氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
 二日目の朝、目が覚めたとき、部屋には誰もいなかった。
 椅子に上着がかかっていないのを見て、なぜかほっとして、なぜか少しだけがっかりした。

 体温は三十七度八分。
 まだ高いけれど、昨日とは世界の見え方が違う。
 ちゃんと天井の模様が見えるし、ちゃんと自分の指が数えられる。

 ベッドを降りて、ゆっくり歩いてみた……倒れないって素晴らしい。
 恐る恐る部屋を出て廊下を進むと、リビングらしき空間にたどり着いて――立ち止まった。

 箱があった。
 いや、箱の山だ。

 キッチンのカウンターに、きれいに並べられた包み。
 どれも明らかに「そういう店」の包装で、リボンの結び方が素人のそれじゃない。
 誕生日か、表彰式か。とにかく、何かのお祝いでしか見たことのない箱だ。

「なに、これ……?」

 いちばん手前の箱のふたが、少し開いていた。

「ひぇっ」

 中を覗いて、思わず声を出す。
 喉が渇いているせいか、痛めているせいか、声が少し枯れている。
 いや、問題はそこじゃなくて……箱の中身だ……

 縁に細い金の線が入っていて、内側に淡い青で果実の絵付けがしてある。

 ――知ってる……これ、知ってる!
 実家の食器棚の奥に、母が「割れるから」と言って絶対に使わせてくれなかったシリーズ。

 一枚の値段を知ったとき、小学生の私は本気で目眩がした。
 その皿が、カップが、ボウルが、スープ皿が。
 それら一式が揃っていた。

「起きたのか」

 背後から声がして、私は飛び上がった。
 柳井副社長が、キッチンの向こうに立っている。
 今日はシャツにスラックス。休日仕様ではあるけれど、相変わらず隙がない。

「副社長、あの……目に入ってしまい」
「君が使う食器だ」
「はっ!?私の、ですか?」
「昨日、紙の器で食べていただろう」
「衛生的で合理的だと思います」
「味気ない」

 そう言って、彼はカウンターの別の袋を指差した。

「それと、着替えだ。同じものを何日も着せるわけにいかない」
「ちょっ……待ってくださ、ごほっごほっ」

 袋の中を見て、盛大に咳込む。
 くすんだピンクの、もこもこしたルームウェア。
 私が休日に着ているのと、同じブランドの、同じシリーズの。
 サイズも……ちゃんと合っている。

「……副社長」
「なんだ」
「なんで私が、このブランドを着てるってご存じなんですか」
「オンライン会議で映っていた」

 映ってた。
 去年の年末、在宅勤務中に急な会議が入って、上半身だけ慌てて羽織って参加したことがある。
 あのとき役員も見ていた。見ていたけど、覚えてるものか、普通。

「……一年近く前ですけど」
「記憶力には自信がある」

 それはそう。この人は四半期ごとの数字を一度で覚える。でも。
 私のパジャマも、そこに入るのか……?

「それから、冷蔵庫を開けろ」

 言われるままに開けた。
 開けて、閉めた。
 もう一度開けた。

 白と金の箱が、段ごとにびっしり並ぶ。
 銀座の老舗フルーツ店の、あの意匠。
 カットされた桃、シャインマスカット、メロン、いちじく、洋梨。透明なカップの中で、宝石みたいに光っている。

 ゆっくり振り返った。

「……これは?」
「果物だ」
「それは、見たらわかります……お中元、の時期はもう過ぎてます……」
「君のに決まっている。足りないなら言え」
「足りてます! 足りすぎてます!げほっごほっ……」

 久しぶりに大きな声が出て、再び咳き込む。
 背中をさすられそうになって、彼の手が空中で止まる代わりに、水の入ったグラスが差し出された。

「熱があるときは、食べやすいものがいい。お前は果物が好きだろう」
「……なんで、それも」
「企画書に書いてあった」

 ――ああ。
 そうだ。書いた。
 新規事業の企画書、その最後のページに私は自分の話を書いた。

 実家が、小さな果樹園をやっていること。
 父が作った桃が、どこよりもおいしかったこと。
 それなのに、規格から外れたというだけで、毎年たくさんの果物が値のつかないまま捨てられていたこと。

 ――この果物を作っている人たちを、見てほしいんです。

 役員会のプレゼンで、震える声でそう言った。二年前の、まだ何者でもなかった私が。
 あの場に、この人もいた。

「覚えていてくれたんですね。あの、最後のページ」
「全部覚えている。当然だ」

 彼は視線を逸らさなかった。

「いい企画だった。だから通した」

 それだけ言って、彼はカウンターの向こうへ戻っていく。
 私は、冷蔵庫の前に立ち尽くしたまま、なぜか泣きそうになっているのを必死でごまかした。
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