その傷口に、愛を注ぐ
七年間。
『雅也の妻』だった。
雅也の好きな料理。
雅也の好みの服。
雅也の同僚。
雅也の仕事。
雅也の未来。
いつの間にか。
自分の人生なのに。
中心にいるのは、いつも雅也だった。
(私……)
栞は目を閉じた。
(何が好きだったっけ)
分からなかった。
好きだったデザインの仕事を辞めた。
友人とも疎遠になった。
雅也に合わせて。
雅也のために。
自分を削って。
それなのに。
あの男は。
別の女を抱いた。
怒りが。
ゆっくりと胸の底から湧き上がる。
今まで押し殺してきたものが。
熱を持つ。
「……許せない」
声が漏れた。
律は何も言わない。
「私」
栞は目を開けた。
「雅也を許せない」
初めて。
はっきりと言えた。
「はい」
律が微笑む。
その笑顔を見た瞬間。
栞は理解した。
この人は待っていたのだ。
自分がこの言葉を口にする瞬間を。
「栞さん」
律が囁く。
「僕だけのものになってください」
「…………」
「全部終わったら」
怖い。
この人は危険だ。
分かっている。
それでも。
雅也の隣で七年間、自分を殺し続けるより。
この男の狂気に触れている方が。
今はずっと――生きている気がした。
栞はゆっくり手を伸ばした。
律の黒いコートに触れる。
そして。
その首へ腕を回した。
律の瞳が、初めて大きく揺れた。
それを見て。
ほんの少しだけ、栞は笑った。
「……ええ」
自分でも知らなかった声が出る。
冷たく。
静かで。
けれど確かに、怒りを孕んだ声。
「壊しましょう」
律の首に回した腕へ、力を込める。
「あの人が大切にしているものを」
仕事。
地位。
信用。
未来。
私が七年間かけて支えてきたもの。
「全部」
栞は囁いた。
「私を裏切った、あの人から取り上げて」
律はしばらく何も言わなかった。
やがて。
たまらなく愛おしいものを見るように、目を細める。
「――やっと」
「え?」
聞き返したときには。
律の表情は、もういつもの穏やかなものへ戻っていた。
「何でもありません」
「今、何て――」
「帰りましょうか」
「……え?」
「今夜はまだ、何もしません」
律は栞の腕を優しく解いた。
そして。
その手を握る。
指と指が絡む。
「復讐は、急いだらつまらないでしょう?」
栞の背筋を甘い悪寒が走った。
「雅也さんには」
律が微笑む。
「一番幸せな日に、一番大切なものを全部失ってもらいましょう」
暗い車内で。
栞は握られた手を見つめた。
振りほどこうとは思わなかった。
その夜。
栞はまだ知らなかった。
律が見せた黒い手帳。
そこに記されていたのが、雅也の行動だけではないことを。
最後のページには。
栞自身の名前とともに。
彼女がデザイン事務所で働いていた頃からの日付が――
びっしりと記されていた。