氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
◇
立花紬が眠っている。
客室のドアは開けないと決めている。
だから俺が確認できるのは、廊下から漏れる明かりが消えたかどうかと、朝、沢口さんが置いていくメモだけ。
『よくお休みでした』
その一行を読むためだけに、毎朝いちばんに起きている。
二年前の役員会を、はっきりと覚えている。
社内公募の最終選考。
二十五歳の入社三年目が、役員十二人の前に立った。
資料は完璧だった。数字も、市場規模も、競合分析も、隙がないほどに。
問題はその後。
最後のページをめくったとき、あの女は原稿から目を上げると、声を震わせながら言った。
――この果物を作っている人たちを、見てほしいんです。
会議室が静かになった。
そのとき自分が何を考えたかを、はっきり覚えている。
この企画は通る、でもなかった。数字が甘い、でもなかった。
――ああ、まずいな。
それだけだった。
役員会は割れた。慎重派が多かった。俺が最後に「やらせる」と言った。
判断としては正しかったと今でも思う。
思うが、私情がゼロだったかと訊かれたら、黙るしかない。
それが、この二年、ずっと喉に刺さっている。
先週の火曜日、十七時過ぎ。
役員フロアのエレベーターホールで、床に小さな光を見つけた。
「……真珠のピアス?」
直前にそこを通ったのが誰か……思い出す必要もない。
プロジェクトの中間報告があった日、彼女は決まってこういう日にだけ、それをつけている。
拾って、内ポケットに入れた。
その日のうちに返すつもりだったはずが、翌日も、その翌日も、そう思っていた。
結局、返していない。理由は自分でわかっているし、わかっているからこそ性質が悪い。
返してしまえば、彼女に近づく理由が、手元からひとつもなくなる。
三十四歳にもなって、十六の子どもみたいなことをしている。
廊下で座り込んでいるのを見つけた瞬間のことは、思い出したくない。
名前を呼んだ声が、みっともないほど震え、額に触れた手が熱を感じ取った瞬間、頭の中が真っ白になった。
診察が終わったあと、彼女の家ではなく自分の家へ連れ帰ったのは、まともな判断ではなかった。
あれは、ただの私物化だ。
この一週間、同じことをずっと繰り返し考えている。
――明日こそ、帰さなければならない。
そう思いながら、翌朝には食器を買い、果物を取り寄せ、粥の作り方を検索している。
彼女が「足りすぎてます」と笑うのを見るたび、必要という言葉を言い訳にして、際限なく物を増やした。
女性への愛情の示し方がわからないわけではない。
なのに、彼女にはなんでも与えたくなってしまう。
宅配の男が連絡先を訊いたとき、何も言葉を発することなくドアを閉めた。
あの瞬間の自分の感情に、名前をつけたくなかった。
平熱に戻ったと報告してきたときも、心底嬉しそうに笑った。
俺は「そうか」と言ったけれど、本心は全く違うことを考えていた。
――惜しい。
人が治るのを惜しいと思う日が来るとは、思わなかった。
最低だと思う。だから、明後日の朝には必ず送る。
この家にいる限り、飯も、薬も、屋根も、全部俺が出している。
その状態で好きだと言うのは、取引だ。
断れない相手に差し出すものを、好意とは呼ばない。
だから帰す。ちゃんと元気にして、自分の足で立たせ、いつでも俺を切れる場所に戻してから、そのうえで言う。
内ポケットの中で、小さな真珠が一粒、まだ行き場を失っている。
――返しに行く口実は、もう、これしか残っていない。
◇
立花紬が眠っている。
客室のドアは開けないと決めている。
だから俺が確認できるのは、廊下から漏れる明かりが消えたかどうかと、朝、沢口さんが置いていくメモだけ。
『よくお休みでした』
その一行を読むためだけに、毎朝いちばんに起きている。
二年前の役員会を、はっきりと覚えている。
社内公募の最終選考。
二十五歳の入社三年目が、役員十二人の前に立った。
資料は完璧だった。数字も、市場規模も、競合分析も、隙がないほどに。
問題はその後。
最後のページをめくったとき、あの女は原稿から目を上げると、声を震わせながら言った。
――この果物を作っている人たちを、見てほしいんです。
会議室が静かになった。
そのとき自分が何を考えたかを、はっきり覚えている。
この企画は通る、でもなかった。数字が甘い、でもなかった。
――ああ、まずいな。
それだけだった。
役員会は割れた。慎重派が多かった。俺が最後に「やらせる」と言った。
判断としては正しかったと今でも思う。
思うが、私情がゼロだったかと訊かれたら、黙るしかない。
それが、この二年、ずっと喉に刺さっている。
先週の火曜日、十七時過ぎ。
役員フロアのエレベーターホールで、床に小さな光を見つけた。
「……真珠のピアス?」
直前にそこを通ったのが誰か……思い出す必要もない。
プロジェクトの中間報告があった日、彼女は決まってこういう日にだけ、それをつけている。
拾って、内ポケットに入れた。
その日のうちに返すつもりだったはずが、翌日も、その翌日も、そう思っていた。
結局、返していない。理由は自分でわかっているし、わかっているからこそ性質が悪い。
返してしまえば、彼女に近づく理由が、手元からひとつもなくなる。
三十四歳にもなって、十六の子どもみたいなことをしている。
廊下で座り込んでいるのを見つけた瞬間のことは、思い出したくない。
名前を呼んだ声が、みっともないほど震え、額に触れた手が熱を感じ取った瞬間、頭の中が真っ白になった。
診察が終わったあと、彼女の家ではなく自分の家へ連れ帰ったのは、まともな判断ではなかった。
あれは、ただの私物化だ。
この一週間、同じことをずっと繰り返し考えている。
――明日こそ、帰さなければならない。
そう思いながら、翌朝には食器を買い、果物を取り寄せ、粥の作り方を検索している。
彼女が「足りすぎてます」と笑うのを見るたび、必要という言葉を言い訳にして、際限なく物を増やした。
女性への愛情の示し方がわからないわけではない。
なのに、彼女にはなんでも与えたくなってしまう。
宅配の男が連絡先を訊いたとき、何も言葉を発することなくドアを閉めた。
あの瞬間の自分の感情に、名前をつけたくなかった。
平熱に戻ったと報告してきたときも、心底嬉しそうに笑った。
俺は「そうか」と言ったけれど、本心は全く違うことを考えていた。
――惜しい。
人が治るのを惜しいと思う日が来るとは、思わなかった。
最低だと思う。だから、明後日の朝には必ず送る。
この家にいる限り、飯も、薬も、屋根も、全部俺が出している。
その状態で好きだと言うのは、取引だ。
断れない相手に差し出すものを、好意とは呼ばない。
だから帰す。ちゃんと元気にして、自分の足で立たせ、いつでも俺を切れる場所に戻してから、そのうえで言う。
内ポケットの中で、小さな真珠が一粒、まだ行き場を失っている。
――返しに行く口実は、もう、これしか残っていない。
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