氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
 それからのことは、はっきり覚えていない。
 たぶん、話しながら眠ってしまったのだと思う。
 平熱とはいえ、まだ回復したばかりの身体だ。次に意識が浮かんだとき、私は宙に浮いていた。

 ――抱き上げられている。

 最初の日と同じだった。あのときと違うのは、頭がちゃんと働いていること。

 起きている、と言えなかった。
 言ったら、下ろされてしまう気がしたから、ずるく目を閉じたままでいた。

 廊下を歩く足音。ドアが開く音。シーツの感触。
 ゆっくりと、壊れ物でも置くようにベッドへ下ろされる。髪に触れたのは、乾かしてくれたときと同じ手だった。額にかかった前髪を、指先がそっと横へ流していく。

 その手が止まり、そのまましばらく動かなかった。

「……紬」

 初めてだった。
 名字じゃなく、肩書きの向こう側からじゃなく、ただの名前で呼ばれたのは。
 そんな声音を、会社では一度も聞いたことがない。

「……明日、帰す」

 私以外の誰も知らない独り言。

「帰さなきゃいけない」

 髪から手が離れ、足音が遠ざかっていく。

 ――帰りたくない。

 そんなことを思ったのは、生まれて初めてだった。

 仕事が好きで、一人でやってきて、誰にも頼らないのが当たり前で。
 そんな私がたった七日で、この人の手を手放したくないと思ってしまった。

 明日の朝、私は笑ってお礼を言う。
 ちゃんと頭を下げて、ちゃんと帰る。
 それが、大人の、正しいやり方だって知っているから。

 ――でも、今夜だけ。

 今夜だけは、泣いてもいいことにした。
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