は、氷の刃のようだった。
「やっぱりそうだったんだ。
あきくんは式やりたくなかったし、そもそも結婚だって――」
「それ以上言ったら本気で怒る」
びくりと肩が跳ねる。
あきくんに恐怖を感じたのは初めてだった。
こんな風に怒りを露わにした彼を、見たことない。
「飲み込んだのは、式やめたいって言ったことに決まってるだろ!」
大きな声で怒鳴られているわけでもないのに、震えが止まらない。
あきくんは、まっすぐになおを見つめながら、感情を隠すことなく言葉にした。
「……俺がしたくないって、どうしてそうなるんだよ。
やりたいに決まってんだろ」
一拍、言葉が途切れた。
「……なおのドレス姿見たいよ。
お前は俺の妻だと堂々と横に立たせたい」
はぁ、と重たい息を吐きながら、あきくんがなおを見つめる。
「……でも、さ。
それ言ったら、なお逃げるだろ?
もう、逃げられるのは嫌だったんだよ」
握りしめられた手は、指先が白く、小刻みに震えていた。
「ちゃんと、”夫”やってるつもりだったのに……っ」
絞り出すような声のあと、ぽろりと涙が一滴零れた。
「……でも、足りなかったんだよな」
その涙を拭おうと無意識になおが伸ばした手は、優しく、だけどはっきりと払い落とされた。
「……俺、お前が何考えているのか、わからねぇよ」
あきくんの声は、怒っているはずなのに、どこか悲鳴のようにも聞こえた。
払い落とされた手を握りしめる。
視界が揺れたと思ったら、止めどなく涙があふれ出す。
なおの涙を見たあきくんが戸惑いを顔に乗せる。
また逃げられるかもしれないと思ったけれど、衝動を抑えられずにあきくんの胸元にすがった。
今度は払い落とされなかった。
上手く息が吸えない。
「……よか……った……っ!」
荒くなる呼吸を、必死で整えながら絞り出せた言葉。
「……え?」
ほぼ、息に溶けて混ざったような叫びを、それでも正しくあきくんは拾ってくれた。
もう一度、呼吸を整えようとするが、中々上手くいかない。
彼の服を掴んだ手が、震える。
がちゃりと、玄関の開く音がした。
彼の母が帰ってきたのだと、頭では理解していても身体は動かなかった。
あきくんにしがみついて泣いたまま。
リビングの扉が開く。
「……ただいま、って…………なおちゃん?」
返事はできなかったけれど、涙に濡れた表情のまま、彼の母の方を見る。
彼の母の顔色が変わり、あきくんの方を見た。
「……千秋、あなた何やっているの?」
冷たい母の言葉に、あきくんは何も言えずに黙り込む。
修羅場を察したのか、いなくなったはずの冬真が再びリビングへと降りてくる。
「兄貴、なおに逃げられたくなくて必死なんだよ。
重たい男だからさ、普通の女ならびびって逃げるわ」
冬真は軽く言葉にする。
だが、その目は笑っていない。
「なお、兄貴が重くて嫌になったらオレのところにくれば?
少なくとも、なおがどんなに重くても囲ってきてもオレは逃げない」
笑いながらの、冗談交じりの冬真の言葉。
「……冬真。あなた面白がっているでしょう」
彼の母が冬真を窘めようとした瞬間、あきくんの身体が怒りで震えた。
「ふざけんなよ」
低い、呟きの様な声。
しがみついているなおの肩に、守るように左腕が回された。
「……いなく、ならないで……」
小さななおの呟きを、みんなが拾おうとしんとする。
震える声で、なおは続けた。
「……逃げない……から……。
欲しい、のは…………千秋、だけだよ」
それだけ言ったら、また喋れなくなるほどなおの瞳から涙が溢れた。
「……今、それ言うのかよ」
ぽんぽんと慰めるようにあきくんの手が背中に触れる。
それは、俺もだよと伝えてくるような、優しい手だった。
「兄貴、自分の実家で妻泣かすなよ」
冬真の笑い混じりの声が聞こえる。
なおは必死であきくんにしがみついていて、誰の表情も見えなかった。
「そうね、そこは千秋が悪い」
彼の母も乗ってきた。
あきくんは答えられずにただ苦笑いする気配だけした。
「千秋、あなたの部屋でちゃんと二人だけで話してきなさい。
落ち着いたらもう一度降りてきて。
美味しいケーキ、買ってきたから」
彼の母の優しい声が聞こえる。
あきくんは頷いて、なおを連れて二階へと上がっていった。
あきくんの部屋のベッドに、二人並んで座る。
何度も来たことのあるこの部屋は、彼の実家の中で一番落ち着ける場所だった。
零れる涙は中々止まらないけれど、これはもう悲しい涙ではなかった。
「なお」
あきくんの声は、いつもよりも少しだけ固い。
「泣き止んだら、また下に降りよう。
無理に落ち着かせなくていいから、今は思いきり泣け」
なおは無言で彼の言葉に頷く。
その拍子に、また一粒涙が零れた。
肩を抱く腕は、力強くて温かい。
「俺、謝らないから。
本気で怒ったし、本気でお前が欲しい。
だから、無かったことにはしない。
……それでいいよな?」
その言葉に、心から安心した。
涙はまだ止まりそうに無かった。
その後、美味しいケーキを頂いて、しばらくゆっくりした後に日高家を後にした。
彼の母が結婚式の話題を出してきても、なおはもう逃げなかった。
帰り道、まっすぐ前を見て運転するあきくんを見つめるだけで、胸が高鳴った。
お互いにはっきり相手が欲しいと言い合った後だからだろうか。
ハンドルを握る指先に触れたくなって、ぎゅっと自分の膝を握りしめた。
彼に触りたいのに触れないその距離感が、甘くてもどかしかった。