燠火(おきび)
プロローグ
午前二時四十分に目が覚める。目覚まし時計は使わない。十九年のあいだ、体が勝手に覚えてしまった。
安西湊は暗い部屋で起き上がり、素足で床板を踏んだ。三月の板の間は氷のようだった。冷たさが足の裏から膝へ、腰へと上がってくる。この冷たさで、頭の芯がひとつ、かちりと目を覚ます。
階段を下りると、店の空気は粉の匂いがした。夜のあいだ、誰もいない部屋で、小麦だけが起きて待っている。窓の外はまだ真っ黒だ。海のほうから風が吹いていて、シャッターの隙間が鳴っていた。
湊はまず、窯の扉を開けた。
石窯の底には、昨日の火の名残がある。灰をそっとかき分けると、その下に赤いものが見えた。炎はとうに消えている。それでも、灰の下では、まだ赤く生きている。
燠火という。
沢渡のじいさんが教えてくれた言葉だ。燃えさかっている火より、こっちのほうが偉いんだぞ、と。炎は派手だが、燠は静かで、そして強い。ひと晩じゅう、誰も見ていないところで、消えずにいる。パンを焼くのは炎じゃない、燠だ。じいさんはそう言って、真っ黒な指で灰をかき分けてみせた。
湊は細く割った薪を三本、燠の上に置いた。しばらくは何も起きない。やがて木の底のほうから、白い煙が細く立ちのぼり、それが揺れて、ふっと橙に変わる。
火がつく瞬間を、湊は毎朝見る。
見ないと一日が始まらない。それは祈りに似ていたが、湊は自分がしていることを祈りだとは思っていなかった。祈るには、祈る相手が必要だ。湊にはそれがない。
粉を計る。水を計る。塩を計る。前の晩に仕込んだ生地は、冷蔵庫の中で静かにふくらんでいる。指を差し込むと、しっとりと押し返してくる。よく眠った生地の手ざわりだ。
四時。仕込みのラジオをつける。ニュースが流れる。どこかで誰かが誰かを殺し、どこかで橋が落ち、どこかで子どもが生まれる。湊は聞くともなく聞きながら、生地を台の上に返す。
打ち粉を振る。指の腹で、生地を四角く広げていく。強く押してはいけない。中に溜まったガスは、生地が自分で抱えている呼吸だ。他人が勝手に押し出していいものではない。
そう教わった。
五時半、最初の一釜が焼き上がる。窯から引き出した鉄板の上で、パンが小さな音を立てる。ぱち、ぱち、と、皮が割れる音だ。これを「歌う」と言う。焼きたてのパンは、冷えていく数分のあいだだけ歌う。じいさんはこの音を聞くために毎朝起きているんだと言っていた。
湊は鉄板を台に置き、少しのあいだ、じっとその音を聞いた。
外がうっすら青くなってきた。
六時五十分、シャッターを上げる。ガラガラという音が、まだ寝ている町に響く。潮の匂いが流れ込んでくる。汐入の朝は、いつも海から来る。
「おはようさん」
最初の客はいつも決まっている。堤防の向こうで漁協に勤めている老人だ。バターロールを四つと、コッペパンを二つ。
「今日は風が強いね」
「そうさな。昼から荒れるって」
それだけの会話。老人は硬貨を置いて、袋を提げて出ていく。
七時を過ぎると、通勤前の人が寄る。七時五十分には、高校生が自転車で滑り込んでくる。早瀬蓮という名前の、痩せた男の子だ。中学に上がった年から、五年通っている。この子はいつも、あんパンを一つだけ買う。百四十円。ときどき小銭が足りなくて、「明日でいい?」と聞く。湊はいつも「いいよ」と言う。翌日、蓮はきちんと持ってくる。
昼までに、パンは半分ほど売れる。夕方までに、たいてい売り切れる。売れ残った日は、湊がそれを夕飯にする。
店の名前は「汐入ベーカリー」という。何のひねりもない。看板を頼んだとき、屋号を聞かれて、五分ほど考えたあげくに町の名前を言った。看板屋は「そりゃあ、いちばん間違いのない名前だ」と言った。
店には、湊のほかに誰もいない。
人を雇ったことは、一度もない。求人を出せば、この町でも二人か三人は来るだろう。だが、雇えば、履歴書を見ることになる。履歴書を見せる側にもなる。湊は、そのどちらもしないと決めていた。
この町に来て六年になる。
町の人は、湊のことを「パン屋のあんちゃん」と呼ぶ。四十歳近い男を、七十過ぎの人たちがそう呼ぶ。悪い気はしない。
誰も、湊の名字を、字で見たことがない。
配達もしないし、名刺も作らない。役所の書類は年に何度か出すが、それは町の人の目には触れない。安西という三文字は、この町では音でしかない。音は、字より軽い。字は残るが、音は消える。
湊は、そのことに助けられて生きている。
困るのは、年に二、三度ある。
漁協の女たちが、湊に縁談を持ってくるのだ。
悪気はまったくない。この町では、独り者の男は放っておかない、ということになっている。相手はたいてい、隣町の食堂の娘だとか、木更津に出ている姪だとか、そういう人だ。
「あんちゃん、いくつだっけ」
「三十七です」
「じゃあ、ぎりぎりだね」
「なにがですか」
「なにがって、あんた」
女たちは笑う。
湊は、そのたびに同じ断り方をする。
「朝が早いので」
これは嘘ではない。午前二時四十分に起きる男と、生活を合わせられる人はそう多くない。
だが、本当の理由ではなかった。
誰かと暮らすということは、その人に自分の戸籍を見せるということだ。
婚姻届には、本籍を書く欄がある。
安西という三文字が、そこで初めて、字になる。
字になったものは、残る。相手の親が見る。相手の親の親戚が見る。役所の人が見る。そして誰かが、その名前をどこかで聞いたことがあると思い出す。
湊は、一度それを経験している。
自分ではなく、妹が。
だから断る。朝が早いので、と言って断る。
女たちは「もったいないねえ」と言って帰っていく。
もったいないのは、たぶん、湊のほうではない。
この家には、写真が一枚もない。
アルバムを持って出なかったわけではない。持って出られなかったのだ。二十二年前、家を出るとき、母は迷った末に写真を一枚も持たなかった。
――写真があると、見ちゃうから。
母はそう言った。
湊は、母が死んだあと、遺品の中にそれを一枚だけ見つけた。
父の写ったものではない。四人で写ったものでもない。
茜が幼稚園のときの、母と茜の二人だけの写真だった。
その一枚を、母は二十年、財布の内側に入れて持っていた。
湊は、それを四畳半の箱の中にしまってある。
飾ってはいない。
店の二階は、六畳と四畳半だ。
六畳に布団を敷いて寝る。四畳半には、ほとんど何も置いていない。押し入れの上の段に、白い布に包まれた壺が一つある。その隣に、菓子の空き箱が一つと、輪ゴムで括った便箋の束が積んである。
湊は、四畳半の襖を、ふだんは閉めている。
開けるのは、月に一度か二度だ。
特別なことは何も起きない。
十九年、湊はそういう朝を、積み重ねてきた。
その日は、三月の終わりだった。
海風が生ぬるくなって、堤防の桜がひとつ、ふたつと咲きはじめていた。夕方の四時過ぎ、湊が店の掃除をしていると、ガラス戸の向こうに人が立っているのが見えた。
女だった。
紺色のコートを着て、両手を体の前で組んで、店の看板を見上げていた。買い物客のように棚を覗くわけでもなく、通りすがりのように歩き去るわけでもない。ただ、そこに立っていた。もうずいぶん長いあいだ、そうしていたのかもしれない。
湊は箒を持ったまま動けなくなった。
顔は覚えている。忘れられるはずがない。
十三年前、東京の裏通りの小さなパン屋で、湊はその顔を初めて間近に見た。その日から五年半、湊はその人の隣にいた。そして七年前、その人は湊に向かって、たった一言だけを残して背中を向けた。
――あなたの償いに、私の人生を使わないで。
女はゆっくりと視線を下ろし、ガラス越しに湊を見た。
目が合った。
逃げなかった。逃げるという選択肢は、もうずっと前に、湊の中から消えていた。湊は箒を壁に立てかけ、両手を前掛けで拭いて、扉に向かって歩いた。
からん、と鈴が鳴る。
三月の風が入ってくる。潮と、桜と、遠くの誰かの家の夕飯の匂い。
戸倉更紗は、湊の顔を正面から見た。七年前より少し痩せて、目の下に薄い影があった。彼女は口を開くまでに、三度、呼吸をした。
「安西さん」
この町で本当の名前を呼ばれたのは初めてだ、と湊は思った。
「パンを、ください」
湊は棚を振り返った。夕方の棚には、あんパンが二つと、田舎パンの半分だけが残っていた。
「……あんパンなら、あります」
「じゃあ、それを」
更紗はバッグから財布を出そうとして、途中で手を止めた。そして、言った。
「あなたのお父さんが、亡くなったと聞きました」
湊は答えられなかった。
「一年、考えました」
彼女の声はふるえていなかった。ふるえていないことが、かえって怖かった。
「考えて、それでもわからなかったので、来ました」
窯のほうで、薪がひとつ、崩れる音がした。
灰の下で、まだ火が生きている音だった。
安西湊は暗い部屋で起き上がり、素足で床板を踏んだ。三月の板の間は氷のようだった。冷たさが足の裏から膝へ、腰へと上がってくる。この冷たさで、頭の芯がひとつ、かちりと目を覚ます。
階段を下りると、店の空気は粉の匂いがした。夜のあいだ、誰もいない部屋で、小麦だけが起きて待っている。窓の外はまだ真っ黒だ。海のほうから風が吹いていて、シャッターの隙間が鳴っていた。
湊はまず、窯の扉を開けた。
石窯の底には、昨日の火の名残がある。灰をそっとかき分けると、その下に赤いものが見えた。炎はとうに消えている。それでも、灰の下では、まだ赤く生きている。
燠火という。
沢渡のじいさんが教えてくれた言葉だ。燃えさかっている火より、こっちのほうが偉いんだぞ、と。炎は派手だが、燠は静かで、そして強い。ひと晩じゅう、誰も見ていないところで、消えずにいる。パンを焼くのは炎じゃない、燠だ。じいさんはそう言って、真っ黒な指で灰をかき分けてみせた。
湊は細く割った薪を三本、燠の上に置いた。しばらくは何も起きない。やがて木の底のほうから、白い煙が細く立ちのぼり、それが揺れて、ふっと橙に変わる。
火がつく瞬間を、湊は毎朝見る。
見ないと一日が始まらない。それは祈りに似ていたが、湊は自分がしていることを祈りだとは思っていなかった。祈るには、祈る相手が必要だ。湊にはそれがない。
粉を計る。水を計る。塩を計る。前の晩に仕込んだ生地は、冷蔵庫の中で静かにふくらんでいる。指を差し込むと、しっとりと押し返してくる。よく眠った生地の手ざわりだ。
四時。仕込みのラジオをつける。ニュースが流れる。どこかで誰かが誰かを殺し、どこかで橋が落ち、どこかで子どもが生まれる。湊は聞くともなく聞きながら、生地を台の上に返す。
打ち粉を振る。指の腹で、生地を四角く広げていく。強く押してはいけない。中に溜まったガスは、生地が自分で抱えている呼吸だ。他人が勝手に押し出していいものではない。
そう教わった。
五時半、最初の一釜が焼き上がる。窯から引き出した鉄板の上で、パンが小さな音を立てる。ぱち、ぱち、と、皮が割れる音だ。これを「歌う」と言う。焼きたてのパンは、冷えていく数分のあいだだけ歌う。じいさんはこの音を聞くために毎朝起きているんだと言っていた。
湊は鉄板を台に置き、少しのあいだ、じっとその音を聞いた。
外がうっすら青くなってきた。
六時五十分、シャッターを上げる。ガラガラという音が、まだ寝ている町に響く。潮の匂いが流れ込んでくる。汐入の朝は、いつも海から来る。
「おはようさん」
最初の客はいつも決まっている。堤防の向こうで漁協に勤めている老人だ。バターロールを四つと、コッペパンを二つ。
「今日は風が強いね」
「そうさな。昼から荒れるって」
それだけの会話。老人は硬貨を置いて、袋を提げて出ていく。
七時を過ぎると、通勤前の人が寄る。七時五十分には、高校生が自転車で滑り込んでくる。早瀬蓮という名前の、痩せた男の子だ。中学に上がった年から、五年通っている。この子はいつも、あんパンを一つだけ買う。百四十円。ときどき小銭が足りなくて、「明日でいい?」と聞く。湊はいつも「いいよ」と言う。翌日、蓮はきちんと持ってくる。
昼までに、パンは半分ほど売れる。夕方までに、たいてい売り切れる。売れ残った日は、湊がそれを夕飯にする。
店の名前は「汐入ベーカリー」という。何のひねりもない。看板を頼んだとき、屋号を聞かれて、五分ほど考えたあげくに町の名前を言った。看板屋は「そりゃあ、いちばん間違いのない名前だ」と言った。
店には、湊のほかに誰もいない。
人を雇ったことは、一度もない。求人を出せば、この町でも二人か三人は来るだろう。だが、雇えば、履歴書を見ることになる。履歴書を見せる側にもなる。湊は、そのどちらもしないと決めていた。
この町に来て六年になる。
町の人は、湊のことを「パン屋のあんちゃん」と呼ぶ。四十歳近い男を、七十過ぎの人たちがそう呼ぶ。悪い気はしない。
誰も、湊の名字を、字で見たことがない。
配達もしないし、名刺も作らない。役所の書類は年に何度か出すが、それは町の人の目には触れない。安西という三文字は、この町では音でしかない。音は、字より軽い。字は残るが、音は消える。
湊は、そのことに助けられて生きている。
困るのは、年に二、三度ある。
漁協の女たちが、湊に縁談を持ってくるのだ。
悪気はまったくない。この町では、独り者の男は放っておかない、ということになっている。相手はたいてい、隣町の食堂の娘だとか、木更津に出ている姪だとか、そういう人だ。
「あんちゃん、いくつだっけ」
「三十七です」
「じゃあ、ぎりぎりだね」
「なにがですか」
「なにがって、あんた」
女たちは笑う。
湊は、そのたびに同じ断り方をする。
「朝が早いので」
これは嘘ではない。午前二時四十分に起きる男と、生活を合わせられる人はそう多くない。
だが、本当の理由ではなかった。
誰かと暮らすということは、その人に自分の戸籍を見せるということだ。
婚姻届には、本籍を書く欄がある。
安西という三文字が、そこで初めて、字になる。
字になったものは、残る。相手の親が見る。相手の親の親戚が見る。役所の人が見る。そして誰かが、その名前をどこかで聞いたことがあると思い出す。
湊は、一度それを経験している。
自分ではなく、妹が。
だから断る。朝が早いので、と言って断る。
女たちは「もったいないねえ」と言って帰っていく。
もったいないのは、たぶん、湊のほうではない。
この家には、写真が一枚もない。
アルバムを持って出なかったわけではない。持って出られなかったのだ。二十二年前、家を出るとき、母は迷った末に写真を一枚も持たなかった。
――写真があると、見ちゃうから。
母はそう言った。
湊は、母が死んだあと、遺品の中にそれを一枚だけ見つけた。
父の写ったものではない。四人で写ったものでもない。
茜が幼稚園のときの、母と茜の二人だけの写真だった。
その一枚を、母は二十年、財布の内側に入れて持っていた。
湊は、それを四畳半の箱の中にしまってある。
飾ってはいない。
店の二階は、六畳と四畳半だ。
六畳に布団を敷いて寝る。四畳半には、ほとんど何も置いていない。押し入れの上の段に、白い布に包まれた壺が一つある。その隣に、菓子の空き箱が一つと、輪ゴムで括った便箋の束が積んである。
湊は、四畳半の襖を、ふだんは閉めている。
開けるのは、月に一度か二度だ。
特別なことは何も起きない。
十九年、湊はそういう朝を、積み重ねてきた。
その日は、三月の終わりだった。
海風が生ぬるくなって、堤防の桜がひとつ、ふたつと咲きはじめていた。夕方の四時過ぎ、湊が店の掃除をしていると、ガラス戸の向こうに人が立っているのが見えた。
女だった。
紺色のコートを着て、両手を体の前で組んで、店の看板を見上げていた。買い物客のように棚を覗くわけでもなく、通りすがりのように歩き去るわけでもない。ただ、そこに立っていた。もうずいぶん長いあいだ、そうしていたのかもしれない。
湊は箒を持ったまま動けなくなった。
顔は覚えている。忘れられるはずがない。
十三年前、東京の裏通りの小さなパン屋で、湊はその顔を初めて間近に見た。その日から五年半、湊はその人の隣にいた。そして七年前、その人は湊に向かって、たった一言だけを残して背中を向けた。
――あなたの償いに、私の人生を使わないで。
女はゆっくりと視線を下ろし、ガラス越しに湊を見た。
目が合った。
逃げなかった。逃げるという選択肢は、もうずっと前に、湊の中から消えていた。湊は箒を壁に立てかけ、両手を前掛けで拭いて、扉に向かって歩いた。
からん、と鈴が鳴る。
三月の風が入ってくる。潮と、桜と、遠くの誰かの家の夕飯の匂い。
戸倉更紗は、湊の顔を正面から見た。七年前より少し痩せて、目の下に薄い影があった。彼女は口を開くまでに、三度、呼吸をした。
「安西さん」
この町で本当の名前を呼ばれたのは初めてだ、と湊は思った。
「パンを、ください」
湊は棚を振り返った。夕方の棚には、あんパンが二つと、田舎パンの半分だけが残っていた。
「……あんパンなら、あります」
「じゃあ、それを」
更紗はバッグから財布を出そうとして、途中で手を止めた。そして、言った。
「あなたのお父さんが、亡くなったと聞きました」
湊は答えられなかった。
「一年、考えました」
彼女の声はふるえていなかった。ふるえていないことが、かえって怖かった。
「考えて、それでもわからなかったので、来ました」
窯のほうで、薪がひとつ、崩れる音がした。
灰の下で、まだ火が生きている音だった。