よあけ色のカフェオレ
第一章 よあけ色のカフェオレ
※本作は『たそがれ色のカフェオレ』の続編です。
四年後の物語になりますので、ぜひ前作をお読みになってから、こちらへお進みください。
恋というものは、たいてい傘を忘れた日にやって来る。
ーでは、その恋が、そのまま居ついてしまったら、どうなるのか。
答え。傘立てが、必要になる。
杉原陽菜多、二十四歳。信州松本の小さな出版社に勤めて、二年目の春である。
土曜日の朝、五時十分。松本駅前のバス停に立っているのは、陽菜多のほかには誰もいなかった。四月とはいえ、高原へ向かう始発の空気は、東京の三月よりも冷たい。白い息を吐きながら、陽菜多はリュックの肩紐を握りしめた。中身は、着替えと、月曜締切の校正刷りと、駅前の和菓子屋の豆大福が七つ。六つ買うとひとつおまけがつくので、正確には七つなのである。
バスは四十分かけて、九十九折りの道をのぼっていく。窓の外が、少しずつ、よあけ色になっていく。
たそがれ色と、よあけ色は、絵の具にすればきっと同じ色だ。同じ橙で、同じ薄紫で、同じ金色。なのに、まるで違う。たそがれ色はこれから暗くなる色で、よあけ色はこれから明るくなる色だ。同じ色なのに、なんて不公平なんだろう、と陽菜多は思う。
ーそして私の恋は、たそがれ色から始まって、よあけ色になった。
……なんてことを口に出したら、親友の真弓は「あんた、詩人になったの? それとも寝不足?」と真顔で額に手を伸ばしてくるに違いない。実際、寝不足ではある。
バス停〈高原口〉で降りて、白樺の道を七分。
木の看板が見えてくる。消えかかったペンキではなく、まだ新しい焼き文字で、
〈民宿 すばる荘〉
とある。その下に、小さな板がもう一枚ぶら下がっていて、
〈朝のコーヒー、やってます〉
この二枚目の板を作ったのは、陽菜多だ。会社の先輩に木工の得意な人がいて、頼み込んで焼いてもらった。文字がわずかに右上がりなのは、ご愛敬である。
玄関の引き戸を開けると、コーヒーの匂いが、体当たりしてきた。
「おはようございまー……」
言い終わらないうちに、足首に、灰色の毛玉が体当たりしてきた。
「シリウス! 久しぶりーちょっと、待って、リュック、リュックの中は豆大福で……」
シリウスは陽菜多の言うことなど一切聞かず、床に下ろされたリュックの上に、どっかりと乗った。そして、これは自分のものだ、という顔で目を閉じた。
この猫は、都会の商店街生まれの、高原育ちである。年齢は、たぶん十五歳か、十六歳。人間でいえば、とっくに小暮さんを追い越している。それでも、朝いちばんの客に体当たりするだけの元気は、まだある。
「いらっしゃい」
厨房から、低い声がした。
「お客さんじゃないです」
「じゃあ、おかえり」
小暮修一郎、五十歳。紺のエプロン。少し長めの髪に混じる白いものが、あの店にいたころより、はっきり増えた。カップを拭く手つきは、相変わらず、妙にゆっくりで、丁寧だ。
その手つきを見ると、陽菜多はいまだに、胸の奥の引き出しが小さな音を立てて開くような気がする。三年たっても、そこだけは、少しも慣れない。
「早いね。始発?」
「始発です。だって、朝のコーヒーが飲みたくて」
「うちのコーヒーはね、時間がかかるよ」
「知ってます」
これは、二人の合言葉のようなものだった。
カウンターのーといっても、民宿の食堂の、配膳台を改造しただけのものだがーいちばん端が、陽菜多の指定席である。そこに座ると、リュックを見捨てたシリウスが、ちゃっかり隣の椅子に飛び乗ってきた。
「陽菜多ちゃん、そいつ、最近ずうずうしくてね。朝ごはんのとき、お客さんの膝を順番に回るんだ」
「営業活動ですね」
「給料は払ってないのに、よく働くよ」
やがて出てきたカフェオレは、大ぶりの白いカップに、なみなみと注がれていた。湯気の上には、シナモンの星がふたつ。
ひとくち飲んで、陽菜多は目を細める。
甘い。お砂糖の甘さじゃない。牛乳そのものの、やさしい甘さだ。
この牛乳は、いまは高原の牧場から届く。三軒先の牛乳屋さんは、もうない。あの商店街ごと、なくなってしまったから。
「おはよう、陽菜多さん。あら、また始発?」
佳澄さんが、洗濯かごを抱えて食堂を横切っていく。四十四歳。白いブラウスに、割烹着。この人は、割烹着すら着こなしてしまうのが、ちょっとずるい。
「若い子が土日つぶして山にのぼってくるなんて、うちの義兄、罪深いわねえ」
「佳澄ちゃん」
「あら、事実」
佳澄さんは笑って行ってしまった。この人にだけは、三年たっても敵わない。
厨房の奥では、佳澄さんのお父さんー中原源一郎さん、七十八歳ーが、腰を曲げて味噌汁の鍋をのぞきこんでいる。すばる荘の元・主人である。
「源一郎さん、おはようございます」
「おお、陽菜多さん。今日も泊まってくかい」
「はい、お世話になります」
「泊まってけ泊まってけ。修一郎ひとりだと、この家、しゃべる声がせんでな」
陽菜多は、思わず小暮さんの背中を見た。背中は、聞こえていない振りをしていた。
このやりとりも、もう何度目かわからない。源一郎さんは、決して急かさない。急かさないかわりに、こういうことを、ぽろりと言う。
ーお世話になります、と、私はここで何度言っただろう。
娘でもなく、嫁でもなく、従業員でもなく、お客さんでもない。
三年たっても、陽菜多は、この家での自分の呼び名を、まだ持っていなかった。
小暮さんは、陽菜多を「陽菜多ちゃん」と呼ぶ。陽菜多は、小暮さんを「小暮さん」と呼ぶ。二人は、まだ一度も「恋人」という言葉を使ったことがない。
手をつないだのは、これまでに七回。
ー七回である。陽菜多は数えている。数えていることは、真弓にすら言っていない。二十四歳にもなって三年で七回というのは、たぶん、世間の平均から見ると、絶望的に少ないのだと思う。でも、その七回のことなら、陽菜多は日付も、場所も、気温も、ぜんぶ言える。
朝食の支度が始まると、食堂はにわかに忙しくなる。陽菜多も割烹着を借りて、味噌汁をよそい、卵焼きを並べた。宿泊客は五組。学生のグループと、初老の夫婦と、ひとりで来た大学生ふうの男の子。
みんなが食べ終わって、片づけがひと段落したのは、九時過ぎだった。
小暮さんが、カウンターの上に置いてあった郵便物を、まとめて片づけようとした。
そのとき、封筒が一通、するりと落ちた。
陽菜多は、拾おうとしてー手を止めた。
白い、事務的な封筒。差出人のところに、〈信州中央病院〉と印刷してある。
あの夏の、分厚い封筒を思い出した。〈東邦アーバン開発株式会社〉。あのときも、こんなふうに、カウンターの隅にそっけなく置かれていた。あの封筒が、店をひとつ、この世から消したのだ。
「小暮さん、これー」
「ああ、いいのいいの」
小暮さんは、陽菜多より早く封筒を取り上げて、エプロンのポケットに突っこんだ。妙に、素早かった。
「健康診断の、結果。ほら、去年から市の検診がうるさくてさ」
「……なんて書いてありました?」
「元気だってさ」
「見せてください」
「見せるようなもんじゃないよ。数字が並んでるだけ」
小暮さんは笑って、レコードをーこの家には柱時計だけでなく、あの店のレコードもぜんぶ運んであるーかけ替えに行ってしまった。
かかったのは、ボサノヴァだった。陽菜多が来たときに、かけるやつだ。
カウンターの上で、シリウスが、ゆっくりと片目を開けた。そして、小暮さんの背中と、陽菜多の顔を、順番に見た。
まるで、何か言いたそうに。
「……シリウス」
陽菜多は、小さな声で聞いた。
「あの人、なんか、隠してる?」
猫は答えず、あくびをひとつして、また目を閉じた。
窓の外では、高原の朝が、すっかり明けていた。よあけ色は、もうどこにもない。
四年後の物語になりますので、ぜひ前作をお読みになってから、こちらへお進みください。
恋というものは、たいてい傘を忘れた日にやって来る。
ーでは、その恋が、そのまま居ついてしまったら、どうなるのか。
答え。傘立てが、必要になる。
杉原陽菜多、二十四歳。信州松本の小さな出版社に勤めて、二年目の春である。
土曜日の朝、五時十分。松本駅前のバス停に立っているのは、陽菜多のほかには誰もいなかった。四月とはいえ、高原へ向かう始発の空気は、東京の三月よりも冷たい。白い息を吐きながら、陽菜多はリュックの肩紐を握りしめた。中身は、着替えと、月曜締切の校正刷りと、駅前の和菓子屋の豆大福が七つ。六つ買うとひとつおまけがつくので、正確には七つなのである。
バスは四十分かけて、九十九折りの道をのぼっていく。窓の外が、少しずつ、よあけ色になっていく。
たそがれ色と、よあけ色は、絵の具にすればきっと同じ色だ。同じ橙で、同じ薄紫で、同じ金色。なのに、まるで違う。たそがれ色はこれから暗くなる色で、よあけ色はこれから明るくなる色だ。同じ色なのに、なんて不公平なんだろう、と陽菜多は思う。
ーそして私の恋は、たそがれ色から始まって、よあけ色になった。
……なんてことを口に出したら、親友の真弓は「あんた、詩人になったの? それとも寝不足?」と真顔で額に手を伸ばしてくるに違いない。実際、寝不足ではある。
バス停〈高原口〉で降りて、白樺の道を七分。
木の看板が見えてくる。消えかかったペンキではなく、まだ新しい焼き文字で、
〈民宿 すばる荘〉
とある。その下に、小さな板がもう一枚ぶら下がっていて、
〈朝のコーヒー、やってます〉
この二枚目の板を作ったのは、陽菜多だ。会社の先輩に木工の得意な人がいて、頼み込んで焼いてもらった。文字がわずかに右上がりなのは、ご愛敬である。
玄関の引き戸を開けると、コーヒーの匂いが、体当たりしてきた。
「おはようございまー……」
言い終わらないうちに、足首に、灰色の毛玉が体当たりしてきた。
「シリウス! 久しぶりーちょっと、待って、リュック、リュックの中は豆大福で……」
シリウスは陽菜多の言うことなど一切聞かず、床に下ろされたリュックの上に、どっかりと乗った。そして、これは自分のものだ、という顔で目を閉じた。
この猫は、都会の商店街生まれの、高原育ちである。年齢は、たぶん十五歳か、十六歳。人間でいえば、とっくに小暮さんを追い越している。それでも、朝いちばんの客に体当たりするだけの元気は、まだある。
「いらっしゃい」
厨房から、低い声がした。
「お客さんじゃないです」
「じゃあ、おかえり」
小暮修一郎、五十歳。紺のエプロン。少し長めの髪に混じる白いものが、あの店にいたころより、はっきり増えた。カップを拭く手つきは、相変わらず、妙にゆっくりで、丁寧だ。
その手つきを見ると、陽菜多はいまだに、胸の奥の引き出しが小さな音を立てて開くような気がする。三年たっても、そこだけは、少しも慣れない。
「早いね。始発?」
「始発です。だって、朝のコーヒーが飲みたくて」
「うちのコーヒーはね、時間がかかるよ」
「知ってます」
これは、二人の合言葉のようなものだった。
カウンターのーといっても、民宿の食堂の、配膳台を改造しただけのものだがーいちばん端が、陽菜多の指定席である。そこに座ると、リュックを見捨てたシリウスが、ちゃっかり隣の椅子に飛び乗ってきた。
「陽菜多ちゃん、そいつ、最近ずうずうしくてね。朝ごはんのとき、お客さんの膝を順番に回るんだ」
「営業活動ですね」
「給料は払ってないのに、よく働くよ」
やがて出てきたカフェオレは、大ぶりの白いカップに、なみなみと注がれていた。湯気の上には、シナモンの星がふたつ。
ひとくち飲んで、陽菜多は目を細める。
甘い。お砂糖の甘さじゃない。牛乳そのものの、やさしい甘さだ。
この牛乳は、いまは高原の牧場から届く。三軒先の牛乳屋さんは、もうない。あの商店街ごと、なくなってしまったから。
「おはよう、陽菜多さん。あら、また始発?」
佳澄さんが、洗濯かごを抱えて食堂を横切っていく。四十四歳。白いブラウスに、割烹着。この人は、割烹着すら着こなしてしまうのが、ちょっとずるい。
「若い子が土日つぶして山にのぼってくるなんて、うちの義兄、罪深いわねえ」
「佳澄ちゃん」
「あら、事実」
佳澄さんは笑って行ってしまった。この人にだけは、三年たっても敵わない。
厨房の奥では、佳澄さんのお父さんー中原源一郎さん、七十八歳ーが、腰を曲げて味噌汁の鍋をのぞきこんでいる。すばる荘の元・主人である。
「源一郎さん、おはようございます」
「おお、陽菜多さん。今日も泊まってくかい」
「はい、お世話になります」
「泊まってけ泊まってけ。修一郎ひとりだと、この家、しゃべる声がせんでな」
陽菜多は、思わず小暮さんの背中を見た。背中は、聞こえていない振りをしていた。
このやりとりも、もう何度目かわからない。源一郎さんは、決して急かさない。急かさないかわりに、こういうことを、ぽろりと言う。
ーお世話になります、と、私はここで何度言っただろう。
娘でもなく、嫁でもなく、従業員でもなく、お客さんでもない。
三年たっても、陽菜多は、この家での自分の呼び名を、まだ持っていなかった。
小暮さんは、陽菜多を「陽菜多ちゃん」と呼ぶ。陽菜多は、小暮さんを「小暮さん」と呼ぶ。二人は、まだ一度も「恋人」という言葉を使ったことがない。
手をつないだのは、これまでに七回。
ー七回である。陽菜多は数えている。数えていることは、真弓にすら言っていない。二十四歳にもなって三年で七回というのは、たぶん、世間の平均から見ると、絶望的に少ないのだと思う。でも、その七回のことなら、陽菜多は日付も、場所も、気温も、ぜんぶ言える。
朝食の支度が始まると、食堂はにわかに忙しくなる。陽菜多も割烹着を借りて、味噌汁をよそい、卵焼きを並べた。宿泊客は五組。学生のグループと、初老の夫婦と、ひとりで来た大学生ふうの男の子。
みんなが食べ終わって、片づけがひと段落したのは、九時過ぎだった。
小暮さんが、カウンターの上に置いてあった郵便物を、まとめて片づけようとした。
そのとき、封筒が一通、するりと落ちた。
陽菜多は、拾おうとしてー手を止めた。
白い、事務的な封筒。差出人のところに、〈信州中央病院〉と印刷してある。
あの夏の、分厚い封筒を思い出した。〈東邦アーバン開発株式会社〉。あのときも、こんなふうに、カウンターの隅にそっけなく置かれていた。あの封筒が、店をひとつ、この世から消したのだ。
「小暮さん、これー」
「ああ、いいのいいの」
小暮さんは、陽菜多より早く封筒を取り上げて、エプロンのポケットに突っこんだ。妙に、素早かった。
「健康診断の、結果。ほら、去年から市の検診がうるさくてさ」
「……なんて書いてありました?」
「元気だってさ」
「見せてください」
「見せるようなもんじゃないよ。数字が並んでるだけ」
小暮さんは笑って、レコードをーこの家には柱時計だけでなく、あの店のレコードもぜんぶ運んであるーかけ替えに行ってしまった。
かかったのは、ボサノヴァだった。陽菜多が来たときに、かけるやつだ。
カウンターの上で、シリウスが、ゆっくりと片目を開けた。そして、小暮さんの背中と、陽菜多の顔を、順番に見た。
まるで、何か言いたそうに。
「……シリウス」
陽菜多は、小さな声で聞いた。
「あの人、なんか、隠してる?」
猫は答えず、あくびをひとつして、また目を閉じた。
窓の外では、高原の朝が、すっかり明けていた。よあけ色は、もうどこにもない。
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