よあけ色のカフェオレ

第二章 二十四歳の、傾き

「ーで、あんたたち、三年でそれなの?」
 松本駅前の居酒屋で、小田真弓がハイボールのジョッキを置いた。置いた、というより、叩きつけた。
「え、なにが」
「手。手をつないだ回数」
「言ってないよ、私、そんなこと」
「言ってないけど、顔に書いてある。『七回』って」
 陽菜多は、烏龍茶を吹き出しそうになった。
 真弓は東京の広告代理店に勤めている。今日は名古屋の出張の帰りに、わざわざ松本で途中下車したのだった。恋の相談ごとに関しては、いまだに警察犬なみの嗅覚である。戦歴のほうは、本人いわく「九勝七敗三引き分け、ただし現在ノーゲーム中」。
「あのねえ、陽菜多。三年よ、三年。あんた、二十一から二十四になったの。その間に、あたしの同期は三人結婚して、一人離婚した」
「早いね、その一人」
「話をそらすな」
 真弓は枝豆をひとつ、正確に陽菜多のほうへ弾いた。
「聞くけど。あんた、あの人と、この先どうなりたいの」
 ーどうなりたいの。
 大学二年のときにも、まったく同じことを聞かれた。あのときは学食で、アイスティーで、陽菜多は「理屈で消せる火なら、とっくに消えてるよ」と答えた。我ながら、いい台詞だったと思う。
 でも、いまの陽菜多には、あの台詞は使えない。
 火は、消えていない。消えていないどころか、ちゃんと燃え続けている。問題は、火があるかどうかではなくなった。問題はーその火で、これから何を料理するのか、なのだ。
「……わかんない」
「わかんない?」
「うん。あのね、真弓。私、こわいの」
「なにが」
「幸せなのが、こわい」
 真弓は、ジョッキに伸ばしかけた手を止めた。
「今、すごく幸せなんだよ。土曜の朝にバスに乗って、山にのぼって、コーヒー飲んで、卵焼き並べて、猫にリュック取られて。それで日曜の夜に帰ってくる。それがね、もう、笑っちゃうくらい幸せなの」
「うん」
「でも、この幸せって、たぶん、今しか成立しない形なんだよ。私が二十四で、あの人が五十で、二人とも元気で、週末だけ会うから、きれいなの。これを『ずっと』にしようとしたら、たぶん、形が変わっちゃう。変えたら壊れるかもしれないから、私、変えられないの」
 言ってしまってから、陽菜多は自分でびっくりした。
 こんなにはっきり、言葉になっていたのか。毎晩ベッドの中でぐるぐる回していたものが。
 真弓は、しばらく黙って、それから言った。
「あんたさあ。それ、あの人が言いそうな台詞じゃない?」
 陽菜多は、顔を上げた。
「三年前、あの人が言ったんでしょ。年が違いすぎる、将来を潰す、女房に悪い。ー先回りして、いちばん傷が浅いところで止まろうとするやつ。あんた、うつったのよ」
「…………」
「感染源のそばに三年もいたら、そりゃ、うつるわ」
 真弓は、あきれたように笑った。それから、少しだけ声を落とした。
「でもね、陽菜多。あたし、参謀として言うけど。それ、悪いことばっかりじゃないの。あんた、二十歳のときは、まっすぐで無敵だったのよ。無敵って、要するに、何も知らないってことなの。今のあんたは、知っちゃったの。人が歳を取ることも、店がなくなることも、幸せに形があることも」
「……知らないほうが、よかったのかな」
「まさか」
 真弓は、ハイボールを飲み干した。
「知ってて、それでも選ぶほうが、百倍かっこいいでしょうが」
 その夜、陽菜多はアパートに帰って、カレンダーを見た。
 手をつないだ七回の内訳を、陽菜多は正確に言える。
 一回目は、店の最後の営業日。雪の中、駅まで送ってもらう途中で、滑りそうになった陽菜多を、小暮さんがつかまえた。あれを一回に数えるのは水増しかもしれないと、いまでも少し思う。
 二回目は、引っ越しの日。トラックを見送ったあと、誰もいなくなった店の前で、どちらからともなく。
 三回目から六回目は、長野に来てから。星を見た夜が二回、迷子になりかけた山道で一回、あとの一回はーたいした理由もなく、ただ、つないだ。あの一回が、いちばん好きだ。
 七回目は、去年の秋。すばる荘の裏の畑で、大根を抜いたあと。土だらけの手で。
 ……七回目から、もう半年たっていた。
 陽菜多は、枕に顔を埋めた。
 私は、何を待っているんだろう。
 あの人は、何を待っているんだろう。
 いや、待っているのではない、ということは、うすうすわかっていた。あの人は、待っているのではなくー止まっているのだ。五十歳のブレーキは、二十歳のころ想像していたよりも、ずっと、静かで、ずっと、頑丈だった。
 週が明けて、月曜日。
 陽菜多の勤め先は、信濃文林社という、社員十一人の出版社である。郷土史や、山岳写真集や、地元の食の本を作っている。陽菜多の担当は、いま「信州の古い喫茶店を訪ねる」という連載企画だった。企画を出したとき、編集長の戸倉さんは「杉原さん、あんた私情が入ってるだろう」と言い、それから「入っていいから」と言った。いい会社だと思う。
「杉原さーん、松代の取材、車出しますよ」
 声をかけてきたのは、同期の芦沢渉だった。二十五歳。営業部で、写真も撮れるので、よく取材に駆り出される。背が高くて、笑うと右の頬にだけえくぼができる。社内の女性陣の評価は、たいへん高い。
「ありがとう。助かる」
「そのかわり、帰りに蕎麦」
「安いなあ、芦沢くんは」
 車の中で、芦沢は音楽をかけ、天気の話をし、先週の社内の失敗談で陽菜多を笑わせた。話しやすい人だった。話しやすすぎる、と言ってもいい。
 信号待ちで、彼はふと言った。
「杉原さん、週末、いつも山のほうに行ってるでしょ」
「え。……うん」
「いいなあ。俺、休みの日、家出るの面倒で」
 それだけの会話だった。何ということもない、同期同士の。
 なのに陽菜多は、そのあと三十分ほど、妙に落ち着かなかった。
 ー楽だ、と思ってしまったのだ。
 この人と話すのは、楽だ。年齢も、世間の目も、将来の計算も、何ひとつ必要ない。ただ蕎麦を食べて、天気の話をすればいい。
 そんなことを、一瞬でも思った自分が、陽菜多は許せなかった。
 その週の土曜、いつも通り始発のバスに乗って、いつも通りカフェオレを飲みながら、陽菜多はカウンターの端で小さくなっていた。罪悪感というのは、不思議なもので、何もしていないのにちゃんと重い。
「陽菜多ちゃん、元気ないね」
「……そんなことないです」
「じゃあ、蜂蜜、多めにしとくか」
「してください」
 トーストに、蜂蜜が、いつもの倍かかった。
 シリウスがカウンターに飛び乗ってきて、陽菜多の手の甲を、ざらりと一度、舐めた。
 この猫は、こういうとき、必ず来る。三年前もそうだった。
「……シリウス。私、ちょっとだけ、悪い子だったかも」
 猫は、答えるかわりに、ごろん、と横になって、腹を見せた。
 どうやら、許されたらしい。
 いちばん厳しい審査を通ってしまったので、陽菜多は、それ以上その話を、誰にもしなかった。
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