氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
六日目の夕方、台所に立つ。
今日は「監督」ではなく、二人で作ることになっていた。
というより、彼が自分から「やる」と言った。
「粥でいいか」
「私、もう普通のものが食べられますけど」
「……粥だ」
理由は、鍋の前に立つ姿を見ればすぐにわかった。五日かけて覚えたものを、最後にもう一度作りたかったのだ。
鍋の前に立った彼の手つきは、初日とは別人。
〇・一グラム単位の計量はもうしていない。
米の量を目分量で決めて、水を足して、火加減を一度だけ確かめる。
「早くなりましたね」
「五回やった」
「五回で身につくものですか、普通」
「覚えれば済む話だ」
覚えれば済むというのは、この人にとって世界のたいていのことはそうなのだろう。
できあがった粥を、白磁の器に盛った。ひと口食べて、目を見開く。
「おいしいです!」
「……嘘は」
「嘘じゃないです。本当においしいです」
向かいでスプーンが止まり、視線がこちらへ向く。少しして、ぼそりと返ってきた。
「そうか」
たったそれだけだったけど、この一週間で聞いたどの言葉より、嬉しそうに聞こえて、私はうつむいて粥を口に運んだ。
――もう、作る機会なんてあるわけないのに。
そう思ってしまって、味がわからなくなった。
片付けをしようと、白磁の器を元の場所に戻そうとする。
吊り戸棚の一番上。
この家のすべてが、私の身長を想定していない。
つま先立ちになって、指先が棚板に届いて――バランスが崩れる。
「あっ!」
器が手から離れ、落ちると思った瞬間、背後から伸びた腕が宙でそれをつかみ、同時にもう一方の腕が腰へ回って身体ごと引き戻された。背中にぶつかったのは、人の胸だった。
「……危ないだろう」
耳のすぐ上で、声がして振り返ったのが間違いだった。
振り返った先の顔は、息が触れそうなくらい近かった。
彼の手は、まだ私の腰にあった。
もう片方の手は器を持ったまま、カウンターの上に置かれて――つまり私は、カウンターと彼の腕の間に、完全に閉じ込められていた。
いつもなら決断の速い人が、なぜかそのまま動かない。時間だけが妙に引き延ばされた。
視線が私の目から少しだけ下がった瞬間、息ができなくなった。器を持っていないほうの手が、ゆっくりと上がってくる。
あと一センチもないところまで来た指先は、頬に触れる寸前で止まった。その手はゆっくり握り込まれ、そのまま下ろされた。
「……すまない」
腰から腕が離れて、体温が遠のいて、私はようやく息を吸った。
「……いえ」
「棚は、俺がやる。二度と上を取ろうとするな」
「はい」
器を棚に戻して、そのままキッチンを出ていく背中が少し速かった。
――今、何が起きた?
いや、何も起きていない。
何も起きなかったのに、カウンターにもたれたまま、しばらく動けない。
それなのに、心臓が、まだ痛い。
そして、何より最悪なのは。
私が、目を閉じかけたことだった。
今日は「監督」ではなく、二人で作ることになっていた。
というより、彼が自分から「やる」と言った。
「粥でいいか」
「私、もう普通のものが食べられますけど」
「……粥だ」
理由は、鍋の前に立つ姿を見ればすぐにわかった。五日かけて覚えたものを、最後にもう一度作りたかったのだ。
鍋の前に立った彼の手つきは、初日とは別人。
〇・一グラム単位の計量はもうしていない。
米の量を目分量で決めて、水を足して、火加減を一度だけ確かめる。
「早くなりましたね」
「五回やった」
「五回で身につくものですか、普通」
「覚えれば済む話だ」
覚えれば済むというのは、この人にとって世界のたいていのことはそうなのだろう。
できあがった粥を、白磁の器に盛った。ひと口食べて、目を見開く。
「おいしいです!」
「……嘘は」
「嘘じゃないです。本当においしいです」
向かいでスプーンが止まり、視線がこちらへ向く。少しして、ぼそりと返ってきた。
「そうか」
たったそれだけだったけど、この一週間で聞いたどの言葉より、嬉しそうに聞こえて、私はうつむいて粥を口に運んだ。
――もう、作る機会なんてあるわけないのに。
そう思ってしまって、味がわからなくなった。
片付けをしようと、白磁の器を元の場所に戻そうとする。
吊り戸棚の一番上。
この家のすべてが、私の身長を想定していない。
つま先立ちになって、指先が棚板に届いて――バランスが崩れる。
「あっ!」
器が手から離れ、落ちると思った瞬間、背後から伸びた腕が宙でそれをつかみ、同時にもう一方の腕が腰へ回って身体ごと引き戻された。背中にぶつかったのは、人の胸だった。
「……危ないだろう」
耳のすぐ上で、声がして振り返ったのが間違いだった。
振り返った先の顔は、息が触れそうなくらい近かった。
彼の手は、まだ私の腰にあった。
もう片方の手は器を持ったまま、カウンターの上に置かれて――つまり私は、カウンターと彼の腕の間に、完全に閉じ込められていた。
いつもなら決断の速い人が、なぜかそのまま動かない。時間だけが妙に引き延ばされた。
視線が私の目から少しだけ下がった瞬間、息ができなくなった。器を持っていないほうの手が、ゆっくりと上がってくる。
あと一センチもないところまで来た指先は、頬に触れる寸前で止まった。その手はゆっくり握り込まれ、そのまま下ろされた。
「……すまない」
腰から腕が離れて、体温が遠のいて、私はようやく息を吸った。
「……いえ」
「棚は、俺がやる。二度と上を取ろうとするな」
「はい」
器を棚に戻して、そのままキッチンを出ていく背中が少し速かった。
――今、何が起きた?
いや、何も起きていない。
何も起きなかったのに、カウンターにもたれたまま、しばらく動けない。
それなのに、心臓が、まだ痛い。
そして、何より最悪なのは。
私が、目を閉じかけたことだった。