燠火(おきび)

第一章 十二月十四日

 群馬県柏尾市は、鉄の町だった。
 利根川の支流沿いに、屋根の低い工場がびっしりと並んでいる。プレス機の音、旋盤の削り音、鉄と鉄がぶつかる高い音。町を歩けば、どこかで必ず金属を叩く音がした。空気には、いつもうっすらと油の匂いがまじっていた。
 安西湊は、その匂いの中で育った。
 父の邦夫は、柏尾鉄工という会社の旋盤工だった。従業員が二十人ほどの、町ではそこそこ大きいほうの工場だ。父は十七で入って、そのまま三十年近く、同じ機械の前に立っている。
 父の手は、湊の知るかぎり、いちばん大きな手だった。
 指の腹が四角く硬くなっていて、爪のあいだには黒い線が入っている。石鹸で洗っても取れない、鉄の粉と油が皮膚に染み込んだ線だ。湊が小さいころ、その手で頭を撫でられると、ざらざらして少し痛かった。でも嫌ではなかった。
 父は無口だった。
 家に帰ってきて、まず洗面所で手を洗う。それから風呂に入り、飯を食い、テレビをつけて野球を見て、九時半には寝る。一日にしゃべる言葉は、多い日でも三十くらいだったろうと湊は思う。
 その代わり、父はものを作った。
 湊が六つのとき、父は工場の端材で独楽をこしらえてきた。真鍮の、親指の先ほどの小さな独楽だ。軸が細く、胴が少しだけ膨らんでいて、指でひねると信じられないほど長く回った。板の間で回すと、二分近く止まらなかった。
「なんで、こんなに回るの」
「重心が真ん中にあるからだ」
 父は言った。
「ずれてると、すぐ倒れる」
 それだけだった。父はそれ以上何も説明せず、風呂に入っていった。湊はその独楽が好きで、学校に持っていってみんなに自慢した。中学に上がってからも、机の引き出しの奥にずっと入れてあった。
 母の佳代子は、父とは正反対によくしゃべる人だった。
 スーパーのレジのパートに出ていて、帰ってくると近所の噂を延々と話した。父はほとんど返事をしなかったが、母はそれで満足しているようだった。
 妹の茜は、湊より七つ下だ。事件のあった年、小学二年生だった。母に似てよくしゃべり、よく笑い、そしてピアノを習っていた。
 ピアノ教室は、駅の南口から歩いて十分の、白い壁の家にあった。
 戸倉ピアノ教室、という小さな看板が門に掛かっていた。
 先生は戸倉真弓という、四十過ぎの穏やかな女の人だった。茜はその先生が大好きで、金曜の夕方になるとスキップして出かけていった。湊も何度か、母に頼まれて茜を迎えに行ったことがある。門の前で待っていると、中から下手くそなピアノの音と、先生の笑い声が聞こえてきた。
 その家には、娘が二人いた。
 上の子は湊より五つ下で、下の子は茜のひとつ下だった。湊が門の前に立っていると、下の子のほうがときどき窓から顔を出して、「あかねちゃんのおにいちゃん?」と聞いた。
 名前は、あとになって新聞で知った。
 更紗と、詩織。
 二〇〇三年の秋、家の空気が変わった。
 最初に気づいたのは、父が酒を飲むようになったことだ。それまで父は、正月と盆に一本ずつ缶ビールを飲むくらいだった。それが九月の終わりごろから、毎晩、台所で焼酎を飲むようになった。
 テレビもつけず、電気も点けず、暗い台所で、湯呑みで焼酎を飲んでいた。
 九月に、工場で事故があった。
 湊がそれを知ったのは、母が電話で誰かと話しているのを聞いたからだ。本間さんが大変なことになった、と母は言っていた。
 本間保。父の同期で、いちばん古い友達だった。
 湊にとっては「本間のおじさん」だった。父とは正反対によく笑う人で、正月に来ると必ず湊と茜に千円札をくれた。奥さんを早くに亡くして、男手ひとつで息子を育てていた。息子の涼という人は、当時十九で、東京の専門学校に行っていたはずだ。
 その本間のおじさんが、プレス機に右手を挟まれた。
 手首から先を、失った。
 その年の八月、本間のおじさんは家に来た。
 事故の一か月前だ。
 盆の休みで、父と二人、庭に椅子を出して、缶ビールを飲んでいた。母が素麺を茹でて、大きなガラスの鉢で出した。
 湊も茜も、縁側に座って食べた。
「湊くん、受験だってな」
「はい」
「どこ受けるんだ」
「県立の、柏尾東です」
「おお、頭いいな」
「普通です」
「普通じゃねえよ。なあ、邦夫」
 父は「うん」とだけ言った。
 本間のおじさんは笑った。
「こいつはな、湊くん。おまえの点数が返ってくるたびに、休憩時間におれに見せてくるんだぞ」
 湊は驚いて、父の顔を見た。
 父は素麺をすすっていた。
「見せてねえ」
「見せてるだろ。財布に入れてるじゃねえか」
「入れてない」
「入れてるよ。この前、落として拾ったのおれだぞ」
 母が台所で笑った。
 茜が「おとうさん、へんなの」と言った。
 父は何も言わずに、素麺の汁を飲んだ。
 夕方、本間のおじさんが帰るとき、湊は門まで送った。
 おじさんは自転車にまたがって、片手でハンドルを持ちながら言った。
「湊くん。父ちゃんはな、あんまりしゃべらんけど、いい男だぞ」
「はい」
「工場でな、若いのが機械にはさまれそうになると、いちばん先に飛んでいくのはあの人だ」
 おじさんは笑って、ペダルを踏んだ。
「あの人は、人が痛いのが、我慢できねえんだ」
 その一か月後、機械に挟まれたのは、本間のおじさん自身だった。
 そして父は、飛んでいって、そのあと、判を押した。
 湊がその話の意味を全部わかるまでに、二十一年かかった。
 葬式は十一月の終わりだった。
 本間のおじさんは、自分の家の納屋で首を吊った。
 通夜の日、父は喪服を着て出かけていき、朝方まで帰ってこなかった。帰ってきた父は、玄関で靴も脱がずに座り込んでいた。母が声をかけても返事をしなかった。
 湊は、二階の階段の途中から、それを見ていた。
 父の背中が、丸まっていた。あんなに大きかった父の背中が、その夜だけは、ずいぶん小さく見えた。
 母が寝室に戻ったあと、湊は階段を下りた。
 父はまだ玄関に座っていた。
 湊は、何と声をかければいいのかわからなかった。
 台所に行って、コップに水を汲んで、それを父の横に置いた。
 父は、その水を見た。
 しばらくして、湊のほうを向かずに言った。
「湊」
「うん」
「人がな」
 父の声は、ひどく低かった。
「人が困ってるときに、黙ってるってのはな」
 そこで言葉が切れた。
 父は続きを言わなかった。
 湊は、その続きを待った。三分ほど待って、父が言わないので、二階に上がった。
 あとになって、湊は何度もその夜のことを考えた。
 あのとき父は、何と言おうとしたのか。
 黙っているのは、罪だ、と言おうとしたのか。
 黙っていることしかできなかった、と言おうとしたのか。
 どちらだったのか、湊は最後まで知らない。
 朝、玄関を見ると、コップは空になっていた。
 告別式には、湊も行った。
 母が「あんたも来なさい」と言ったからだ。学校を休んで、中学の制服を着て、父と母と三人で出かけた。茜は近所に預けた。
 本間の家は、町の東のはずれにあった。古い平屋で、庭に自転車が三台置いてあった。全部、おじさんのものだった。通勤用と、買い物用と、もう一台は何のためのものか、湊は知らない。
 人は、思ったより少なかった。
 工場からは、十人ほど来ていた。作業着から喪服に着替えてきた人たちで、髪に油の匂いが残っていた。
 社長の戸倉剛造も来ていた。
 いちばん前に座って、いちばん長く手を合わせて、いちばん早く帰った。帰り際、玄関で誰かに何か言って、笑った。声は聞こえなかったが、笑ったのは見えた。
 父は、それをじっと見ていた。
 湊は、父の横顔を見ていた。
 喪主の席に、若い男が座っていた。
 黒いスーツが体に合っていなかった。肩が余っていて、袖が長かった。たぶん、借りたものだ。
 髪を短くして、痩せていて、顔はおじさんに似ていなかった。
 本間涼だった。
 十九だと聞いていたが、もっと若く見えた。というより、年齢がわからなかった。座り方が、子どもの座り方だった。膝を揃えて、背中を丸めて、両手を膝の上に置いて、ずっと下を向いていた。
 焼香のとき、湊はその人の前を通った。
 涼が顔を上げた。
 目が合った。
 湊は、頭を下げた。
 涼も、下げた。
 それだけだった。二人は一言も交わさなかった。
 あとで湊は、母から聞いた。
 涼は専門学校を辞めて、柏尾に帰ってくることになったのだと。学費が払えなくなったのだと。
「あの子、これからどうするんだろうね」
 母は帰りの車の中で言った。
 父は運転席で、前を見たまま、何も答えなかった。
 湊は後部座席から、父の後頭部を見ていた。
 白いものが、耳の上のあたりに、何本か混じっていた。
 この十九年後、湊はもう一度、本間涼と目を合わせることになる。
 千葉の海のそばの、小さなパン屋の店先で。
 そのとき、湊はこの日の焼香のことを思い出す。
 黒いスーツの肩が余っていたことを。
 あの日、湊が頭を下げて、涼も頭を下げたことを。
 あの一秒のあいだ、二人はまだ、ただの他人だった。
 湊は中学三年で、受験を控えていた。
 成績は真ん中より少し上で、市内の県立高校を志望していた。担任からは「まあ、行けるだろう」と言われていた。将来やりたいことは、特になかった。父のように工場で働くのかな、とぼんやり思っていた。それが嫌だとも思っていなかった。
 十二月に入って、父は工場を休むようになった。
 朝、いつもの時間に起きて、いつものように作業着を着て、けれど出ていかない。玄関でしばらく座って、それから作業着を脱いで、二階に上がっていく。
 母がそのことで父を責めた。
 十二月十二日の夜だった。湊は自分の部屋で参考書を開いていたが、下の言い争いが筒抜けだった。
「行かないなら行かないで、はっきりしてよ。会社に電話くらいしなさいよ」
 父は何も言わなかった。
「本間さんのことは、気の毒だと思うよ。でも、うちだって生活があるんだよ。湊の受験だってあるんだよ」
「……知ってる」
 父の声は、低くて、掠れていた。
「知ってるなら、行ってよ」
 長い沈黙のあと、父が言った。
「戸倉さんはな」
「え?」
「あの人はな、本間の手が飛んだとき、真っ先に何を言ったと思う」
 母は答えなかった。
「機械を止めるな、って言ったんだ」
 湊は参考書のページに目を落としたまま、動けなくなった。
「本間が血を噴いて転がってるのに、あの人は、機械を止めるなって言った。納期がある、って」
「……」
「労災にすると保険料が上がるから、本人の不注意にしてくれと。そう言われた。おれは、判を押した。二十人の目の前で、おれが押したんだ」
 父の声は、泣いてはいなかった。泣いていないのが、なおさら悪かった。
「本間はそのあと、何も言わなかった。おれにも、誰にも。ただ、金がないって、それだけ言った」
 母が何か言いかけて、やめた。
 そのあと、家の中には、水道の蛇口から水が一滴落ちる音しか聞こえなくなった。
 十二月十四日は、日曜日だった。
 朝、父は起きてこなかった。母は茜を連れてスーパーへ買い物に出かけた。湊は模擬試験の見直しをしていた。
 昼過ぎ、父が階段を下りてきた。
 作業着を着ていた。休みの日に作業着を着るのは、湊の記憶では初めてだった。
「父さん、仕事?」
 湊が聞くと、父は立ち止まって、しばらく息子の顔を見た。
 目が赤かった。
 それから、父は湊の机の上を見た。参考書と、シャープペンシルと、消しゴムの屑。父の視線は、そこから引き出しのほうへ移った。開いた引き出しの隅に、真鍮の独楽が転がっていた。
「まだ持ってたのか」
「うん」
 父はうなずいた。それだけだった。何か言おうとして、口を開いて、けれど何も出てこなかったようだった。
「湊」
「なに」
「……高校、行けよ」
「行くよ」
「そうか」
 父は部屋を出ていった。
 それが、湊が最後に見た、罪を犯す前の父だった。
 夜、父は帰ってこなかった。
 母は何度か時計を見て、それからため息をついて、先に寝てしまった。湊は十一時まで勉強して、布団に入った。
 サイレンで目が覚めた。
 最初は遠くで鳴っていた。それが増えて、近づいて、家の壁を揺らすほどになった。湊は飛び起きて、カーテンを開けた。
 北の空が、赤かった。
 真っ赤というのではない。もっと汚い、オレンジと黒が混ざったような色だ。その色が、雲の底を舐めるように広がっていた。
 柏尾鉄工の方角だった。
「湊、湊!」
 母が階段を駆け上がってきた。寝間着のままだった。
「父さんは。父さん、帰ってきた?」
「知らない」
 二人で外に出た。町じゅうの人が同じことをしていた。みんなパジャマの上にコートを羽織って、北の空を見上げていた。誰かが「柏尾鉄工だ」と言った。誰かが「社長んちも燃えてる」と言った。
 湊はその言葉の意味を、そのときはまだ、うまく飲み込めなかった。
 社長の家は、工場の敷地の北側に、渡り廊下でつながるように建っていた。
 白い壁の、門にピアノ教室の看板が掛かった家だ。
 茜が、玄関から出てきた。
 パジャマの上に湊のパーカーを着て、裸足のまま、赤い空を見上げていた。
「おかあさん。あれ、なに」
 母は答えなかった。
「ねえ、あれ、せんせいのおうちのほう?」
 その瞬間の茜の顔を、湊は一生忘れない。
 八歳の子どもの顔から、色が抜けていくのを、湊は初めて見た。
 その夜、父は帰ってこなかった。
 翌朝、警察が来た。
 二人だった。若いほうが玄関に立ち、年配のほうが土間に上がってきた。母は何度も「はい」「はい」と言った。父の勤め先を聞かれ、昨夜の行動を聞かれ、最近の様子を聞かれた。
 湊は学校に行った。
 行かないという選択肢が思いつかなかったからだ。
 教室は火事の話で持ちきりだった。三人死んだらしい、と誰かが言った。社長と、奥さんと、下の女の子だと。上の女の子は、おばあちゃんの家に泊まっていて助かったらしい。
「不幸中の幸いだよな」
 クラスの誰かがそう言った。
 湊はその言葉を、机に突っ伏したまま聞いていた。
 その日の夕方には、もう噂が回りはじめていた。
 放火らしい。社長は殴られていたらしい。工場の人間が疑われているらしい。
 湊は家に帰った。家の前に、見たことのない車が二台停まっていた。
 母は台所に座っていた。茜は二階でずっと布団をかぶっていた。
 十二月十六日の朝、父が逮捕された。
 湊はテレビでそれを知った。
 柏尾鉄工の従業員、安西邦夫容疑者、四十六歳。
 その名前が画面の下のほうに出た瞬間、母がリモコンを取り落とした。プラスチックが床を叩く音がやけに大きく響いた。
 テレビの中で、アナウンサーが淡々と読み上げていた。
 安西容疑者は十四日深夜、勤務先の柏尾鉄工工場内で、社長の戸倉剛造さん、五十七歳の頭部を鉄製の棒で殴打して殺害。その後、工場内の油に火を放ち、隣接する社長宅に延焼、二階で就寝中だった妻の真弓さん、四十二歳と、次女で小学一年生の詩織ちゃん、七歳が焼死した。
 安西容疑者は現場から徒歩で立ち去り、二日後、隣県の駅のベンチで確保された。
 抵抗はしなかった。
 容疑を認めている。
「うそ」
 母が言った。
「うそ」
 もう一度言った。
 誰にも聞こえないくらい、小さな声だった。
 湊は台所の椅子から立ち上がって、二階に上がった。
 茜の部屋のドアを開けると、茜は布団の中で膝を抱えていた。八歳の背中が、ふるえていた。
 湊は何と言えばいいのかわからなかった。
 だから、何も言わずに、その隣に座った。
 どれくらいそうしていたか、覚えていない。
 やがて茜が、布団の中から、くぐもった声で言った。
「おにいちゃん」
「うん」
「しおりちゃん、こんど、はっぴょうかいだったの」
「……そう」
「メリーさんのひつじ、ひくって」
 茜はそれきり、何も言わなかった。
 窓の外で、鉄を叩く音がしていた。町じゅうの工場が、いつもと同じように動いていた。人が三人死んでも、朝が来れば機械は回る。世界はそういうふうにできている。
 湊は自分の部屋に戻って、引き出しを開けた。
 真鍮の独楽が、隅に転がっていた。
 湊はそれを指でつまんで、机の上でひねった。
 独楽は回った。
 きれいに、まっすぐ、いつまでも倒れずに回りつづけた。父が言ったとおりだった。重心が、真ん中にあるからだ。ずれていれば、すぐ倒れる。
 湊はそれを見ているうちに、急に吐き気がして、洗面所に走った。
 何も出なかった。
 鏡の中に、自分の顔があった。
 父に似た、四角い顎の、無愛想な顔だった。
 その日から、湊は自分の顔が嫌いになった。
< 2 / 14 >

この作品をシェア

pagetop