戦闘狂の新妻
一月後。リリーは久しぶりに王都へやってきた。
馬車の向かいに座るオーガストは肩をすくめ、窓の外へ視線を向けている。
「相変わらず人が多いな」
「本当ですよ。みんな苗床になればいいのに」
「相変わらず君は発想が物騒だな……」
苦笑するオーガストは、全身を漆黒の衣装で包んでいた。
マントも、スーツの下のシャツも、ネクタイもすべて黒だった。マントとネクタイには、同じ黒糸で百合の刺繍が施されている。
ただし、胸元のハンカチーフだけはリリーの髪を思わせる銀色で、黒一色の装いの中で美しく輝いていた。
リリーも同じく漆黒のロングドレスをまとっていた。首元からデコルテにかけては繊細な黒のレースで覆われ、腕には艶やかな黒のグローブをはめている。肩に掛けたショールには、オーガストと揃いの百合の刺繍が施されていた。
オーガストが苦笑した直後、馬車がひときわ大きく揺れ、静かに止まった。
御者が扉を開き、オーガストが先に降りた。
「行こうか、マイレディ」
「承知いたしました、マイディア」
差し出された漆黒の手袋の上に、リリーは同じ色のグローブに包まれた手を重ねた。
入口で招待状を差し出すと、高らかにラッパが吹き鳴らされる。
「ドラクル辺境伯ご夫妻、入場でございます」
一斉に視線が集まった。
入口は二階に設けられており、その下の一階には豪奢なダンスホールが広がっている。
無数のシャンデリアが天井からダンスホールへと輝きを降らせていた。
磨き上げられた大理石の床には光が反射し、色とりどりのドレスが花畑のように揺れている。
香水と料理の香りが混ざり合い、甘く重たい空気が広間を満たしていた。
リリーは壁際に集まった貴族令嬢たちが、扇で口元を隠しながらひそひそと囁き合っているのに気づいた。だが、その姿はすぐに前を歩くオーガストの大きな背中に遮られて見えなくなった。
「リリー、足元に気をつけなさい。今日は作業着ではないから」
「ふふ、台無しですわ、旦那様」
リリーはオーガストの腕にそっと掴まり直した。
二人は寄り添いながら、ゆっくりと階段を下りていく。
それは仲の睦まじさを周囲に示すためでもあったが、履き慣れないハイヒールに足を震わせるリリーを支えるためでもあった。
「リリー、やはりもう少し低いヒールがよかったのでは?」
「だ、だいじょうぶです……!」
「大丈夫な震えではないが……まあいい。僕に掴まっていてくれ」
普段は領内を飛び回り、食事と眠る時くらいしかそばにいない妻が自分を頼っているというのは、オーガストにとって悪い気分ではなかった。わずかに口元を緩めながら、リリーの腰を抱き寄せた。
リリーは息を吸って吐いた。
普段は土いじりばかりしているリリーだが、れっきとした伯爵令嬢でもある。
背筋をすっと伸ばして優雅な笑みを浮かべると、オーガストに寄り添いながら挨拶へ向かった。
「よい晩ですね、スミス公爵。この度はお誘いいただきありがとうございます」
「これはこれはドラクル辺境伯。ご無沙汰しております。リリー嬢もずいぶん大きくなって」
「ご無沙汰しております。リリー・ドラクルでございます」
リリーは以前にも父であるブルグマンシア伯爵と共にスミス公爵主催の社交パーティへ参加したことがあり、公爵邸を訪れたこともあった。微笑んで頭を下げた。
「あのブルグマンシア伯爵の後ろに隠れていたリリー嬢が辺境伯夫人とは……長生きはするものですなあ」
「いやですわスミス公爵、完全に発言がおじいちゃんですよ」
「祝儀は弾むからね。式には必ず呼んでくれたまえ。ああ、あと」
スミス公爵がリリーとオーガストに顔を寄せてささやいた。
「ブルグマンシア伯爵夫人もいらしている。リリー嬢、喧嘩してはいけないよ」
「し、しませんよ……」
リリーは頭を下げて、オーガストの腕を引いた。
その後も二人は次々と声をかけられ、挨拶回りに追われた。
貼りつけたような笑顔を維持するのも限界になってきたころ、オーガストがさりげなく壁際へと移動した。
「お疲れ様、リリー。一度休憩としよう」
「す、すみません。体力がなくて」
「足りないのは体力ではなくハイヒールへの慣れだろうに。ここで待っているといい。飲み物をもらってこよう」
リリーはオーガストの背中を見送ってから、ようやく小さく息を吐いた。
しかし常に会場を見回している。
自分と同じ銀髪が目に入るたび肩が強張る。
違う。
また違う。
気づけば、グローブ越しにショールの端を握りしめていた。
ふと若い令息がこちらへ歩み寄ろうとしているのが見えた。
だが途中でオーガストの背中を見つけると、そのまま踵を返して別の令嬢の方へ向かった。
リリーは人混みの向こうのオーガストを目で追った。
給仕から飲み物を受け取り、誰かに呼び止められ、軽く会釈を返している。
ただそれだけなのに、視線を逸らす理由が見つからなかった。
オーガストは常にリリーに寄り添い、他の令息たちから向けられる視線を遮ってくれていた。足が痛むだろうと、自然に体も支えてくれていた。
今も疲れただろうからと、わざわざ飲み物を取りに行ってくれている。
ペンバートンでもオーガストはリリーに辺境伯夫人としての裁量を与え、彼女が何をしようと無闇に口を挟むことはなかった。
人混みの向こうで、オーガストが誰かと談笑している。
リリーは視線を落とした。
オーガストと揃いのユリの刺繍が目に入る。
ふと、婚約の日に交わした言葉が脳裏をよぎった。
リリーはそれを追い払うようにショールを巻き直した。
不意に甘い香水の匂いがした。
リリーの指先がぴくりと震える。
嗅ぎ慣れた香りだった。
「あら、リリーじゃない」
馬車の向かいに座るオーガストは肩をすくめ、窓の外へ視線を向けている。
「相変わらず人が多いな」
「本当ですよ。みんな苗床になればいいのに」
「相変わらず君は発想が物騒だな……」
苦笑するオーガストは、全身を漆黒の衣装で包んでいた。
マントも、スーツの下のシャツも、ネクタイもすべて黒だった。マントとネクタイには、同じ黒糸で百合の刺繍が施されている。
ただし、胸元のハンカチーフだけはリリーの髪を思わせる銀色で、黒一色の装いの中で美しく輝いていた。
リリーも同じく漆黒のロングドレスをまとっていた。首元からデコルテにかけては繊細な黒のレースで覆われ、腕には艶やかな黒のグローブをはめている。肩に掛けたショールには、オーガストと揃いの百合の刺繍が施されていた。
オーガストが苦笑した直後、馬車がひときわ大きく揺れ、静かに止まった。
御者が扉を開き、オーガストが先に降りた。
「行こうか、マイレディ」
「承知いたしました、マイディア」
差し出された漆黒の手袋の上に、リリーは同じ色のグローブに包まれた手を重ねた。
入口で招待状を差し出すと、高らかにラッパが吹き鳴らされる。
「ドラクル辺境伯ご夫妻、入場でございます」
一斉に視線が集まった。
入口は二階に設けられており、その下の一階には豪奢なダンスホールが広がっている。
無数のシャンデリアが天井からダンスホールへと輝きを降らせていた。
磨き上げられた大理石の床には光が反射し、色とりどりのドレスが花畑のように揺れている。
香水と料理の香りが混ざり合い、甘く重たい空気が広間を満たしていた。
リリーは壁際に集まった貴族令嬢たちが、扇で口元を隠しながらひそひそと囁き合っているのに気づいた。だが、その姿はすぐに前を歩くオーガストの大きな背中に遮られて見えなくなった。
「リリー、足元に気をつけなさい。今日は作業着ではないから」
「ふふ、台無しですわ、旦那様」
リリーはオーガストの腕にそっと掴まり直した。
二人は寄り添いながら、ゆっくりと階段を下りていく。
それは仲の睦まじさを周囲に示すためでもあったが、履き慣れないハイヒールに足を震わせるリリーを支えるためでもあった。
「リリー、やはりもう少し低いヒールがよかったのでは?」
「だ、だいじょうぶです……!」
「大丈夫な震えではないが……まあいい。僕に掴まっていてくれ」
普段は領内を飛び回り、食事と眠る時くらいしかそばにいない妻が自分を頼っているというのは、オーガストにとって悪い気分ではなかった。わずかに口元を緩めながら、リリーの腰を抱き寄せた。
リリーは息を吸って吐いた。
普段は土いじりばかりしているリリーだが、れっきとした伯爵令嬢でもある。
背筋をすっと伸ばして優雅な笑みを浮かべると、オーガストに寄り添いながら挨拶へ向かった。
「よい晩ですね、スミス公爵。この度はお誘いいただきありがとうございます」
「これはこれはドラクル辺境伯。ご無沙汰しております。リリー嬢もずいぶん大きくなって」
「ご無沙汰しております。リリー・ドラクルでございます」
リリーは以前にも父であるブルグマンシア伯爵と共にスミス公爵主催の社交パーティへ参加したことがあり、公爵邸を訪れたこともあった。微笑んで頭を下げた。
「あのブルグマンシア伯爵の後ろに隠れていたリリー嬢が辺境伯夫人とは……長生きはするものですなあ」
「いやですわスミス公爵、完全に発言がおじいちゃんですよ」
「祝儀は弾むからね。式には必ず呼んでくれたまえ。ああ、あと」
スミス公爵がリリーとオーガストに顔を寄せてささやいた。
「ブルグマンシア伯爵夫人もいらしている。リリー嬢、喧嘩してはいけないよ」
「し、しませんよ……」
リリーは頭を下げて、オーガストの腕を引いた。
その後も二人は次々と声をかけられ、挨拶回りに追われた。
貼りつけたような笑顔を維持するのも限界になってきたころ、オーガストがさりげなく壁際へと移動した。
「お疲れ様、リリー。一度休憩としよう」
「す、すみません。体力がなくて」
「足りないのは体力ではなくハイヒールへの慣れだろうに。ここで待っているといい。飲み物をもらってこよう」
リリーはオーガストの背中を見送ってから、ようやく小さく息を吐いた。
しかし常に会場を見回している。
自分と同じ銀髪が目に入るたび肩が強張る。
違う。
また違う。
気づけば、グローブ越しにショールの端を握りしめていた。
ふと若い令息がこちらへ歩み寄ろうとしているのが見えた。
だが途中でオーガストの背中を見つけると、そのまま踵を返して別の令嬢の方へ向かった。
リリーは人混みの向こうのオーガストを目で追った。
給仕から飲み物を受け取り、誰かに呼び止められ、軽く会釈を返している。
ただそれだけなのに、視線を逸らす理由が見つからなかった。
オーガストは常にリリーに寄り添い、他の令息たちから向けられる視線を遮ってくれていた。足が痛むだろうと、自然に体も支えてくれていた。
今も疲れただろうからと、わざわざ飲み物を取りに行ってくれている。
ペンバートンでもオーガストはリリーに辺境伯夫人としての裁量を与え、彼女が何をしようと無闇に口を挟むことはなかった。
人混みの向こうで、オーガストが誰かと談笑している。
リリーは視線を落とした。
オーガストと揃いのユリの刺繍が目に入る。
ふと、婚約の日に交わした言葉が脳裏をよぎった。
リリーはそれを追い払うようにショールを巻き直した。
不意に甘い香水の匂いがした。
リリーの指先がぴくりと震える。
嗅ぎ慣れた香りだった。
「あら、リリーじゃない」