夫が愛人を連れ込んだので、悪女らしく「円満」離婚いたします
グレースは肩を竦め、それからにやりと、唇の端を妖しく釣り上げた。
「殿下は、お分かりになっていないのですね」
「何をだ」
「甘い夢ほど、覚めた後に待つのは、深い絶望ですわ。夢の中に長くいればいるほど。幸せを得れば得るほど」
「なんだ、あれはいつか解けるのか」
「ええ、もちろん。彼が愛を囁く度に、少しずつ魔力が薄れていく仕組みになっていますの」
そう言って、グレースはにこりと目を細める。
「それでも、半年は持つでしょうけれど」
「随分と愉しげに言うんだな」
「一番の見所は“その時”ではありませんか」
ひょいと眉を跳ねさせ、シエルは労しそうにエルヴィスを一瞥する。けれどその一瞬の横顔に浮かんでいたのは、呆れでも憐れみでもなく、微かな愉悦だった。新しい玩具を見つけた子どものような。
「まあ、“その時”にはもう、あの男の立場は社交界からなくなっているだろうな。今でさえ気狂いと思われているのだから」
ははっ、と軽やかな笑い声をあげながら、シエルは徐に手摺から身体を離す。
「――ところで、グレース」
エルヴィスや、彼の連れた泥人形にはもう興味を失ったのか、唐突に向き直った彼を、グレースは疑問を滲ませながら見上げた。いつ見ても惚れ惚れするほど整った、男らしくも麗しい、類稀な美貌。彼の瞳はまるでサファイアのようだ、と、誰かの例えた言葉がふと脳裏を過ぎり、グレースはその双眸に静かに魅入る。
昔から、この男の真っ直ぐな眼差しは、少しも変わらない。無邪気でありながら、真綿のような包容力も感じさせる、不思議な瞳――。
「離婚したということは、君は今独り身だ。夫も婚約者もいない」
確認するような口調に、グレースは訝りながらも頷く。その返しに満足したのか、シエルは満面の笑みを浮かべると、グレースの右手を掬い上げるようにして持ち上げた。
「ならば、君を本気で口説いても構わない、ということだな」
「えっ」
意表を突かれ、グレースは思わず間抜けな声をこぼす。ぱちり、と大きく目を瞬かせれば、シエルは心底愉快そうに、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「いつもの君に戻ったな」
そう言って、彼は恭しく握ったグレースの指先に、ゆっくりと唇を落とす。ぎょっとして肩を跳ねさせるも、その反応さえシエルの“思う壺”だったのだとすぐに悟り、グレースは諦念に似た溜息を深々と吐き出した。
「さて、まずは一曲、お相手願おうか――グレース」
▽
「ねえ、お聞きになって? 侯爵様のお茶会のこと」
「ええ、存じておりますわ」
「皆さまの前で、“あの方”に口付けをなさったというではありませんの」
「わたくしも耳にいたしました。けれど、驚いたのはその後ですわよ」
「ああ……あれは、今思い出しても胸が痛みますわ」
「あら、思ってもいないことを仰って」
「それはもう、ひどい絶叫でしたもの」
「無理もございませんわ。何しろ、“最愛の妻”だと思い込んでいらした方が、ただの“泥人形”だったと、お気付きになってしまったのですから」
「あれほどドレスや宝石を買い与えていらしたというのに」
「そのせいで、今ではすっかり火の車だとか」
「もう、どうにもなりませんわね。半年前の舞踏会の頃から、既に“気狂い”でいらしたのですもの――」
「それに引き換え、今のグレース様はお幸せそうで何よりですわ」
「ええ。シエル殿下が片時もお離しにならないほどのご寵愛ぶりだとか」
「昔からお慕い申し上げていらしたのは、社交界でも有名でしたものね」
「グレース様ご自身は、ちっともお気付きになっていらっしゃらなかったようですけれど」
「殿下は、お分かりになっていないのですね」
「何をだ」
「甘い夢ほど、覚めた後に待つのは、深い絶望ですわ。夢の中に長くいればいるほど。幸せを得れば得るほど」
「なんだ、あれはいつか解けるのか」
「ええ、もちろん。彼が愛を囁く度に、少しずつ魔力が薄れていく仕組みになっていますの」
そう言って、グレースはにこりと目を細める。
「それでも、半年は持つでしょうけれど」
「随分と愉しげに言うんだな」
「一番の見所は“その時”ではありませんか」
ひょいと眉を跳ねさせ、シエルは労しそうにエルヴィスを一瞥する。けれどその一瞬の横顔に浮かんでいたのは、呆れでも憐れみでもなく、微かな愉悦だった。新しい玩具を見つけた子どものような。
「まあ、“その時”にはもう、あの男の立場は社交界からなくなっているだろうな。今でさえ気狂いと思われているのだから」
ははっ、と軽やかな笑い声をあげながら、シエルは徐に手摺から身体を離す。
「――ところで、グレース」
エルヴィスや、彼の連れた泥人形にはもう興味を失ったのか、唐突に向き直った彼を、グレースは疑問を滲ませながら見上げた。いつ見ても惚れ惚れするほど整った、男らしくも麗しい、類稀な美貌。彼の瞳はまるでサファイアのようだ、と、誰かの例えた言葉がふと脳裏を過ぎり、グレースはその双眸に静かに魅入る。
昔から、この男の真っ直ぐな眼差しは、少しも変わらない。無邪気でありながら、真綿のような包容力も感じさせる、不思議な瞳――。
「離婚したということは、君は今独り身だ。夫も婚約者もいない」
確認するような口調に、グレースは訝りながらも頷く。その返しに満足したのか、シエルは満面の笑みを浮かべると、グレースの右手を掬い上げるようにして持ち上げた。
「ならば、君を本気で口説いても構わない、ということだな」
「えっ」
意表を突かれ、グレースは思わず間抜けな声をこぼす。ぱちり、と大きく目を瞬かせれば、シエルは心底愉快そうに、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「いつもの君に戻ったな」
そう言って、彼は恭しく握ったグレースの指先に、ゆっくりと唇を落とす。ぎょっとして肩を跳ねさせるも、その反応さえシエルの“思う壺”だったのだとすぐに悟り、グレースは諦念に似た溜息を深々と吐き出した。
「さて、まずは一曲、お相手願おうか――グレース」
▽
「ねえ、お聞きになって? 侯爵様のお茶会のこと」
「ええ、存じておりますわ」
「皆さまの前で、“あの方”に口付けをなさったというではありませんの」
「わたくしも耳にいたしました。けれど、驚いたのはその後ですわよ」
「ああ……あれは、今思い出しても胸が痛みますわ」
「あら、思ってもいないことを仰って」
「それはもう、ひどい絶叫でしたもの」
「無理もございませんわ。何しろ、“最愛の妻”だと思い込んでいらした方が、ただの“泥人形”だったと、お気付きになってしまったのですから」
「あれほどドレスや宝石を買い与えていらしたというのに」
「そのせいで、今ではすっかり火の車だとか」
「もう、どうにもなりませんわね。半年前の舞踏会の頃から、既に“気狂い”でいらしたのですもの――」
「それに引き換え、今のグレース様はお幸せそうで何よりですわ」
「ええ。シエル殿下が片時もお離しにならないほどのご寵愛ぶりだとか」
「昔からお慕い申し上げていらしたのは、社交界でも有名でしたものね」
「グレース様ご自身は、ちっともお気付きになっていらっしゃらなかったようですけれど」

