氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
食後、ソファでテレビをつけると、昨日と同じ時間に同じ動物番組がやっていた。
今日は北海道の牧場で、犬が羊を追いかけている。
隣では、腕を組んだ柳井副社長がまた真顔で画面を見ている。その口元から、ぼそっと何かが聞こえた気がした。
……この人、ひょっとしなくても……
「副社長……」
「なんだ」
「いま『かわいい』って言いました?」
「言ってない」
「聞こえました」
「熱で幻聴でも聞こえたんだろう」
「じゃあ、そういうことにして、今から聞こえるのもきっと幻聴ですよ?」
番組の中で子羊が転ぶと、彼の眉がわずかに動いた。
「……実家に、猫がいた」
ひどく何気ない調子だったけれど、この人が自分の話をするのは初めてだった。
「拾ってきたのは俺だ。小四のときだ。親父には反対された。でも、置いた」
「置いたんですか」
「置いた」
あまりにも説明が雑だ。
小学四年生の柳井湊が、父親を論破する姿がありありと浮かんだ。
「白かった。まるくて、鈍くて、階段から三回落ちた」
「大丈夫だったんですか」
「三回とも無傷だった。頑丈だった」
猫の思い出なのに、四半期決算の報告と変わらない調子で話している。
でも、真顔なのに、とても大切な思い出のように話している。
「お名前は?」
「……」
「お名前は?」
少し迷うような間のあと、テレビを見たまま答えた。
「――『ムギ』だ」
ムギ。
「小麦の麦と書いて、ムギだ。俺がつけた」
「小四の柳井少年が」
「悪いか」
「ふふっ。いえ、まったく。かわいいです」
私が笑うと、彼は少しだけ顔をしかめた。
「白くて、丸かった。焼く前のパンみたいだったから、そう呼んだ」
「パンから麦。発想が逆算です」
「合理的だろう」
「四年生から合理的なの、こわいです。……ぷっ」
言ってから、私は思わず吹き出した。
「笑うな」
「あはっ。笑ってませんって……けほっけほっ」
「やっぱり笑っているじゃないか」
笑ったら咳が出て、咳が出たら涙が出て、それでも笑いが止まらなかった。
呆れたような視線を向けられたあと、立ち上がって水を取りに行く背中を見送った。
差し出されたグラスを受け取りながら、ふと気づいた。
この人、怒ってない。
「笑うな」と言っておきながら、私が笑うのを本気で止めようとはしていない。
――それに。
名前を言うまでの、あの間はなんだったんだろう。
テレビを見たまま、なかなか口を開かなかった、あの数秒。
考えかけて、やめた。
たぶん、深い意味なんてない。
テレビの光が、下ろした前髪の陰を揺らしていた。
――ああ、まずい。
その夜、私はなかなか寝つけなかった。
熱は、三十六度八分。
もう、言い訳に使える数字は、どこにもなかった。
今日は北海道の牧場で、犬が羊を追いかけている。
隣では、腕を組んだ柳井副社長がまた真顔で画面を見ている。その口元から、ぼそっと何かが聞こえた気がした。
……この人、ひょっとしなくても……
「副社長……」
「なんだ」
「いま『かわいい』って言いました?」
「言ってない」
「聞こえました」
「熱で幻聴でも聞こえたんだろう」
「じゃあ、そういうことにして、今から聞こえるのもきっと幻聴ですよ?」
番組の中で子羊が転ぶと、彼の眉がわずかに動いた。
「……実家に、猫がいた」
ひどく何気ない調子だったけれど、この人が自分の話をするのは初めてだった。
「拾ってきたのは俺だ。小四のときだ。親父には反対された。でも、置いた」
「置いたんですか」
「置いた」
あまりにも説明が雑だ。
小学四年生の柳井湊が、父親を論破する姿がありありと浮かんだ。
「白かった。まるくて、鈍くて、階段から三回落ちた」
「大丈夫だったんですか」
「三回とも無傷だった。頑丈だった」
猫の思い出なのに、四半期決算の報告と変わらない調子で話している。
でも、真顔なのに、とても大切な思い出のように話している。
「お名前は?」
「……」
「お名前は?」
少し迷うような間のあと、テレビを見たまま答えた。
「――『ムギ』だ」
ムギ。
「小麦の麦と書いて、ムギだ。俺がつけた」
「小四の柳井少年が」
「悪いか」
「ふふっ。いえ、まったく。かわいいです」
私が笑うと、彼は少しだけ顔をしかめた。
「白くて、丸かった。焼く前のパンみたいだったから、そう呼んだ」
「パンから麦。発想が逆算です」
「合理的だろう」
「四年生から合理的なの、こわいです。……ぷっ」
言ってから、私は思わず吹き出した。
「笑うな」
「あはっ。笑ってませんって……けほっけほっ」
「やっぱり笑っているじゃないか」
笑ったら咳が出て、咳が出たら涙が出て、それでも笑いが止まらなかった。
呆れたような視線を向けられたあと、立ち上がって水を取りに行く背中を見送った。
差し出されたグラスを受け取りながら、ふと気づいた。
この人、怒ってない。
「笑うな」と言っておきながら、私が笑うのを本気で止めようとはしていない。
――それに。
名前を言うまでの、あの間はなんだったんだろう。
テレビを見たまま、なかなか口を開かなかった、あの数秒。
考えかけて、やめた。
たぶん、深い意味なんてない。
テレビの光が、下ろした前髪の陰を揺らしていた。
――ああ、まずい。
その夜、私はなかなか寝つけなかった。
熱は、三十六度八分。
もう、言い訳に使える数字は、どこにもなかった。