氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
 目を開けて最初に思ったのは、天井が高い、だった。
 次に、ここ自体が高い場所にあるのだと気づいた。
 ぼんやりした頭で横を向くと、視界のほとんどが窓で、都心の夜景が絵みたいに広がっている。
 しかも、ビルの明かりがぜんぶ自分より下にあった。

 ――夢だな。

 そう結論づけて目を閉じかけたところで、身体の重さと関節の痛み、喉の渇きが一気に戻ってくる。

「夢じゃない!!」

 勢いよく起き上がろうとして、眩暈に襲われそのままベッドへ沈んだ。
 落ち着け、立花紬。状況を整理しろ。
 最後の記憶はクリニックを出て、車に乗せられて、それから――。

 そうだ。
 副社長が「俺の家へ」と言った。

 顔が熱くなった。今度こそ熱のせいだと思いたい。

 そこで、ようやく自分の服に気づく。
 着ていたはずのブラウスとスカートではなく、柔らかいコットンの、明らかに新品の女性もののパジャマだった。
 一気に血の気が引いたところで、ドアが静かに開いた。

「あ、お目覚めですか」

 五十代くらいの女性が顔を覗かせる。エプロン姿で、マスクの上の目元が笑っていた。

「家政婦の沢口と申します。お召し替えは私がさせていただきました。柳井様はこのお部屋には一歩も入っておりませんので、ご安心くださいね」

 私の顔に全部書いてあったらしい。

「……ありがとうございます。すみません、ご迷惑を」
「迷惑だなんてとんでもない。お熱、どうです?」

 差し出された体温計を脇に挟み、しばらくして表示された数字は三十八度四分。
 一応、下がってはいる。でも、下がってこれか。

「お水と、病院からいただいたお薬です。それから、お帰りになってから柳井家のかかりつけの先生にも診ていただいたんですよ。水分が足りていないからと点滴をされましたけど、覚えていらっしゃらない?」

 まったく覚えていない。
 腕を見ると、確かに絆創膏が貼ってあった。

 病院のあとに往診に、しかも点滴?
 この人たちの生きている世界の解像度が、私とは違いすぎる。

 沢口さんが下がってしばらくすると、ドアが小さくノックされた。

「起きたか」

 入ってきたのは柳井副社長――のはずなのに、一瞬、誰だかわからなかった。
 ネクタイもジャケットもなく、シャツの袖を肘までまくり、いつもきっちり上げている前髪も少し落ちている。
 マスクはしているけれど、それを差し引いても会社で見る姿とは別人で、三十四歳の副社長ではなく、ただの三十四歳の男の人に見えた。

「……熱、三十八度四分でした」
「知っている。沢口さんから聞いた」

 ベッドから二メートルほど離れた椅子へ腰を下ろす。距離の取り方が、やけに正確だ。

「状況を説明する。ここは俺のマンションだ」
「マンション」
「客室はいくつかある。お前が今いるのがそのひとつだ。俺の生活空間とは階が違う」

 階が違う。家の中で……?

「あの、副社長」
「なんだ」
「私、帰ります」

 言った直後に、空気が変わった気がした。

「えっと、今すぐは無理だと思いますけど、明日の朝には。タクシーを呼んでいただければ」
「却下だ」
「でも、これ以上ご迷惑を」
「さっきも言っただろう。一人暮らしの部屋に帰す気はない。倒れても誰も気づかないし、何かあっても呼べない」
「私、大人なので」
「大人は廊下で座り込まない」

 同じことを二度言われて、今度こそ反論できなくなった。

「それに……心配だから帰さない」

 心臓がまた跳ねた。
 熱のせいだ。絶対にそうだ。それ以外、考えられないのに。

「……その、感染とか」
「予防接種は済んでいる。今日の往診で医師にも相談して、必要な手配はした。沢口さんも同じだ。この部屋の換気と空気清浄機も動かしている」
「準備がよすぎませんか」
「当然の手配だ」

 この人の当然は、たぶん世間の当然の三段くらい上にあるんじゃなかろうか。
 立ち上がりながら、こちらを見ずに続ける。

「お前が抜けた状態でプロジェクトを回すより、お前を万全に戻すほうが早い。投資判断だ」
「ああ!なるほど……!そういうことなんですね」

 納得した。同時に、ほんの少しだけ何かがしぼんだ。
 この人にとって私は、動かなくなったら困る資産なのだから。
 それは、とても正しいことのように思えた。
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