氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
 三十分後、彼は盆を持って戻ってきた。
 載っていたのは、おかゆと、経口補水液、それとりんごのすりおろし。

「食え」
「あの、副社長が運んでくださらなくても」
「沢口さんが帰る前に用意した。もう夜だ」

 その言葉の意味を考えた瞬間に答えが出て、スプーンを取り落としそうになる。

 ――この人、私の世話をする気なの?

「食べれるだけで構わないから食え。薬を飲むには何か入れる必要がある」

 言われるがままに一口食べると、全然味がしない。でも、インフルエンザのせいかもしれない。
 それでも、なによりあたたかい温度に、ほっとする。
 食べている間、柳井副社長は少し離れた椅子で、手元のタブレットを黙って読んでいた。

 仕事だろうか……なんて考えていると、ふとこちらを向いた瞬間に画面が見えた。

 ――『インフルエンザ 看病 注意点』。

「副社長……」
「なんだ」
「今、何を読んで」
「仕事だ」

 タブレットが伏せられた。
 必死で笑いをこらえて、おかゆを飲み込む。
 少しだけ喉に痛みが走り、涙が出そうになるけれど半分はたぶん別の理由。

 薬を飲んで、横になって、電気を落としてもらっても、なかなか眠れない。
 身体は限界で頭痛もあるのに、意識だけが妙に冴えている。熱があるときの、あの独特の感じだ。

 部屋の隅で小さな読書灯がついた。柳井副社長はまだ椅子に座り、膝の上のノートパソコンで仕事を続けている。

「……副社長、お仕事なら、ご自分のお部屋のほうが」
「どこでもできる」
「私、寝ますから。もう大丈夫ですから」
「寝ろ」
「ですから……」
「俺はお前が寝るまで動かない」

 キーボードを叩く音が規則正しく続き、不思議とそれまで心地よく聞こえてくる。
 視界の端に、その横顔だけがぼんやりと浮かんでいる。
 無表情で、隙がなくて、でも、なぜかここにいる。

 ――なんで、そんなに。

 訊きたいのに、訊いてはいけないような。
 喉まで出かかった言葉は、押し寄せてきた眠気にあっけなく押し流されて、私はそのまま、落ちるように眠った。
 眠る直前、読書灯の明かりが、ほんの少しだけこちらに傾けられた気がした。

 まぶしくないように。
 ――たぶん、それも、熱のせいで見た夢だ。
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