『破滅の先で、愛を知る』 〜サレ妻の復讐劇と、危険な年下男の溺愛〜
「何か、お探しですか?」
「……いいえ」
答えてから、栞は俯いた。
花を買いに来たわけではない。
ただ、帰りたくなかっただけだ。
「すみません。私……何しに入ったんでしょうね」
無理に笑おうとした。
うまく笑えなかった。
青年は何も聞かなかった。
どうしましたか、とも。
何かありましたか、とも。
ただカウンター脇へ歩き、花瓶から一本の花を抜き取った。
深紅のバラだった。
大輪の美しい花。
けれど、一枚だけ花弁の端が傷つき、わずかに色褪せている。
「これ」
青年がバラを見つめる。
「店に出すには、傷があるんです」
「……綺麗なのに」
「ええ」
青年の指が、傷ついた花弁に触れた。
「綺麗ですよ」
その言葉に、胸が痛んだ。
どうしてか分からない。
ただ、そのバラを見ていることが急につらくなった。
青年がゆっくり顔を上げる。
「完璧なものより」
深い瞳が、栞を捉えた。
「少し傷があるくらいの方が、僕は惹かれます」
心臓が跳ねた。
まるで。
自分に言われたような気がした。
「私……」
声が掠れる。
知らない人なのに。
名前さえ知らない人なのに。
「どうしたらいいのか、分からなくて」
一度言葉にしたら、止まらなかった。
「ずっと……ちゃんとしてきたんです」
唇が震える。
「ちゃんとした妻になろうって。あの人が安心して帰ってこられる家にしようって……」
目の前が滲んだ。
「なのに……」
それ以上は言えなかった。
言葉にしてしまえば、本当に終わる気がした。
夫に裏切られた。
七年間を裏切られた。
――私は、選ばれなかった。
そう認めるのが怖かった。
ぽろり。
涙が落ちた。
一度こぼれると、もう止められなかった。
栞は慌てて俯く。
「ご、ごめんなさい……」
泣き声だけは出すまいと唇を噛む。
肩が震えた。
こんなところで。
知らない男の前で。
みっともない。
恥ずかしい。
早く帰らなければ。
そう思うのに、足が動かなかった。
そのとき。
頬に、冷たいものが触れた。
「……え?」
顔を上げる。
青年が、すぐ目の前にいた。
長い指先が、栞の頬を伝う涙をそっと拭っている。
驚いて身体が強張った。
離れなければと思った。
なのに。
動けない。
指先は冷たい。
それなのに、触れられた場所だけが熱を持っていく。
「綺麗な涙ですね」
囁くような声だった。
「……そんなわけ、ないです」
栞は思わず否定した。
「こんなの……ただ、惨めなだけで……」
「違います」
静かな声。
けれど、妙に強かった。
青年は栞から目を逸らさない。
「あなたを傷つけた人間が、醜いだけです」
胸の奥を、何かが貫いた。
誰かにそう言ってほしかった。
自分が悪かったわけではないと。
自分が足りなかったからではないと。
ずっと我慢してきた自分を、誰かに見つけてほしかった。
それが。
名前も知らない青年の言葉だったことが、ひどく怖かった。
そして同じくらい――嬉しかった。