氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
髪を洗って、身体を洗って、ちゃんと人間の顔に戻る。
用意されていたパジャマを着て、タオルで髪をぐしゃぐしゃ拭きながら脱衣所のドアを開けて――固まった。
廊下に、柳井副社長が立っていた。
その手に、シルバーのドライヤーを持って。
「座れ」
「えっ」
「湯冷めする。座れ」
「あの、自分でできます」
「髪が長い。時間がかかる」
「それは、そうですけど」
「座れ」
三回目の「座れ」は、もう命令ですらなかった。
ただの事実確認みたいな響きだった。
この人の中では、私が座ることはすでに決定事項なのだ。
ラグの上に正座をすると、背後に人の気配が下りてくる。
ごうっ、と風の音がした。
最初の一分は、生きた心地がしない。
男の人に髪を乾かされるなんて、人生で一度もなかった。
美容師さんは職業だから別として、これはどう考えてもそうじゃないんじゃなかろうか。
二分を過ぎたあたりから、様子がおかしいことに気づく。
――うまい。
無骨なのに、手つきは妙に丁寧だった。根元から髪を持ち上げて風を当て、毛先には熱を当てすぎない。地肌を撫でる指の力も一定で、壊れ物でも扱うように慎重だ。
「……副社長」
「なんだ」
「お上手ですね」
「調べた」
また調べたのか。
この人の検索履歴は、今ごろ大変なことになっていると思う。
四半期決算と、インフルエンザの看病と、お粥の作り方と、髪の乾かし方。
笑おうとして、できなくて、喉の奥が詰まる。
ドライヤーの音だけが続いているのに、会話がないことは少しも気まずくなかった。温かい風と、規則正しい手の動きに、張りつめていたものがほどけていく。
四日ぶりに、自分がどれだけ疲れていたかを知った。
プロジェクトリーダーに決まった日から、私は一度も誰かに何かを任せたことがなかった。
抜擢されたのは私で、失敗したら私で……だから全部ひとりでやらなければいけないと思っていた。
そう思い込んでいただけなのだと、今になってわかった。そこで、髪を梳いていた手が止まった。
「……ピアス」
ぽつり、と彼が言った。
「え?」
「していないな」
私は、無意識に右の耳たぶに触れた。
「なくしちゃったんです。片方だけ。一週間くらい前に」
「そうか」
「初任給で買ったお気に入りだったので、ちょっとショックで」
背後で、空気が動いた気がした。
けれど何も返ってこないまま、またドライヤーのスイッチが入る。風の音に、それ以上の会話は流されていった。
髪が乾いても、背後の気配はすぐには離れなかった。
スイッチを切ってから、たっぷり数秒。
それから、静かな声が落ちてきた。
「……こんな細い首で」
「え」
「よく、あれだけの仕事を抱え込んだな」
心臓が、ひとつ、今までにないほど大きく鳴った。
前を向いたまま、膝の上で指を握る。
「……私が言い出した企画なので」
「知っている」
「私がやらないと、誰もやらないので」
「それも知っている」
そのまま続ける。
「だが、お前が壊れたら、企画ごと消える」
「はい」
「お前が壊れたら、意味がない」
「……すいませんでした」
「謝ることじゃない」
振り返れなかった。
振り返ったら、たぶん、顔がひどいことになっていた。
目の奥が熱くて、鼻の奥が痛くて……私は必死で天井を見上げた。
誰も、そんなことは言ってくれなかった。頑張れとも、期待しているとも、結果を出せとも言われたけれど、「お前が壊れたら意味がない」と言ってくれた人は、ひとりもいなかった。
「じゃあ、ありがとうございます」
「礼を言われることでもない」
「いえ、言わせてください」
少しして、背後から短く息を吐く音がした。
「……ああ」
それだけ言うと立ち上がり、ドライヤーを片付けて自分の階へ戻っていくのを、私はしばらくラグの上から見つめていた。
用意されていたパジャマを着て、タオルで髪をぐしゃぐしゃ拭きながら脱衣所のドアを開けて――固まった。
廊下に、柳井副社長が立っていた。
その手に、シルバーのドライヤーを持って。
「座れ」
「えっ」
「湯冷めする。座れ」
「あの、自分でできます」
「髪が長い。時間がかかる」
「それは、そうですけど」
「座れ」
三回目の「座れ」は、もう命令ですらなかった。
ただの事実確認みたいな響きだった。
この人の中では、私が座ることはすでに決定事項なのだ。
ラグの上に正座をすると、背後に人の気配が下りてくる。
ごうっ、と風の音がした。
最初の一分は、生きた心地がしない。
男の人に髪を乾かされるなんて、人生で一度もなかった。
美容師さんは職業だから別として、これはどう考えてもそうじゃないんじゃなかろうか。
二分を過ぎたあたりから、様子がおかしいことに気づく。
――うまい。
無骨なのに、手つきは妙に丁寧だった。根元から髪を持ち上げて風を当て、毛先には熱を当てすぎない。地肌を撫でる指の力も一定で、壊れ物でも扱うように慎重だ。
「……副社長」
「なんだ」
「お上手ですね」
「調べた」
また調べたのか。
この人の検索履歴は、今ごろ大変なことになっていると思う。
四半期決算と、インフルエンザの看病と、お粥の作り方と、髪の乾かし方。
笑おうとして、できなくて、喉の奥が詰まる。
ドライヤーの音だけが続いているのに、会話がないことは少しも気まずくなかった。温かい風と、規則正しい手の動きに、張りつめていたものがほどけていく。
四日ぶりに、自分がどれだけ疲れていたかを知った。
プロジェクトリーダーに決まった日から、私は一度も誰かに何かを任せたことがなかった。
抜擢されたのは私で、失敗したら私で……だから全部ひとりでやらなければいけないと思っていた。
そう思い込んでいただけなのだと、今になってわかった。そこで、髪を梳いていた手が止まった。
「……ピアス」
ぽつり、と彼が言った。
「え?」
「していないな」
私は、無意識に右の耳たぶに触れた。
「なくしちゃったんです。片方だけ。一週間くらい前に」
「そうか」
「初任給で買ったお気に入りだったので、ちょっとショックで」
背後で、空気が動いた気がした。
けれど何も返ってこないまま、またドライヤーのスイッチが入る。風の音に、それ以上の会話は流されていった。
髪が乾いても、背後の気配はすぐには離れなかった。
スイッチを切ってから、たっぷり数秒。
それから、静かな声が落ちてきた。
「……こんな細い首で」
「え」
「よく、あれだけの仕事を抱え込んだな」
心臓が、ひとつ、今までにないほど大きく鳴った。
前を向いたまま、膝の上で指を握る。
「……私が言い出した企画なので」
「知っている」
「私がやらないと、誰もやらないので」
「それも知っている」
そのまま続ける。
「だが、お前が壊れたら、企画ごと消える」
「はい」
「お前が壊れたら、意味がない」
「……すいませんでした」
「謝ることじゃない」
振り返れなかった。
振り返ったら、たぶん、顔がひどいことになっていた。
目の奥が熱くて、鼻の奥が痛くて……私は必死で天井を見上げた。
誰も、そんなことは言ってくれなかった。頑張れとも、期待しているとも、結果を出せとも言われたけれど、「お前が壊れたら意味がない」と言ってくれた人は、ひとりもいなかった。
「じゃあ、ありがとうございます」
「礼を言われることでもない」
「いえ、言わせてください」
少しして、背後から短く息を吐く音がした。
「……ああ」
それだけ言うと立ち上がり、ドライヤーを片付けて自分の階へ戻っていくのを、私はしばらくラグの上から見つめていた。